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30.5話 終焉に向かう時代の陰で

「大浴場には結界が張られていました。強行突破もできますが、どう致しましょう」

「必要ないよ。彼らには彼らなりの調整があるのだろうからね」

 低い声と、それよりは高い声が交わされる執務室。

 ここに何も知らぬ者が突然放り込まれたら、その人物は大変に困惑することだろう。

 低い声も高い声も男のものだった。

 しかし低い声の主は背が低く、一五〇センチあるかないかだ。まさに少年といった風情を纏う人物で、幼さを感じさせないのは低い声の他、冷たく落ち着いた眼差しのみである。

 一方、そんな少年然とした人物より高い声の主は背も高い。

 といっても比べてみればの話であって、一五〇センチ台は成人したヒュームの男性の中では低い方だ。代わりのつもりなのか下っ腹に威厳が宿っており、また頭頂部も年齢を主張している。

 老齢に差し掛かろうという中年の男だが、帝国領に住む者ならば彼の家名一つで頭を下げるに十分だった。

 帝国を支配する七家が一つ、フルート家の現当主である。

 公爵位を持つ上、要衝メイディーイルとその周辺の管理を帝室より任された重鎮中の重鎮が穏やかに笑って言った。

「しかし僕は、緋色殿は女性だと思っていたんだけどね」

「……それが何か?」

 少年然とした人物が首を傾げる。

 彼は近年、公爵の側仕えとして頭角を現し、今では側近の一人に数えられるほどだ。

「でも禍福殿や剣閃殿とともに入浴されるということは、やはり彼女……いや彼も男性だったのか」

「その理屈でいいますと、禍福様と剣閃様が女性という可能性が否定できませんが」

 公爵とその従者が交わす会話はどことなく空虚で、何やら意図して本質を避けているようでもあった。

 それは声音や視線、間の取り方などからも窺い知ることができる。

 同席していれば気付かないはずはない違和感に、ゆえに彼は苛立ちを隠さず口を挟んだ。

「巡礼者ともなれば、湯や時を無駄にせんと男女でともに入ろうと不思議ではありません。それよりも、今は他に議論すべきことがあるはずです」

 そう声を張る男は屈強な長身。

 一五〇センチ前後の二人と並べば親と子である。

 よく通る声はそれでいて大層低く、毅然とした声音と合わせ自身の性格を表していた。

 帝都に本拠を構える帝国軍中枢よりメイディーイルに派遣され、その防衛を一挙に担う都市防衛軍団の長を任された男だ。

 軍団長の言葉に、従者が一歩身を引く。

「閣下。今議論すべきは、巡礼者の性別でしょうか」

「怒らせたなら悪かったよ。……しかしね、将軍」

「自分は将軍などではありません。メイディーイル都市防衛軍団、その軍団長であります」

「よく分かった。何度となく聞いているからね」

 公爵はにこりと柔和な笑みを浮かべ、そのまま続けた。

「では軍団長、君から何か言うことはあるかな?」

 その言葉を予期していなかったはずがないだろう。

 軍団長は口を開きかけ、しかし何も言えずに沈黙するしかなかった。

 ようやく口を開いたのは、数秒もした頃だ。

「魔物の出現、それは魔王の復活を示唆する重大事です」

「禍福殿も仰っていたことだろう、生き残りくらいいてもおかしくないと。……軍団長、君が魔王の復活を示唆する他の情報を持っているとでも?」

 押し黙る軍団長に、公爵はただ笑ってみせた。

 沈黙が漂い、そして破られる。

「そういえば魔法剣と言っていたね、剣閃殿のあの剣は」

「確かに、自分もそう聞き取りましたが」

「魔剣ではなく、だね」

「はい」

「君はかの剣技を僕より近くで見ていたはずだけど、実際どう見た」

「人間業ではないかと」

「魔法剣に可能かね?」

「その性能次第でしょう」

「だろうね。……まったく、オールドーズは底知れないね」

 会話はそこで途切れた。

 その間、従者は存在そのものを消したかのごとく沈黙を守り続け、今なお己は何も見ず何も聞いていないとばかりに瞑目したまま直立不動を崩さない。

「僭越ながら、閣下は不信感を抱いていらっしゃると?」

「不信感とは人聞きの悪い。単に信頼しきるだけの材料がないというだけだよ」

 然もなく言ってのける公爵に、軍団長は閉じた口の中で舌を縮こませる。そのせいで言葉を紡ぐのが数瞬遅れたほどだった。

「そのような相手に竜馬を三頭も差し出すと? 竜馬の供与など前代未聞です」

「ならばイスネアに宣戦布告せよ、と?」

「そこまでは言っておりませんが」

「言っているんだよ。今この時世で、魔神召喚に関与した疑いがあると調査団を送る。宣戦布告以外にどう受け取れというんだね」

「しかし……。規模を絞れば、あるいは」

「無理だよ。君もイスネアの根を知らないわけじゃないだろう。あそこは帝国憎しで生まれた国だ。どんな些事であれ、帝国が絡むなら存在しない悪意を汲み取る。ただでさえ醸造してきた憎悪をいつ破裂させるかも分からないんだ」

 公爵はそこで言葉を区切る。

 それから一つため息を零し、ありもしない葉巻の煙を燻らせるように天井を見上げた。

「時に、将軍」

 軍団長に否を唱える暇はなかった。

「君はどうして、ここにいるんだね」

 質問の意図を計りかねる。

 そう表情で返してみせる以外に、どうすればよかったのか。軍団長は沈黙の中、許された僅かな思考をそれに当てた。当ててしまった、とも言える。

「魔王復活、確かに恐怖だ。破滅的な脅威と言っても過言ではない。しかし、だね――」

 公爵は笑っていた。

 今この瞬間に至るまで、一瞬たりとも笑みを絶やすことはなかった。

「僕たちが考えるべきは魔王の復活なんかじゃないよ。どうして魔物がメイディーイルに侵攻せんとしたのか。それが問題だ。魔王の復活など、それに比べれば考えるだけの価値もないよ」

 魔物とは、魔王によって生み出された存在である。

 ゆえに肉体の大半をマナで構成しており、現に防壁の外で討たれた魔物の肉体も大半がマナへと還ったために、残された死体はあまりに小さなものだった。

 明確な肉体を持つ……とされる魔神とは決定的に異なる存在。

 その裏に示唆される魔王の存在を、しかし公爵は軽んじているかのように聞こえた。軍団長は伸ばした腕の先で拳を握り、口を開く。

「閣下、僭越ながら――」

「分かるかね、将軍」

 口を開いたのは同時ではなかった。

 意図して遮られたのだと軍団長が気付く頃には、公爵の眼差しには柔らかい笑みが戻っていた。

「我々は今、岐路に立たされているのだよ。我々によって? 何者かによって? あるいは、それこそ魔王によって? 分からない。だが岐路に立っているのは確かなのだ」

 公爵は笑い、

「君が口を閉ざす理由は分かる。同じ理由で、僕はこうして君に訴えるのだから」

 そして言葉を結ぶ。

「軍団長、君は君の信ずる道を信じ続けるものと、僕は信じているよ」



   × × ×



「チリが! チリがやられたっ!」

 某所にて。

 蝋燭の火が揺れるばかりの薄闇の中、幼く甲高い声が響き渡る。

「アクタ! いないのか! いないのかっ!?」

「アクタはここにおります。……して、お嬢様、どうされました?」

「聞こえなかったと? ここにいながら聞こえなかったと? チリがやられたんだっ!」

「……俄には信じられませんが」

「妾の言うことが信じられんと申すのかっ!?」

「なるほど、そうですね。ではチリはやられたのでしょう。……して?」

「『して?』ではないッ!!」

 姿は見えない。

 彼女たち自身にも、互いの姿は見えていないのだろう。

 幼き声と落ち着き払った声は互いに居場所も知らぬまま、慣れた調子で会話を重ねる。

「しかし、やられたとだけ言われても困ります」

「困っている場合か! チリがやられたんだぞ! チリがやられたということは、チリがやられるだけの相手がいたということだぞ!」

「……なるほど、それは一大事ですね」

「そうだ、一大事なのだ」

「……」

「…………」

「して、その後は?」

 落ち着いた声が、落ち着いたままに疑問符を投げかける。

 幼き声が言葉にならぬ叫びを上げた。

 十秒近くも叫び続けた挙げ句、きっかり五秒もかけて息を整えた。

「分からんのだ」

「……はて?」

「チリはやられた。だが、それ以上の情報が届かんのだ」

「それは……しかし、妙ではありませんか?」

「妙なのだ。すごく妙なのだ」

 薄闇に沈黙が舞い降りる。

 動きといえば蝋燭の火が揺れるのみで、息遣いさえも存在しないかのようだった。

「この時代に、まだ勇者はいないはずだったな?」

「……えぇ。そう聞き及んでおります」

「だけどチリはやられた。お前が言っていたことだぞ、チリは尖兵型とかいうタイプだと」

「その通りでございます」

「尖兵型は威力偵察とかいうのに長けるとも、お前から言われたことだ」

「その通りでございます。尖兵型は一対多の戦闘を想定されており、これによって突出して戦闘行動を開始、敵戦力を本隊に伝えることが主な役目とされていました」

「で、チリは敵戦力を妾に伝えたか?」

「妙ですね」

「妙なのだ。すごく妙……って、これはさっき言ったわ!」

「素晴らしい学習能力です、お嬢様」

「いらん! そんなことより、そんなことよりだぞ……っ!?」

 幼き声が荒らげられ、次いでフー、フーと荒い息遣いが続く。

 彼女が落ち着いたのは実に一分もの時が過ぎた頃のことだった。

「シュトラウスを呼べ!」

「シュトラウスを、でありますか?」

「くどいっ! もしもだ、もしもだぞ……? 既に妖精王が目覚め、勇者を抱え込んでいるのだとしたら、先の時代の二の舞いになりかねんのだ……ッ」

「妖精王が? それは有り得ません。妖精王は覇者の一角。その目覚めは戦いの始まりを意味して――」

「だからだ、だからなのだ! 妾の知らぬ間に戦いを始めるなぞ許さん、断じて許さんッ!」

 薄闇の中、遂に声以外の音が響く。

 まるで幼子が地団駄を踏むかのごとき、不揃いで乱れた足音が。

「この手で殺すのだ、妖精王だけは」

「妖精王だけですか」

「あと勇者もだ。よく分からんが勇者に力を与えたとかいう女神も、聖女の子孫だとかいうなんだ、あの、ナントカーズとかいう頭のおかしな連中もだ!」

「多いですね」

「多いのだ、多すぎるのだ。だが、殺さねばならん」

 幼き声は、不意に静けさを纏う。

「お父様を殺した者どもを、生かしておくわけにはいかんのだ。違うか?」

「……いえ、その通りでございます」

「ならばシュトラウスを呼べ。愚図どもに集る有象無象に混じるのは癪だが、妾が出よう」

「……ッ!? それは、それだけはなりません! 王には王の品格というものが――」

「品格なぞ捨てよ。妾は覇者になぞ興味はない。お父様を……、お父様を殺した不敬なる者どもを、この先のいかなる時代からも消し去るのだ」

 幼き声の主は、そして告げる。

「妾は王だ。ゆえに妾は、絶対だ」

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