三十三話 呼び名
三頭の竜馬は、まだ日が高いうちに足を止めた。
禍福が自身の乗る竜馬の横っ腹を蹴って停止を命じ、減速した一頭に他の二頭が歩調を合わせた結果らしい。
上下関係はないのか、もしくは禍福の乗る個体がリーダーなのか。
ともあれ、私は竜馬が立ち止まった後でようやく、そこが今夜一晩を過ごす野営地なのだと知らされた。
「こいつらはまだ走れるが、貴様はどうか分からんからな。血の巡りは大丈夫か? 痛いところは? 鈍い痛みでも、尾を引くことがある」
禍福の言だ。
長時間の前傾姿勢が続くと分かっていたから、道中で何度か解してはきた。痛みはない。ただ全身どこを探しても凝っていないところの方がない有様で、これは竜馬の走るままに任せていたら大変なことになっていたかもしれない。
「ちょっと身体動かしてくる」
言うと、禍福は曖昧な声で頷いた。
緋色は少し悩む表情を見せ、
「手紙のことで、後で話が」
と顔色を窺うような声で言った。先でもよかったのだが、急ぐことでもないだろう。なにせ夜はまだ遠い。夜明けなど、もっと先だ。
竜馬は三頭集まって地面を掘り返している。ただし鼻先ではなく、前足で。
地面は硬そうだった。拳より少し小さいくらいの石もあちこちに転がっている。反面、草は乏しかった。ぽつぽつ、緑というより茶色の草が地面を這うように生えるばかり。
といって、ただ荒野と呼ぶにも不似合いな場所だった。
枯れた大地には大きな影が刻まれ、その影を追っていけば切り立った崖に辿り着く。荒野の只中であるにもかかわらず、だ。
それがなんなのか、私には分からない。禍福と緋色も存在は知っていたものの、正体までは知らないらしい。
まるで大地が捲れ上がったかのようだ。小さな丘と言い換えてもいい。
お陰で荒野に日陰ができ、また風除けにもなるために古くから野営地として使われてきたのだとか。本来は目印がなく、方向感覚を失いやすい荒野にあって、こうも目立つ存在は喜ばれただろう。
まぁ、なんでこんな地形になっているのか、誰にも分からないというのだが。
ともあれ、身体を動かすには持って来いだ。
高さは私の上背の二倍から三倍近くあり、目算だが四、五メートル。高くなるほどに迫り出していて、流石によじ登って上に行くのは無理だろうけど、ぐるりと回り込めば上まで登れそうだ。
そこまで行けば見晴らしもいいだろうし、運動がてら往復するには長い道のりでもない。
「……ん?」
二人に一言告げて出るつもりだったが、しかし、そこで目が合った。
二人のどちらでもなく、今の今まで地面を掘り返していた竜馬の一頭と。
私が乗ってきた個体だ。三頭とも黒毛で、似たり寄ったりの屈強な体付きだけど、ここまでの短い旅路で既に見分けられるようになっていた。それくらい彼らは個性的なのだ。
名前を付けてやってもいいかもしれない。
いつまでも竜馬と呼ぶのは不便だ。
そんなことを考えながら見ていると、竜馬はふるふると首を振ってみせる。そして耳を落ち着きなく辺りに向け始めた。
もしかして散歩でもしたいのだろうか。私がこの場を離れると知って、連れていけと訴えているとか。彼は警戒心が強いみたいだから、長く留まるなら周囲を把握しておきたいと考えても不思議はない。
鎖で繋いでいるわけでもなし、自分で勝手に見て回ればいいとも思うのだが、裏を返せば鎖に繋がずとも従順でいるよう躾けられているわけだ。
それで主人の許可を待っている、と。
「禍福」
「ん、どうした?」
「その子の鞄、ちょっと外していっていいか?」
どの子だよ、と言いかけた禍福だったが、一目見てそうと気付いたらしい。一頭だけ明らかに落ち着きを失っていた。警戒心が強いのだと思ったけど、堪え性がないだけかもしれない。
「貴様が乗ってきたやつか」
「そうだが」
それがどうかしたか、とは口に出すまでもなかった。
「散々甘やかしてくれたからな。まぁいい。痺れを切らして勝手に動かれるよりはマシだ」
言って、禍福が竜馬に近寄る。竜馬はすぐさま気付いて鋭い眼差しを向けたが、構わず鞄に手を伸ばす禍福を見て固まってしまった。禍福も禍福だ。私のことを言えない。
仕方なく私も一緒になって、調合薬が詰まった鞄を取り外す。まぁ、元々一人でやるつもりだったんだし、禍福は手伝ってくれただけだ。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「そんなに遠くまでは行くなよ」
「大丈夫だ、あの上まで行ってくるだけだから」
身軽になった竜馬の肩の辺りをぽんと叩いてやり、一緒に歩きだす。
禍福の瞳が雄弁に、引き結ばれた口に代わって語る。
物好きだな、と呆れているようだった。
竜馬は陽気に歩を進める。
何がそんなに楽しいのかと私でさえ思ってしまったが、そういえば防衛軍団のもとでどういう扱いを受けてきたのかは知らなかった。貴重ながら危険な移動手段、としか捉えられていなかったら、あまり想像したくもないような暮らしを送っていたのかもしれない。
そう考えると、行き先は決められていても思うままに走れる旅のお供に選ばれた彼らは幸運だったのか。
しかし、安全とは決して言えない。少なくとも防壁の外よりは命の危機に溢れている。
「いや、違うな」
それは私が考えることじゃない。
所詮、私たちが利用し、彼らは利用される。もっと言えば先祖が生きた土地を自分たちの意思とは無関係に引き離された者たちだ。
エルフだったら――。
もし森から引きずり出され、ヒュームの街で子孫を残し生き長らえろと言われたら、きっと我慢できない。生きてはいけない、かもしれない。
「フシゥ?」
何かを感じ取ったのか、傍らを歩く竜馬が気遣わしげに振り返った。
その首筋を撫でながら頭を振る。やめよう。憐憫も同情も、あるいは慙愧の念も傲慢に過ぎない。彼らは今ここに生きていて、ここ以外に生きてはいないのだ。どうあれ、その命には誇りを持っていることだろう。
「お前は……お前たちは、どうしたい?」
言葉など伝わらないと分かっていても、知らず話しかけてしまっていた。
やはり名前が欲しい。名前を付けたい。
竜馬だが、馬というよりは猫だ。だから竜猫? いや、それは竜馬と呼ぶのと変わらない。
ただ名付けなんてしたことはないから、どうしたものか。禍福や緋色に聞いてもいいが、巡礼者の名はなんというかシンプルすぎる。
それこそ、剣技の使い手だから剣閃などと呼ばれるほど。
別に巡礼者の側が自ら名乗っているわけじゃないけど、そういう他と区別するためだけの呼び名に慣れていそうなのは困る。
フン、フンと楽しそうに鼻を鳴らしながら、竜馬は大地が捲れ上がったような斜面を登っていった。私も横に並ぶ。ただ少し、彼の方が歩みが早い。そこは種族の差か。
途中で気付いたのか、竜馬が振り返って歩みを遅らせた。
「いいよ、別に。待たなくても。どうせ長い道のりじゃない」
言ってみたものの、やはり言葉は伝わらない。
竜馬は私の横に並んで、今度はしっかり歩調を合わせて横に並び続けた。また首筋を撫でつつ、鞍も外してやれないかと考えてみる。窮屈ではないだろうが、ない方がのんびりできるだろう。
私もいい加減、この外套を脱ぎたかった。
と、不意に強めの風が吹いて、外套の裾と竜馬の毛をなびかせる。
「フゥーウ!」
竜馬が鳴いた。
普段は威嚇する時の猫みたいな声で鳴くが、これは雄叫びだろうか。他のどんな動物にも似ていない、不思議な鳴き声だった。
やはり竜猫という呼び名はないな。
りゅうねこ……リュウネ? や、これは安直すぎるか。リュネ。なんかいいけど、呼びづらい。
「ルネ、とか?」
呟くと、竜馬が振り返った。
不思議そうな目で私の顔を覗き込んでいる……ような気がしないでもない。
「お前はルネか?」
「ふすっ」
「そうか、ルネか」
私は何を言っているんだろう。
けど、彼の名はルネに決まった。戻ったら残りの二頭にも名前を付けたい。
「そうだ。森に戻って、新しい子が生まれたら、名付け親にでもさせてもらおうか」
エルフの名前に決まりはない。
名前そのものもそうだし、名付け親にも特別の風習はなかった。まぁ親や、存命ならば祖父母が付けることが多いものの、森長に頼むことも珍しくない。なんなら私だって、名前を付けてやってくださいと言われたことがあった。
断ったけど。
そして、その子供が生まれてくることもなかったけど。
名前はいい。私たちエルフは、エルフであることに誇りを持つけど、だからといって己であることに誇りを持ってはいけないという決まりもないだろう。
己を己たらしめるもの、それが名だ。
「お前は、だからお前だよ」
ルネはもう振り返らなかった。
いつの間にか崖の手前に到達しかけていて、どうやらルネは景色に心奪われているらしかった。
ただ、あまり前に出るべきではない。下から見た時、崖は反り返ったように迫り出していた。頑丈な地盤に見えたが、風化している可能性もある。足場が崩れたら、そのまま枯れた大地に接吻だ。
想像しただけで足が竦み、ルネより幾分後ろで立ち止まってしまう。
それでもなお、何物にも遮られることなく景色を見渡すことはできた。
そこで私を待っていたのは、しかし、違和感である。
「……砂塵?」
景色は見渡せたものの、それで見通せたと言えるかといえば、なんとも微妙なところだった。
原因は分からない。
だが、遠くに目を凝らそうとすると、何かモヤがかかったようになって見通せないのだ。
なんだろう、変な気がする。……マナ? いや、それこそ有り得ない。マナは枯渇していると聞く。事実、この辺りも以前はもっと緑が多かったらしい。マナが枯れ、雨が減り、大地が痩せ細った。
だとしたら、視界を遮るほどのマナが溢れているとは思えない。
やはり砂塵の類いか。
納得はできないまま、思考を断ち切る。考え込んで答えが出るものでもないだろうし、あまり肩が凝るのも嫌だ。考えを散らすと同時に、肩や背中も回して凝りを解していく。そもそも、そのために来たのだった。
「ルネも少し……ん? ルネ?」
景色に見惚れているのだと思っていた。
私より前に出て、崖の先端から下界を見下ろしていたルネは今、何を見ている?
その全身が強張るのを感じた。まずい、と思ったのは何故だろう。硬直しかけた全身に鞭を打って後ろに跳ぶ。
直後だった。
ルネが両の前足を弛めたかと思うと、次の瞬間には崖から身を躍らせていた。
この高さから落ちたら――。
咄嗟に最悪の事態を思い描いてしまうも、すぐに別のイメージが浮かんだ。猫。己の身体の数倍もある高さから平気で降り立ち、何事もなかったかのように走り出す彼ら。
ルネは。
竜馬は。
猫を思わせる生き物は、果たして、危なげなく大地に足を踏み締めた。
禍福と緋色が驚いたのが見える。緋色に至ってはここまで届く大声を上げていた。無理もない。ルネが降り立ったのは、彼女の目と鼻の先だ。禍福もすぐ近くにいる。
だが、だから何ができるというのか。
ルネは着地の衝撃など微塵も感じさせない軽やかな足取りで、跳ぶように駆け出していた。
二人は半ば呆然と見送り、それから我に返ったのか顔を上げる。禍福と目が合った。遠くて、しかもフードの陰にあって直には見られなかったものの、彼女が今どんな顔をしているのかは嫌でも分かる。
あぁ、くそ……。
ルネの背が遠ざかっていく。どんどん小さくなっていく。
嫌になるな。
今になってようやく自覚した。私は傲慢だったのだろう。
僅かにだが、裏切られたと思ってしまった。
私たちが利用し、彼らは利用される。
それだけの関係に過ぎないのだと、分かっていたはずなのに。




