一話 旅するエルフ
外の世界がこんなに寒いだなんて知らなかった。
歩けど歩けど、森を救う手立てどころかヒュームの集落にも行き当たらない。
それでいて一日一日、進むほどに辺りが冷え込んでくる。これが冬と呼ばれるものなのだろうか。
エルフの森に冬はない。
森を貫くように流れる川に泳ぐ魚の種類でかろうじて季節の移ろいは感じられるものの、マナに溢れたエルフの森は年中穏やかな暖かさに包まれていた。
森を出て最初の頃は一日、二日と数えていたけれど、何回か日が昇って落ちると、その数を数えたのが今朝だったか昨夜だったか、あるいは夢の中だったか分からなくなる。
お陰で、今が何日目かも分からない。
それでも一ヶ月や二ヶ月も歩いたはずはなく、だとすると地域性の寒さではないのだろう。
やはり冬か。
一際強い風が一際強い冷気を運んできて、我知らず外套の襟を寄せてしまう。
リクには助けられた。
私たちエルフは、どうもヒュームからは魔法の達人だと誤解されているらしいけど、実際には森を維持するための魔法以外はあまり知らない。
火起こしの魔法道具がなければ、流石に凍え死ぬことはなくても、毎晩震えながら寝る羽目になっていた。
しかし、その魔法道具もここ二、三日は調子が悪い。
火の勢いは見るからに衰え、起動にも何度か失敗する。
早くヒュームの集落に辿り着かなければ。欲を言えば同胞を見つけたいが、エルフの森は膨大なマナを養分に生きている。森同士の間隔はかなり広く、仮に土地や木に余裕があっても移住はできないだろう。
移住できないなら、やはり私たち自身の森を救う手立てを見つけなければいけない。
そのためにも同胞ではなく、全く違う文化を築き全く違う技術を育んできたヒュームを頼るべきだ。
ヒュームは木々をマナではなく肥料で育てると聞く。なんでも大きな動物の糞を加工したもので、それを使うと木が健康になり、野菜や果物は大きく甘くなるんだとか。
初めて聞いた時は半信半疑で、下手なものを使って神樹を怒らせては困ると誰も使おうなどと言い出すことはなかった。
けど、今は状況が違う。
もし肥料で森が蘇るなら、まとまった量と、できれば技術を持ち帰りたい。
「……でも、まずはヒュームに会わないと」
食料の問題もある。
リクに渡された包み――背嚢の中には干した肉や果物もあったけど、あれは量が少ない。あとは麦の粉と水を混ぜてから焼き固めた、パンもどきとしか呼べないような代物しかなかった。
せめて川を見つけたい。
魚が捕れれば何日かは保存食を節約できるし、ヒュームでもエルフでも水がなければ生きていけない以上、川を辿っていけばいつかは集落に行き着く。
だから微かだけど水の流れる音を聞き付けた時は、思わず駆け出してしまった。
川だ、川がある。
そうと分かれば忘れていた喉の渇きも蘇ってきて、音の大きさからして結構な距離があるというのに、逸る足を緩めることができなかった。
――だが。
まだ距離があるはず。
疑いもせずに走っていたから、目の前に突然坂道が現れた時には気付けなかった。
急な坂道に驚きつつも勢いを殺そうと足元に意識を向け、直後、それまでの考えがいかに浅はかだったかを思い知らされる。
川だった。
その坂道が。
幅にして五メートルかそこらはあるだろうか。
人の手が加えられた形跡はなく、自然のままに削られ広がった川――だったのだろう。
今、その川の幅は一メートルにも満たない。
私が駆け下りようとしていた坂道の底を、濁った水がちろちろと遠慮がちに流れている。
もっと遠くにあるものだと思っていた。それほど水音が小さかったから。しかし現実を目の前にすれば、自分の考えを改めざるを得ない。私の思い描いた大河は既になく、僅かに小川程度だけ残った水が流れるばかり。
この川の先に、人は暮らしているのか?
かつて川が健在だった頃は、住んでいたかもしれない。でも今は……たったこれだけの水量で、しかもこの汚れ具合で、果たして住んでいられるものだろうか。
「……いや、だけど」
そうは言っても、ようやく見つけた手掛かりだ。
今はもう放棄された集落でもいい。住民総出で移住したなら馬車か、そうでなくとも荷車くらいは使っただろうし、追うべき轍は残されているはずだ。
この川に沿って進む。
漠然と歩いてきた今までに比べれば、まだ希望はあった。
ただ、問題は山積みだけど。
リクから渡された大きな包み……背嚢。外套の上から背負っていたそれをお腹側に回し、中から小さな革袋を取り出す。
すっかり萎んでしまった革袋の正体は水筒だ。
森で暮らしていた頃は必要なかったし、もし使うにしても幹が空洞になっている木を使えばよかったけど、旅人はみんなこんな水筒を使うのだろうか。それは分からない。
唯一明確なのは、その水筒の中身が今は空だということ。
食料ともども減ってしまったお陰で、かなり重かった背嚢も今では片手でぶら下げられるほどだ。
……とはいえ、今一度見下ろしてみた川の水を汲む気にはなれない。
これはもう沸かしたところで焼け石に水だ。
幸い、こんな泥水でも水は水。かつて水に沈んでいたであろう川辺の坂道には背の低い草が生えていて、食べられないことはなさそうだ。
それで得られる水分など微々たるものだろうけど、ないよりはいい。……はず。
リクも折角なら旅の指南書でも入れておいてくれたらよかったのに、背嚢に入っていたのは水と乾物、今着ている外套と説明された火起こし道具の他は、何に使うのかも分からないものばかりだった。
無事ヒュームの住む土地に辿り着けたら、その使い道を確かめておこう。
問題は、ヒュームの住む土地に辿り着けるかが不透明なところだが。
追放は追放で、死罪とは違うとリクは言った。本当にそうだろうか?
日が落ち、辺りが暗くなると不安に駆られる。
森にも夜はあるけど、木々が揺れ葉が擦れ合うために静寂は訪れない。今も川の流れる音が聞こえるとはいえ、森の夜に比べればずっと静かだ。静かすぎる。
あと何日、こんな夜を過ごせばいいのだろう。
いいや、違うか。
あと何日、こうして夜を越せるだろう。
長命を誇るエルフとて、水と食料がなければ死ぬ。刻限は迫っていた。
エルフは死んでも、消えてなくなるわけではない。森の養分となり、脈々と続く血族の糧となる。
だが今、ここで死んで何になるだろう?
私だった肉は腐り、川を汚す泥の一部と化していくだけ。
そこに誇りがあるだろうか?
無様な死体を、誰にも拝まれそうにないことだけが救いなのか。
分からない。
疲れることより喉が渇き、飢えていくことの方が怖くて、結局夜通し歩き続けてしまった。こんな旅は長く続かない。それが分かっていても、足を止める気にはなれなかった。
まだか、まだなのか。
払暁に照らされる果樹と、その先に並ぶ家々が見えてきたのは、川を見つけてから三度目の夜が明けた時のことだった。