二十四話 魔の化身
偉丈夫が――将軍が宙を舞っていた。
まるで空を見上げるがごとく地に背を向け、苦悶に歪む口からは鮮血を溢れさせ。
戦場だというのに、そこは静寂に支配されていた。
だが、静寂とて長くは続かない。
男の長躯が地に落ちた。身に纏っていた鎧がガシャンと大きな音を立て、彼の首のすぐ傍に長剣が突き立つ。男が泡立った血を吐き出すと同時、戦場が浮足立つのを感じた。
まずい。
防壁の通路を走り抜け、ほんの数秒足らずの間に起きた光景を目の当たりにして、最早迷っている余裕などなかった。
「……ッ」
誰かが悲鳴を上げかけた。
一度切られた堰は、流れ出す勢いによって取り返しのつかない崩壊を見せるだろう。
だから。
「道を空けろッ!!」
叫んでいた。
それを放ったのが自分だとは信じられないほどに勇ましい声が戦場に響く。
断ち切られた悲鳴の残滓が戦場に停滞を与えた。浮足立った者たちが混乱し、当惑し、思考を滞らせる。生まれた猶予は、どれくらい?
計算するほどの余裕もなく、ただ前を見据えた。
「……?」
漆黒の巨人が、そこにいた。
これが、魔神?
人と同じく一対ずつの手足を持ち、直立する存在。上背は三か四メートル。横幅や厚みは屈強に鍛え上げられた戦士のそれ。重量は何百キロあるのか。単純な力勝負は下策。
なら、弱点は?
それは武装していないように見えた。しかし獣でもない。体毛は見えず、傾きかけた太陽の光を鈍く反射させる肉体は鋼のようだ。恐る恐る視線を下げていけば、人間とは決定的に異なる存在だと見て取れる。
男でも女でもない。
神と呼ばれる存在だから?
それは腕を振り上げていた。私に殴りかかろうとしているわけじゃない。あの偉丈夫を――、将軍と呼ばれた男を跳ね飛ばした姿勢のまま固まっている。
両の目は私を見据え、見定めているかのようだった。
これは何者だ?
私がそれにしたのと同じように、それも私を見極めていたのだろう。
どちらが見切り、動き出したのかは分からない。
それが鋼のごとき筋肉を脈動させたのが先だったか、私が左腰に伸ばしていた指の一本を曲げるのが先だったか。
なんにせよ、傍目には同時に見えていたことだろう。
「ルァァァオウ――ッ!」
「一閃」
振り上げたままだった拳を踊らせ、一歩踏み込んだ黒の巨体。
その腕に斬撃が突き刺さり、弾かれた。
形を得た斬撃が霧散する向こうで、腕を弾かれたそれが驚いたように己の腕を見上げる。
私も同じだ。今の一撃で決めるつもりだった。一閃。抜刀の一撃にして、戦いを終わらせるための一撃。幼き日から繰り返し積み重ねてきた鍛錬の半分以上を費やした一撃だが、ただの腕に弾かれて終わった。
これが驚愕せずにいられるだろうか。
だが、驚愕している場合でもない。
それは白目のない、黒一色の眼光で私を睨む。私の右腕の先、最早不可視ではなくなった灰色の長剣を見据え、どうやら瞳孔を縮ませたようだ。
「ルァハ」
口元が歪む。
まさか、笑った?
魔神の感情など知らないが、そうとしか受け取れない表情と声音だった。
「手を抜いたつもりじゃ、なかったんだけどな」
我知らず乾いた声が零れる。
一撃で決めるつもりだった。それは本当だ。
しかし、何故だろう?
「初太刀を耐えて、だからどうなる?」
やれる気がした。
一閃は耐えられたが、だからどうした?
臓腑が震える。
否、胸が踊る。
魔神が地面を蹴った。と、次の瞬間には眼前に迫っている。大きく右に振り抜いてしまっていた剣を引き戻し、眼前で迎撃。キィィィンと激しい金属音が鳴って、巨体が後ろへ跳んだ。
逃げた?
違う、そんなわけがない。
飛び退り、着地した魔神は上体を地面すれすれにまで下げたまま、既に次の跳躍に入っている。
二度、三度と受け止めて剣が持つか分からない。打つべきは先手。私の武器が剣だけなどと思わないでほしい。
「伸びて、結んでっ!」
再び正面から突っ込んでこようとした魔神の眼前、虚空より蔦が伸びる。
魔法の蔦が図体相応に太い首を絡め取ろうとしたが、すんでのところで魔神が下がった。知っている。攻撃性能のほとんどない、森を維持するためだけに覚えた魔法で仕留められるわけがない。
だったら、どうする?
決まっていた。
今度は私が地面を蹴る番だ。下がった魔神が逡巡し、更に下がる。距離を詰めれば相対速度は上がるだろう。必然、衝突の威力も増す。私も無事では済まない。だが、後手に回ったのは魔神だ。
魔神とて生き物なれば、眼前の敵を仕留めることより己の傷を減らすことを考える。わざわざ不利な衝突を受け入れる必要はない。
その防衛本能が仇となった。
距離を取れば剣の間合いからは逃げられるだろうが、しかし、斬撃の間合いからは?
「ハッアァァ――!」
技などではない。
ただ上段に構えた剣を、叩き落とす。
魔神が咄嗟に持ち上げた左手に、飛翔する斬撃が突き刺さった。半ばまで食い込んだ斬撃が勢いのままに腕を下げさせる。
距離を取るのを諦め、突撃の構えを見せた魔神だったが、腕に引きずられて足が沈んだ。すぐには動けない。致命傷でなくとも、足止めには十分すぎた。
一撃でダメなら二撃、二撃でダメなら三撃。重ね、重ねて討ち果たせばいい。
「まずはその左腕、もら……ッ!?」
そのためにも腕の一本を落とそうとしたが。
「ルァ、ルァ、ルァアアアアゥ!」
魔神が吼えた。
ただ手負いの獣が吠えるようなものかと思ったら、痛い目を見るところだった。どうして私は不思議に思わなかったのか。
魔神の腕が、半ばまで斬られて垂れ下がっていた腕が再び繋がる。
大地には、血の一滴も零さないまま。
「ルァ、ハァ」
ニィと笑い、魔神が私の目を見た。
舐めるなと、まるで嘲笑うがごとく。
怯むな、怯んでくれるな。
足を止めそうになる己の弱気を追い払い、剣を構える。
両手で握った柄は、頼りになるはずなのに忌々しくも見えた。
禁忌の剣。
これがどうして禁忌と呼ばれるのか、抜き放てばどうなるのか、父は何も教えてくれなかった。ただ常に帯びるよう言われ、姿消しを応用した魔法で目には見えぬよう施されただけ。
しかし、握っていれば力が溢れてくるようだった。妖精剣の名がちらつく。けれど、今は考える時じゃない。
魔神の再生力は相当だ。
そもそも、あれは再生なのか? 血が流れずとも傷は負っていたと?
急所はどこだ。心臓? 脳? あるいは、どこにも存在しない?
そんなはずはないと本能が叫ぶも、伝説に出てくる化け物の類いには心臓と脳を同時に潰さなければ再生するような存在もいる。神というからには、それ以上の不死性を備えているのかも。
だと、しても――。
「来い」
切っ先を向け、短く言う。
魔神には、それで伝わる気がした。
「グルァ、ルァアッハァ!」
愉しげな咆哮。
魔神が両足を弛め、そして――
「輝け、我が光槍」
その両足を、光り輝く赤に貫かれた。
いや、赤じゃない? 紅とも違う。不思議な光だった。
その天から降り注いだかのごとき光が文字通り魔神の足を止めたと思えば、私の脇を突風が走り抜ける。麦穂のような、見慣れた色。ふわりと舞うは外套の裾。
突風と化した外套が一瞬で魔神との距離を詰める。
揺れる袖の先に見えた手袋で、ようやく確信できた。禍福だ。
足を縫い留められ逃げる術を持たない魔神の腹に、禍福の拳が突き刺さる。光が砕け、魔神の足が浮いた。だが、魔神が解放されたわけじゃない。
「唸れ、我らが光」
目の錯覚でなければ、だけど。
禍福の拳が一回りか二回りも肥大し、顎を捉えた。奇しくも先の偉丈夫と同じく、天を見上げ宙を舞う魔神。それを逃がさぬとばかりに赤に似た光が降り注ぐも、魔神はやはり、人間とは違った。
魔神の足が虚空を蹴る。
嘘でしょ、なんて零す間もなく、着地した魔神の両足が大地を抉る。
跳躍。
否――、射出。
砲弾。
見たこともなかったはずのそれが何故か理解できた気がした。
魔神の正面に立っていた禍福がなんとか逃げようとするも、逃げ遅れた左腕を捉えられ、弾かれる。ごてん、ごてんと物のように二度、三度と転がっていった禍福は、息はあるようだがすぐには起き上がらない。起き上がれない。
化け物。
誰かが笑う。誰だ、私じゃない。
だけど――でも、それは確かに私の腹の底から湧き上がった。
「ルァハ」
魔神が笑う。
何を?
私を?
まさか。
「殺す」
私の中の何かが笑う。
「まずは、貴様を」
呼応するがごとく、剣が煌めきを増した。
切れ味が二倍にも三倍にもなったような、そんな錯覚を覚えた。
暖かい。
いつかの森を思い出す、心地の良い風が吹いていた。
邪魔だ。外套が邪魔。視線が邪魔。己の身が邪魔。全てを脱ぎ捨て、打ち捨て、捨て去って、ただ一個のモノとしてここに立ちたい。
「緋色!」
誰かが叫んだ。
懐かしい声だと思った時には、堪えきれなくなっていた。
嗚呼。
衝動が、踊り狂った胸の高鳴りが、眼前のそれを貪っていいのだと背中を押した。
「貴様が魔神?」
私の声で何かが言った。
「笑わせる」
そう笑ったのは、果たして誰だろう?




