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三十話 望外の一時

――かぽんっ。

 正体不明にして理解不能の音を聞いた気がして、はたと我に返る。

 気のせいだった。幻聴だった。疲れているのかもしれない。

 そう自覚すると、意識が再び微睡みに溶け込んでしまいそうになる。

「ふあぁ~……」

 己の口から零れ出たとは思えない間の抜けた声に、しかし恥じらいを覚える余裕さえなかった。

「生き返る……」

「別に死んでたわけでもないだろうに」

「しかし、しかしだなぁ」

 禍福の小言に返す声にも覇気はなくて、我ながら笑ってしまう。

 とはいえ、無理からぬことであろうと自分を弁護したい。

「だって足を伸ばして湯に浸かれるなんて、森にいても滅多になかったんだぞ」

 追放され、旅に出た後なら尚更だ。

 願うだけ馬鹿げていた望外の夢を叶えた心地で、湯に漂わせた我が身が溶けていく錯覚に顎まで浸かる。

 いい湯だ。

 まさかこんなにも気を緩め、ただただ幸福感を貪る日が来るとは思わなかった。

 それもこれも全ては領主……フルート公爵と禍福、緋色が交わした密約のお陰である。



 時を遡ること三時間ほど前。

 防壁の東側、駐屯区の端に手配された馬車には六人が乗り込んだ。

 ただし、なんの問題もなく乗り込んだわけじゃない。

 馬車はかなり上等なもので、大人が六人どころか八人乗っても広々と使えそうだったし、それに合わせて馬も三頭繋げられていた。諸々考えても、六人が乗るには全く不足ないわけだ。

 しかし当初、そこに乗ろうとしたのは五人だった。

 私と禍福と緋色、その時はまだ名前も聞いていなかった領主にして公爵フルート氏と、彼の身の回りの世話を全て担っているという従者の少年だ。

 残る一人として禍福が挙げた軍団長ザック・ザッパーは、同席するほどの立場ではないと固辞した。これには公爵も頷いた。といっても理由は身分ではなく、軍団長が負っていた怪我だ。

 彼は都市防衛軍団を率いる立場にあり、一刻も早く前線に復帰するためには、やはり一刻も早く病院に行くべきだと主張した。

 病院というのは、なんでも怪我や病気、あるいは薬などの各分野に精通した専門の医者が集まっている場所のことで、熱が出ても歯が痛んでも、そこに行けば全て診てもらえるのだという。

 身体に不調があれば、その不調ごとに得意とする者の家を訪ねる、もしくは家に招き丁重にもてなすのが常識だったエルフの森と比べると便利な気もするが、一方で便利に扱いすぎて礼節が欠けているようにも思えてしまう。

 まぁどうあれ、メイディーイルには病院なる施設があった。

 公爵はそこに軍団長を送ると言い、禍福がこれを拒否。理由は後になって分かることだが、そこではその説明はせず、代わりにこう言った。

「もう一人のオールドーズ……剣閃が治癒の魔法を使える。魔物にやられた外傷なら、薬よりよほど早く効くだろう」

 軍人どころか公爵までも驚きの声を上げたが、百聞は一見に如かず。

 禍福に半ば命じられる形で治癒の魔法を施してやれば、誰も軍団長を病院に連れていくとは言えなくなった。

 それで当初の五人に軍団長を加えた六人で馬車に乗り込んだ。

 向かった先は公爵が住まう、代々の領主が使ってきたという館。

 着いて早々、私たち六人は鍵のかかる部屋に詰め、密談が始まった。

 そのうちの一人、従者の少年は途中でお茶を運んできただけで、しかも彼が出入りする間は話を中断し、開閉する扉の外で盗み聞きしようという目論見を未然に防ぐほどの徹底ぶりだった。

 密談の中身は、そう難しいものではない。

「イスネアの関与を無闇に煽るのは得策ではないが、かといって全く存在しないものとして扱うのもメイディーイル……延いては帝国の防衛上、無理のある話だろう」

 禍福が口にした言葉が何より本質を突いていた。

 魔神と魔物の違いは、私にはまだよく分からない。

 しかし話を聞いていて分かったのは、魔物が魔王の配下であり、当然ながら魔王の意向を汲んで動くのに対し、魔神とは魔の神と呼ばれながらも魔王とは無関係の存在であり、行動原理は不明確……現状、人々の祈りや願いといったもので力を得ているということだ。

 つまり、あの黒の巨躯が魔神だったとすると、隣国たるイスネアの関与を疑わざるを得ないのだった。とはいえアーロンの町で見たように、今は干魃による食料や水不足で隣国との諍いどころではない。

 ただ一方、イスネアが関与していたなら、それを見過ごしては街や国の未来に危険が及ぶ。

 領主の立場からすると、イスネアには探りを入れたいものの、探りを入れたのがイスネア側やメイディーイルの住民に露見して、両者の関係を刺激してしまうのも避けたいという状況だった。

 よって密談は、主に領主にとって都合のいい展開を作るために、領主がどこまでのものを教会側に差し出すかという議論になる。

 禍福が軍団長を同席させたがったのもこのためだ。

 単なる口約束で終わらせ、後からそんなものはなかったと反故にさせないために、領主とは直接の上下関係を持たない軍隊の人間を密約に組み込もうとしていた。

 ややこしい話だが、メイディーイル都市防衛軍団は、メイディーイルという領地に属する軍隊ではなく、あくまで帝都……帝国の中枢から派遣された部隊なのだという。

 だからメイディーイルの東側は駐屯地と呼ばれるらしい。

 議論は喧々囂々……とはならなかったものの、静かな言葉の中に互いの刃物や毒のような意図を忍ばせる不穏なものだった。

 私と軍団長は努めて沈黙を保ち――時折、私なら禍福、軍団長なら領主から同意を求められた時だけ「そうだな」「そうですね」と頷いた。



 そして、今。

 私たちは館に設けられた大浴場を占有するに至る。

 ただ、これは密約とはなんの関係もない、公爵からのご厚意だ。

 密約における取り決めは、お互いに一つずつ差し出すというもの。

 教会はイスネアに向かって情勢を確かめ、その報告をする。

 一方、メイディーイルの街は私たちに足を用意する。

 それ以外の全ては、だから公爵の個人的な厚意に過ぎない。干魃の只中にあってこれだけの湯を張るのも、この後泊まることになる高級ホテルも、そこでの食事も、工房への口利きも何もかも。

「しかし禍福、あなたがそこまで肩入れするのは意外ですね」

 長く伸びた後ろ髪を団子状にまとめて湯に浸かる緋色が、どこか間延びした声を零す。

「俺には俺の考えがある。それだけよ」

 そう笑うでもなく返した禍福は湯船から遠く離れた、大浴場の隅っこに腰を下ろしていた。

 大浴場は、その名の通り非常に広い。駆けっこだってできるだろう。湯船も相応に広く、本当にこれだけの湯を張るのは大変だったはずだ。元は飲むためには使えない水だと言われていなければ拒否しただろうし、そう言われていてなお若干の罪悪感が頭をよぎる。

 けれど、やはり湯に浸かって足を伸ばすのはいい。

 至福の瞬間だ。

 森にいた頃は自分がここまで湯浴みを愛していたとは知らなかった。

「だが、悪いな。報告を貴様一人に任せることになる」

「気にしないでください。そもそも一人でも十分な仕事ですし、巡礼者が三人も集まっていることの方が異常なんですから」

「違いない。しかも三人とも名有りとなれば前代未聞だろう」

「私は違うぞ! 不幸な巡り合わせだ」

 口を挟むつもりのなかった二人の会話に、思わず割って入る。

 禍福と緋色、そして剣閃か。

 なんだか大仰すぎて、未だ実感は湧かない。恐らくこの先ずっと実感など湧かないのだろうし、なんだったら今後、剣閃なる巡礼者を目にするヒュームはいないのかもしれなかった。

 私は森に帰る。

 そのための足を公爵が用意してくれた。厚意ではなく、密約によって。

「竜馬、だったか」

 訊ねるでもなく、ただ呟いた。

 竜馬。

 野生だと北の地に生息するという動物で、私たちはイスネアへの足としてこれを受け取ることになっていた。

「竜馬はいい。少ない餌で長く走る。馬力があるのに安定感もあるし、全土で使えたら巡礼の旅が楽だったんだがな」

 禍福が零すように、本来なら二重の意味で巡礼者には使えない代物だ。

 一つは気候の問題。そもそも暑さや寒暖差に弱く、年中安定して涼しい土地でなければ生きていけない。マナの枯渇によって気温が下がったことで、生きていける土地が広がったのだとか。

 加えて気性が荒く、とてもじゃないが野生のものを捕まえてきて調教するなんて不可能という話だった。だからヒュームは言うことを聞かない大人の個体には繁殖だけさせ、生まれてきた子供を調教する。

 当然だけど繁殖も楽なわけがなく、お陰で馬のように普及はしていない。

 そんな貴重品を三頭、たかだか隣国への足として手配する。

 それも貸与ではなく供与。

 密約が密約たる所以はそこにあった。

「さて、そろそろ上がりませんか?」

 緋色が微笑む。

 この大浴場は今、緋色の魔法によって守られていた。錫杖を用いた結界ほどではないにせよ、盗み聞きはできない。密約を交わした後の、陣営内の密談。そのための席として使われている。

 とはいえ。

「私はもう少し入っていたい」

 こんな贅沢、森に帰ってもできないだろう。

 なにせ私は追放された身で、恐らく森に定住することは叶わない。精々が調合薬を持って往復する中で一泊、二泊するくらいだ。これから先、森でも水が貴重になっていく可能性も考えると、今はこの贅沢を満喫したい。

「……あなた、それでよく巡礼の旅ができましたね」

「巡礼者になったつもりはないんだよ、そいつは」

 禍福が笑う。

「けどまぁ、俺もそろそろ暇だ。貴様らと違って湯船には入れんからな」

 そして付け加えられた言葉には、いくら私でも引け目を感じる。

 禍福の全身は獣毛に覆われていた。彼女が湯に入れば必然、獣が水浴びをした後のように毛が浮いてしまう。緋色の魔法で直接見られる心配はなくても、掃除する時にでも獣毛が見つかって問題になるのは想像に難くない。

 だから禍福は、大浴場に入ってすぐ隅の方……湯船から溢れたお湯を流す穴の傍に陣取っていた。身体も洗うというよりは拭くといった具合で、彼女を横目に湯に浸かり続けるのは悪い気もする。

 ……気もするが、しかし、だからといって誘惑に打ち勝てるかは別の話だ。

「緋色は名残惜しくないのか?」

 結局、選んだのは時間稼ぎだった。

「無駄話には付き合いませんよ」

 つれない返事に一蹴されてしまったけれど。

「ほら、早くしろ。この後また移動するんだぞ」

「それはそうだが……でも、ゆっくりしていられるのは、これが最後になるかもしれないと思うとな」

 明日、私たちはメイディーイルを発つ。

 向かう先は隣国、イスネア。そこで巡礼者の身分を使って内情を確かめ、魔物の侵攻に関わる情報を得る。

 その後、報告のためメイディーイルに戻ってくるのは、緋色ただ一人。

 私は森へ帰る。

 地図を見せられるまで知らなかったことだが、イスネアから南下していった先に私が暮らしていた森があった。

 禍福は私に同道してくれることになっている。

 そこから先、旅を終えた私に何が待っているのかは分からない。もしかしたら追放を取り消され、また森に住むことを許してもらえるかもしれないけど、その可能性は低かった。罪は罪であり、調合薬を持ち帰ったからといって消えてなくなるわけじゃない。

 だから、私はまた旅に出ると思う。

 その出立の時に禍福がいてくれたら嬉しい。もう一度、今度はちゃんと巡礼者になりたいと言ってみてもいい。どうすれば巡礼者になれるのかは知らないけど、禍福だって否とは言わないはずだ。

 そして旅をする。

 禍福と、再び。

「……エレカ」

 呆れ声。

 我に返って顔を上げれば、禍福が腰に手を当て全身で呆れを表現していた。

 ちなみに彼女は今、腰にタオルを巻いているだけで上半身は隠していない。隠していないのに隠れているのだから、獣毛がいかに全身を覆っているか分かる。

「いい加減上がるぞ」

 有無を言わせぬ声音に、遂に折れるしかないのだと悟った。

「泊まるホテルに風呂はあるだろうか」

「あっても、お湯はないでしょうね」

 無慈悲である。

 束の間の休息は、これで終わり。

 明日になり、竜馬の手配も済んでしまえば、私はエルフの森に至る旅を再び始める。

 嫌なわけではない。工房のドニが作った調合薬を持ち帰り、エルフの森を救う。それが私の使命だ。

 だけど、……自分でも驚くほどに、胸には名残惜しさが滲んでいた。

 大浴場に対するものではない。

 旅に。

 禍福とともに歩んできた道に。

 決して長い時ではなかったし、望んだ旅路でもなかった。森の不幸なんてない方がいいに決まっていたし、だとすれば禍福と出会わない運命の方が私にとっても望ましいものだったはずだ。

 だから、これは気の迷い。

 旅に疲れた身体が束の間の休息を得て、今この瞬間の至福に甘えているだけ。

「仕方ない」

 湯から上がる。

 禍福が呆れた目を向け、呆れた声を零した。

「……貴様な、もう少し恥じらわないか」

「何を言う。我らエルフは誇りを胸に生きるものだ。この身とてエルフなのだから、何を恥じることがある」

「いえ……そういうことではなく、女性としての恥じらいを持つべきかと」

 女同士で何を言う。

 そうして浮かべた微笑とともに、迷いは大浴場に置いていく。

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