三十四話 旅のお供・3
ルネは砂塵に消えた。
あの砂塵は本当になんなんだろう。
いや、砂塵は砂塵か。
自分が意味のない、まるで何を考えているのか考えるような、現実逃避にも似た思考を弄んでいることは自覚している。
そうした考えに混じって、崖の下に戻りたくないと思う自分も見つけた。
もっと言うと、禍福の顔を見たくなくて、禍福に顔を見られたくない。
緋色はなんと言うだろう。呆れた顔をするか怒った顔をするか、あるいは悪戯っぽく笑ってみせるか。
どんな表情でも思い描ける気がするのに、もっと知っているはずの禍福の表情はとんと浮かばなかった。
まぁ、想像したくないだけなんだろうけど。
引きずるような足取りで来た道を戻る。
戻りたくないと駄々をこねる子供ではいられなかった。時間は限られている。足がなくなった以上、森に帰るのは更に遅くなってしまった。
考えなければいけないことは山積みで、そのためには二人と話をしなければいけない。
緋色の竜馬を借りるか?
幸い、調合薬が詰まった鞄は外していた。それを付け替え……だが、食料はどうする? いくら粗食に耐えるといっても、食べずには動けない。馬に比べれば選択肢の幅は広いけど、こんな荒野では大差ないだろう。
ほんの数分とかからず行った距離だ、戻るにも時間はかからない。
考えがまとまるより早く、足を止めざるを得なかった。
「言いたいことはあるが、後だ」
顔を上げる。
禍福の有無を言わさぬ厳しい眼差しが私を射抜いた。隣で緋色が微笑んだような気もしたが、意識がそこまで向かない。禍福がじっと見てくる。そちらに全ての意識を注いだ。
「問題は足だ」
「分かっている」
「メイディーイルに戻る手がある」
「戻ってどうする?」
「公爵に話を通すしかない、と言いたいが」
そこで言葉を切って、禍福は視線を逸らした。その先には緋色がいる。
緋色は肩を竦め、躊躇いがちに口を開いた。
「これを」
差し出されたのは、……なんだろう。紙?
あぁそうか、思い出した。手紙か。メイディーイルで出掛けに軍団長から渡されたものか。その軍団長は公爵の従者から渡され、差出人も公爵だという。
封は既に切られ、中身が見えるようになっていた。
「見せても分からんだろう」
禍福が鼻を鳴らす。
そんなもの見てみなければ分からないだろうと覗き込んだが、禍福の言う通りだった。
『帝都へ』
内容は、ただそれだけだった。
ただし署名の代わりなのか、深紅の紋様が描かれている。限りなく円に近い弧。
どこかで見た覚えがあった。紋様ではない、深紅の色の方だ。口紅だろうか。森でも若い、結婚を考える年頃の娘(といっても無論、私よりは年上だったが)がヒュームの行商から買ったり、あるいは恋人から贈られたりしたものを付けていた。
その色合いや質感によく似ている。
「口紅か?」
「一目で分かりますか」
「……いや、こういう色は森だと珍しい。若い娘が付ける口紅くらいしか、思い当たるものがなかった」
「若いってな……」
呆れ声が聞こえた気がするも、今はそれどころではないのだろう。
緋色も気に留めず、私も反発する気は起きなかった。なんであれ今の私に文句を言えた筋合いはない。
「ルージュです」
「ルージュ?」
「まぁ、口紅のことですね」
「だったら口紅と――」
「ただの口紅じゃない。ルージュは枢機卿……オールドーズ教会の最上層部の者たちが用いる印だ。そこから直接降りてくる緊急性や重要性の高い報せには、必ず施される。性質上、特命に添えられることが多いんだ」
長くなると察したのだろう。私と緋色のやり取りを遮り、禍福が言った。
ルージュ、枢機卿、特命?
すぐには理解できない話だったが、一つ明確な違和感だけは理解できた。
「どこに公爵が入る余地がある?」
「分かりません。そもそも公爵とは関係なく、どこかですり替えられた可能性が高いかと」
「すり替えるって言っても、渡してきたのは軍団長だぞ」
「オールドーズの手は長い。俺たちだって、その指先だ。公爵自身がオールドーズに傾倒したか、従者か、従者に成りすました何者かか、将軍か。誰だっていい」
禍福は吐き捨てるように息をつき、次いで言い捨てた。
「どうあれ、特命だ」
断ることはできないのだろう。
初めて見る表情だった。苦渋というべきか、なんというべきか。
「帝都には、わたくしが向かいます。至急の二文字がない以上、公爵への報告を済ませてからでも構わないでしょう」
しかし緋色はそこまで重く受け止めていないのか、あっけらかんと言ってのけた。
帝都とメイディーイルとの位置関係は、昨日あれこれ話し合った中で教えられている。帝都が北、メイディーイルが南だ。ただ、その距離までは分からない。一日、二日で往来できる距離ではないと思うが、実際のところはどうか。
「重要なのは特命があったこと、その内容が『帝都へ』と極端に簡潔であること。そしてもう一つ。偶然ではありますが、これが利用できるかもしれないということです」
利用? と首を傾げたのは私だけだった。
先んじて話を済ませていたのだろう、禍福が説明を引き継ぐ。
「ここからメイディーイルまで、歩いて戻れない距離じゃない。そこで俺がメイディーイルに行って、禍福ではない無名のオールドーズとして馬を買う。今の時代、金だけじゃどうにもならないことはあるが、特命を帯びているとなれば話は別だ。協力する者はいるし、最悪、公爵を強請ればいい」
強請るときたか。
だが、私には否を唱える権利などない。唱える気もないが。申し訳ないけど、森と公爵なら森を選ぶ。即決だ。
「その馬で、帝都ではなくこちらに戻ってくる。あとは単純だ。俺と貴様はエルフの森に向かい、緋色は馬でイスネアとメイディーイルを往復した後、帝都に向かう。時間はかかるが、ここから徒歩でイスネアに向かうよりは早い」
これは決定事項か。
口振りから察しないわけにはいかなかった。
緋色は錫杖でバレる。錫杖を置いていけば別だが、そもそも緋色より禍福の方が足は速そうだし体力もあるだろう。私は論外だ。一人でメイディーイルに行って馬を調達するなど不可能である。
他に選択肢はない、か。
しかし、選択肢がないからといって問題もないとは限らない。
「何日かかるんだ?」
「四日か五日、何かあればあるだけ延びる」
そうだろうとも。
竜馬の足は相当に速かった。具体的な距離までは把握していないが、竜馬の足でたった半日ほどとはいえ、人間の足だとどれくらいかかるのか。
その間、私と緋色はここに残ることになる。食料は持つか、そもそも竜馬は従ってくれるか。
残された二頭は、仲間の一頭がいなくなったにもかかわらず昼寝中だった。
互いに寄り添って寝ている。足を折り畳んだ姿は少し窮屈そう。猫なら二匹寄り添って寝る時は丸くなるものだが……と、そうか、丸くなれないのか。
鞍もそうだが、それ以上に鞄が邪魔をしている。足を折り畳んだだけで鞄が地面についてしまって、それ以上は姿勢を低くできない。鞄を押し潰せば丸まれるかもしれないけど、そうしないよう躾けられているはずだ。
そこまで考えれば、見えてくるものもあった。
「邪魔になると、分かっていたのか」
「だろうな」
禍福が感情を覗かせない声で頷く。
竜馬たちは、逃げようと思えばいつでも逃げられた。だが逃げたところで、鞄があっては満足に動けない。それでも人間よりは自由に大地を駆け回れるはずだが、彼らにしてみれば窮屈この上ないだろう。
だから逃げない。逃げないように躾けられていても、呪縛紛いの魔法でも掛けなければ一から十まで言うことを聞かせるなんて無理だ。
鞄は、鎖か。
メイディーイルでは鎖で留めていたが、一度出立すれば荷物になってしまう鎖は持ち歩かない。その鎖に代わるのが鞄だった。本能的に理解していたか、あるいは理性的に把握していたか、どちらにせよ野生に戻るには鞄が邪魔だと分かっていたのだ。
しかしルネは解き放たれた、そういうことか。
「エレカさん……」
緋色が気を遣うような声音で言った。
なるほど、今の私は気を遣わせてしまうような状態らしい。
これは悔悟か? 腹の底にずしりと重いものを感じる。だが、悔悟などと呼びたくはなかった。そんな高尚なものじゃない。もっと低俗で、下劣な、直視し難い何かだ。
「すまない、禍福。緋色も。手間を……、時間もかけさせる」
二人には私に手を貸す道理などなかった。
禍福はどうして私を助けてくれたのだろう。確か、訊ねたこともあった。巡礼の旅は無力を知る旅だとか、そんな答えを返された覚えがある。
救えていないと知りながら、救われたことへの感謝を受け取る。
私だってアーロンの町で感じたことだ。
枯れていく土地では、従前の暮らしなど望めない。それでも生きていくためには生活の質を落とし、なお足りなければ、生きていく命そのものを選ばなければならなかった。口減らしだ。
あの長老を生かすことに意味はあったのか。
老い先短い人間だ。誰も助けられず、悔しい思いはしながらも、代わりに助かる命はあっただろう。天導病の子供もいた。誰か一人を助けるということは、誰か一人を見捨てるということだ。
どうせ死ぬ命であれば、見過ごせばよかったのかもしれない。
長老は、ただ誰より長く生きたというだけで価値ある存在として認められ、その知恵と経験が尊敬を集める。だが、知恵と経験で生み出せる麦と水には限度があった。誰も長老を見殺しにはできないだろうが、その代わりに見殺しにされるのは輝かしい未来を夢見るはずだった子供かもしれない。
なるほど、無力を知らずにはいられないだろう。
しかし、それで手を差し伸べられた私はどうだった?
傲慢に溺れた。ただ与えられる救いに、私は何を返せるというのか。返そうというのか。
あるいは……だが、しかし、それでも森は救わなければならない。調合薬を持ち帰り、森の命を長らえさせる。それが私の意味だ。
傲慢でさえ、飲み干そう。
傲慢。
なんと嫌な響きだろうか。
それは誇りが、私たちの命が腐ってしまった姿である。
「悪いが頼む、禍福。メイディーイルまで――」
自分の失態の穴埋めを、あろうことか自分に手を差し伸べてくれた人物に頼む。
滑稽だと、笑ってしまいそうになっていた。
「待て」
禍福が止める。
いや、いいんだ、と言おうとして、遅まきながら異変を察した。その目は私を見ていない。緋色も怪訝そうだが、禍福は辺りを見回しながら耳を澄ませているようだった。
まるでルネがそうしていたように。
そうだ、禍福は私より緋色より、耳がいい。何故か。人間よりも、獣に近いからだ。
「何か来る」
「何か、ですか?」
「遠い。だが速い。足音だ」
切迫した声だった。
我知らず、右手が腰に伸びる。柄を握りかけた手は、直後、緋色に掴まれた。
「いけません」
「だが」
「……ん? や、待て、これは」
禍福がはっと振り返った。
緋色が釣られ、顔を上げる。
私は咄嗟に緋色の手を払うか悩んでしまった。それが致命的な遅れとなる。
見やった時には、既に黒い影が宙を舞っていた。待ってくれ。まずい、それはまずい。
だが願いは虚しく、黒い影が私を押し倒す。
「ふすっ、ふするるっ!」
ルネだった。黒い影の正体は。




