二十三話 禁忌の衝動
ぞわり――、と。
背筋を駆け上った暗い黒い何かが臓腑を震わせる。
恐怖?
いいや、違う。
これはそう、憎悪にも等しい衝動。
「もう一人のオールドーズ」
呼ぶ。
それが精一杯だった。
「あぁ」
禍福は頷いてくれたけど、首を横に振っていても私は止まれなかったし、止まらなかっただろう。
「魔神、確かにそう言ったな?」
「え、えぇ……。駐屯区の方に向かってきてるらしいんです。軍が砲撃で足止めしてるって話ですが、全然当たらないみたいで」
「砲撃? 足止め? 魔神だと言い出したのは誰だ?」
「いえ、そこまでは。けど、軍の方から避難命令が出たって話です。外では鐘も鳴ってます。東から来たんで、みんなイスネアの連中がけしかけたんじゃって……!」
そこまで言うと、アッシュは堪えきれないとばかりに声を荒らげた。
「とにかく! 今は逃げてください! ドニ、あんたもだ!」
「言われなくたって! けど巡礼者さん、どうする? 薬の在庫、そんな多いわけじゃないが少ないもんでもねえ。今から用意してたんじゃ――」
「構わない」
禍福が言い捨て、私を見やる。
「もう一人のオールドーズ、行く気なんだろう?」
「あぁ。自分でもよく分からないけど、行かなくちゃいけない気がする」
左腰の、不可視の剣はうんともすんとも言わない。
けれど私が、私の鼓動が、魔神を見過ごしてはならぬと叫び続けている。
「お、おい待ってくれ、まさか逃げねえつもりじゃあ……」
「申し訳ないが、我々を侮ってもらっては困る。オールドーズが民を置いて逃げ出すなど、神が許しても我々が許さない」
アッシュが何か言おうとして、ドニがそれを止める。
「取引はどうするんだ」
「互いに無事なら、約束も果たせよう」
「無事でなければ?」
「取引どころではなかった、というだけの話よ」
瞬間、ドニの顔に浮かんだ感情はなんだろう。
怒りにも悔しさにも似た、けれど違う何かに見えた。
分からない。確かめている時間もない。私と禍福は既に走り出していた。
「じゅ、巡礼者さん!」
「なんだっ!?」
背後からの声に、禍福が叫び返していた。
「出てすぐんとこに馬車を呼んである! 勝手に話を付けてくれ!」
「くそっ。魔法道具は預かっとくぞ! 絶対戻ってこいよな!」
アッシュとドニが口々に言って、何やら慌ただしく支度する音が聞こえてくる。
無論、待っている余裕などなかった。ドニの声が今更に頭に届いて、天球儀も火起こしも置きっぱなしだったと思い至る。だが、それがどうした。今は魔神だ。魔神を、どうにかしなければ。
開け放たれたままの扉から飛び出る。
アッシュが言った通り、すぐ目の前に馬車が停まっていた。御者が何か言おうとする。禍福が遮り、叫んだ。
「どけ! 馬を貰うぞ!」
「なっ……!?」
「弁償なら後でオールドーズがする! 今は己の足で走れッ!」
言うやいなや、禍福は御者台に飛びついた。
御者が転がり落ちそうになって、すんでのところでしがみつく。そうこうしている間にも禍福が馬から留め具を外し、解放していた。驚き、走り出しかけた馬の背に飛び乗る。
そして馬の背から伸ばされた手を掴んだ。
まるで体重が消えてなくなってしまったようだった。
ふわりと舞い上がるかのごとく手を引かれ、気付けば馬の背に座っていた。前には禍福が座っている。
「飛ばすぞ、捕まっておけ!」
「わ、分かった!」
言い終えるより早く、馬が跳躍した。頭が揺れる。ガクンと首に衝撃が走り、目が回った。そのまま振り落とされそうになって、咄嗟に禍福の腰に手を回す。それからは馬と禍福と私、一頭と二人が一つになった。
商業区の狭い通りに大勢の人間が入り乱れている。
北……街の外に走る者もいれば、南……街の中心地に走る者もいた。メイディーイルには四本の太い道が通っている。東西南北、どこへ行くにも避けられない道だ。
魔神が出て、迎撃戦を行っているという駐屯区は東。真反対になる西の農業区に逃げようにも、まずは時計塔のある中心地に出なければいけないのか。
北と西に向かう者が結果的に真逆の波を巻き起こし、街を混乱の坩堝へと叩き落としていた。
「どけ、どけ、どけぇ――ッ!」
馬の背で禍福が叫ぶ。
人々は大混乱の最中にあるが、馬だって半狂乱だ。そもそも馬は臆病な生き物である。これだけ騒がしく入り乱れた人の波に突っ込むなど、本来は有り得ない。
それを無理強いするのが禍福で、本能に抗って神経をすり減らすのが馬だ。
私はただ、一人と一頭に身を寄せて気配を消す。下手に意思を伝える方が面倒だ。私は荷物、ただの荷物。右に曲がれば左に振られ、急加速すれば後ろに引かれるだけの存在。
「伊達にエルフじゃない、か」
禍福が呟く。
私は答えなかった。そんなものは求められていない。代わりに、外に向ける必要のなくなった意識を左腰に集中させる。鳴動は感じない。禁忌の剣が何かを訴えているわけではないのか。
だが、だとしたら、この胸に渦巻く衝動はなんだ。
魔神――。
見たこともない、旅に出るまで聞いたこともなかった存在を前に、どうしてこれほどまでに臓腑が震える。刻一刻と膨れ上がる憎悪に似た感情は、誰の何が生み出している。
分からない。
分かるはずもない。
ただ幸い、考え込む余裕だけはあった。
混乱は街の中心地に近付くほど減っていったからだ。当然だろう。街の外に近いところでは、街の外に逃げる者と魔神とは反対方向に逃げる者とで波がぶつかる。だが街の外に遠い中心地では、必然的に魔神に背を向けて逃げるしかない。
私は魔神を知らない。
魔神が意思なき存在で、ただ真っ直ぐ進む先に街があっただけかもしれない。それなら魔神の進行方向に逃げるのは逆効果だが、禍福の言葉やアッシュの叫びを思い返すに、そういう存在でもないらしかった。
目的はなんだ?
それも分からない。何も分からない。
ただ一つ、確信できたこと。
それは――。
「禍福」
「――。なんだ?」
「魔神とは、何者だ?」
答えはもう、胸のうちにある。
禍福がなんと答えようと、私はそれを覆しはしなかっただろう。
「人に害なす者よ。遠慮はいらん」
「そうか。それはよかった」
禍福が馬の横っ腹を蹴る。
一際高い声で嘶いた馬が急激に方向転換し、恐ろしげな沈黙に包まれた駐屯区へと踏み出していった。
この先に魔神がいる。魔神が。魔神。魔神……。
右手を、そっと左腰に伸ばす。
禁忌の剣。
オットーだった獣を前に抜こうとして、抜けなかったそれ。
しかし相手が人間ではない、人間だったものですらない存在ならば、悩むことはないだろう。
私は果たす。
……何を?
あれ、なんだっけ?
私は、なんで、この街に……?
頭を振る。
私はエルフだ。森を追放され、森を救うために旅するエルフ。目的はただ一つ。森を救うこと。森を救う手立てを見つけ、持ち帰ること。
だが、だからといって。
ヒュームはエルフと種族こそ違うが、等しく人間である。
その不幸を、その破滅を、その終焉を知ってなお、エルフのためと謳って見殺しにするなど許されない。
そうだ。
そうだろう?
だから、戦うんだ。
腹は決まった。臓腑が大人しくなる。脳は冴え、目と耳はいつもの倍も利くようだった。
馬が急停止したと思ったら、大きく前足を上げる。
あわや背中から地面に叩き付けられるかと思った次の瞬間、馬の背からふわりと舞い降りた禍福の手に引き寄せられ、私も自分の足で地面に立っていた。
馬がなんとか四本足に戻る。
「行けっ!」
禍福が横っ腹を叩けば、踵を返し逃げ出してしまった。
残された私たちの前には、仄暗い通路が見える。防壁に穿たれた門の道だ。
できればこの先まで連れていってほしかったが、頭上からは叫び声と、時々ゴォォン……と重く激しい音が聞こえる。暗がりなのもあって、馬を進ませるのはあまりに酷だ。
通路の奥から慌ただしい足音が二つ、いや三つ近付いてくる。
カンコンカンと響く足音に、私たちのコツコツという足音が並んだ。
近付く足音に乱れ。
違和感に気付いたのだろう。暗がりに見えてきた三つの顔がそれぞれ私たちを見つけ、銘々に表情を覗かせた。
三人はどれも男だ。真ん中の一人が頭から血を流し、その者を左右の二人が運んでいるところらしい。男たちが何か言おうとして、何も言えずに黙り込んだ。
「状況を。簡潔に」
歩みは一切緩めず、近付きながら禍福が言う。
男たちは立ち止まった。私たちに道を空ける。怪我は見た目ほど重くはないらしく、口を開いたのは真ん中の男だった。
「将軍が戦っておられる」
「将軍?」
「俺たちを出迎えた大男だ。元は帝室の近衛兵をやっていた男よ」
どうしてこんなところにいるのかは知らんがな、と禍福が私にだけ聞こえる声量で言った。
「他には?」
「分からない。分からない。あれは化け物だ。砲弾も全部避けやがった……」
頭から血を流す男が言った。
それ以上の情報もなく、私たちはすれ違う。
砲弾というのはよく分からないが、防壁には防衛装置があると禍福も言っていた。それのことだろう。防衛装置が役に立たず、白兵戦の距離にまで接近された。それを今、あの偉丈夫……将軍が抑え込んでいると。
将軍は、どれほどの手練なのか。
あるいは既に敗れ、戦線が崩壊している可能性もある。
禍福は黙り込んでいた。策はあるのか、ないのか。そもそも街一つを荒野に変えるほどの存在を前に、私たち人間ができることなどあるのだろうか。
答えは見つからないが、腹は決まっているのだ。
「禍福」
「……」
「禍福っ!」
「――ッ。なんだ?」
「悪いが、私は考えるだけ無駄だ。魔神を知らないからな。だから――」
息を吸う。
吐く。
もっと悩むかと思ったが、そんなこともなかった。
「私は、先に行く」
「はっ?」
「策があるなら、追い付いてから教えて」
止められるより早く走り出す。
禍福が何か言おうとした気配を感じたものの、今だけは呼び止められたくなかった。
魔神、魔神、魔神。
嗚呼、何故だか知らないが足が軽い。
これは憎悪じゃない。震えたのは臓腑じゃない。
胸が踊っている。
自覚してしまえば、この胸のうちを知られてしまえば、私は私でなくなってしまいそうだった。




