十六話 萌芽の予感
禍福は結ぶ。
「綿毛じゃないが、旅人にはなれた」
それ以外の何者でもないと言わんばかりに毅然と、堂々と、何より否とは言わせぬ力強い声によって。
「俺は巡礼者。二本の足で身軽に歩く、巡礼の旅人よ」
天導病。
忘れるはずがない。ほんの少し前に見た、赤子のような幼子。巫女というのは分からないけれど、どうして特別視されるのかは、なんとなく想像できた。
長くは生きられない身体だから。
人間が生きるために必要とする肉体の一部を削り、人間には過剰なまでの魔力を作り出してしまう、祝福とは名ばかりの病。
それが天導病というもので、だから時間が経つほどに肉体は均衡を失い、命を落とす。
元は受け入れ難い不可避の死を受け入れさせるための欺瞞とはいえ、そんな身体で十年だか十五年だかも生きれば、余人には特別なものに映るだろう。町で見た、あの幼子が十年後にも生きているなど、到底考えられない。
だが、もし、それだけじゃないとすれば。
「じゃあ、禍福。……お前の、その毛は」
「オットーのあれと同じだ。最早この身は、人の身ではない。慣れれば便利なものだがな。筋力どころか聴覚や嗅覚も昔とは比べ物にならない。目だけは良くならなかったが、まぁ犬や猫の目が良いって話は聞かないしな。でも夜目は利くぞ?」
あっけらかんと言ってのける禍福は、天導病と同時に獣化症も患っているという。
だからといって、こんな疑念を抱くのは間違っているのだろうか?
どうして彼女は、未だ生きているのか。
笑い、喋り、己の足で旅などしていられるのか。
「答えを知りたいって顔だな」
「……そりゃ、ね」
「良いことだ。我々は全てを知らねばならない。全てを知るためには、常に答えを求めて這いずり回らねばならない。探究心、何にも優る大いなる力よ」
会話になっていない。
そもそも私は、巡礼者の振りをしているだけでオールドーズの一員になったわけじゃない。
「だが、全てを知るオールドーズにも分からぬことはある」
「話の前後で矛盾してる」
「精神論だからな。全てを知らねばなるまいと、その遺志を忘れないために、我々は全てを知ると叫び続ける。全てを知っているとは言わない。全てを知るんだ、いずれ必ず」
「屁理屈だ」
「嘘は言ってない」
どうだか。
必要とあらば、嘘くらい平然と吐き連ねそうなものだが。
「まぁ、幸運にも俺は死なんよ。天導病はそれ自体に致死性があるわけじゃない。あくまで肉体を削り、魔力を多く作りすぎるから身を蝕むだけだ。対して獣化症は、肉体を人より丈夫で柔軟な獣のものに作り変える。ちょうどいい塩梅だろう?」
何がちょうどいいものか。
反射的に吐き捨てそうになって、すんでのところで自制する。
言わんとすることが理解できてしまったからだ。
例えるなら樹木だろう。雷に打たれ、枝の大部分と幹の一部にまで傷を負おうと、生き残った他の部分が健康なら死ぬことはない。
エルフの森に生きる木々は特にそうだ。時間はかかるにせよ、豊富なマナが傷を癒やし、あるいはダメになった部分を作り変え、元の姿を取り戻す。
尋常ならざるマナによって蘇った木が元の木と同じ存在かは、誰にも分からないが。
「だが、お前はまともに見える」
「これで、か?」
「会話ができている。あの男は……、オットーは無理だった」
とはいえ、私たちエルフでも木に心があるのかは知る由もない。
彼らが激痛に喘ぎ、いっそ死んでしまいたいと思いながら溢れんばかりのマナによって死さえ許されず、仕方なしに再生の道を歩んでいる可能性だってある。
翻って、禍福はどうだ?
禍福には確かに心がある。人間だ、ないはずがない。獣にだってあるのだろうが、それは人間が思うものとは少し違っていた。知性と本能を分けて考えられる、それが私たちの言う心である。
獣と化したオットーには、それができなくなっていたように見えた。
しかし禍福は、未だ瞳に知性を宿している。濁ってもいない。よく笑う。少し羨ましくなるくらい、時には無邪気な笑みを覗かせるものだ。
「オールドーズにも分からないことはあると言っただろう」
「お前自身のことだ」
「オールドーズに分からぬことが、俺に分かるとでも?」
ハッ、と鼻で笑われる。
そんなにオールドーズが好きか。幽閉されていた屋敷から抜け出す手引きをしてくれたから? 分からない。分かりたくもない。
「これも言ったはずだな、獣化症は原因が分かっていない」
だから治療も分からないと言っていた。
「だが天導病と同じく、マナが枯渇するに合わせて見られるようになり、年々その発見数は増えている。マナの不足が原因で発症、悪化するとすれば、限られたマナから効率的に魔力を生み出す天導病は特効薬になるかもしれない」
天導病と獣化症、ともに不治であり致死の病でありながら、互いに互いを無力化する天敵同士でもある。
そんな美味い話があるのだろうか。
ただ、現に禍福は生きていた。
嘘を言っている可能性は勿論ある。それでもフードの奥の獣毛は紛い物を用意するなんてできないし、人が獣みたいになってしまう病気や何かが二つも三つもあるなんて考えたくもない。
信じる。
そう決めたなら、残る感情は一つしかなかった。
「病に意思はない」
「そうか? 奴らにも生存本能があり、繁殖するように増殖するとも言うが」
「生存本能も何も、病は生き物じゃないだろう」
馬鹿なのか。
森にも学者肌というか、知ることが好きすぎて色々知りすぎた末に周囲と会話が成り立たなくなってしまった老齢の者がいたけど、過ぎたる知は人を異常なものに変貌させるのではないか。
まぁいい。
横を歩くのはオールドーズではなく、禍福その人だ。
「病に意思はない」
「譲る気はないんだな」
「あっても構わないが、お前たちの言い分を聞き入れるつもりはない」
全てを知りたいだけのオールドーズが偉そうな口を叩くな。
「なんにせよ、天導病がお前を蝕み、獣化症がお前を助け、それで今度は天導病がお前を助けたなら……よく分からない話だが、私はその病に感謝しよう」
禍福が何か言おうと曖昧に開けた口を、そのまま閉じたのが雰囲気で感じ取れた。
笑う。
声に出したつもりはなかったけど、禍福が嫌そうに鼻を鳴らしたから、笑い声を上げてしまったのかもしれない。
「そもそもお前が禍福にならなければ、ずっと屋敷にいたんだろう?」
「外には出られたさ。商店街で買い物はしなかっただろうがな」
お使いもできなかった少女が今や旅人か。
世界は分からない。
もっと知りたいと、心の片隅に芽生えた感情は固く縛って仕舞い込む。
私が知るべきは全てじゃない、森を救う手立て……それだけだ。
「お前に出会えた。私にとって、病に抱く思いはそれだけでいい」
「そうかよ」
禍福がつまらなそうに呟く。
「じゃあ俺は、マナの枯渇にでも感謝すればいいのか?」
「どうして」
「マナが枯渇しなければ、貴様はずっと森にいたんだろう?」
意趣返しのつもりだろうか。
「そうだとも」
そして森長になっていた。
きっと恋や愛など知らぬままリクとの間に子をもうけ、次の森長に、新たな世代のエルフたちに、私たちの森を繋いだだろう。
「だけど、そうはならなかった」
これは悲劇か?
悲劇だろうとも。生まれてくるはずの命が失われ、喜びに流すはずだった涙は悲しみに染め上げられた。そこに救いはない。一片の幸福も、認めてはいけない。許されざる悲劇である。
「悲劇は悲劇だ。覆らない。……だが、だとしてもだ」
腰の、そこに存在しながら存在しない、禁忌の刃を撫でてみる。
「悲劇の後には、悲劇以外の何かがあってもいいだろう。腹を抱えて笑える喜劇でも、笑いも涙もなく、ただ平坦な幸福だけがある退屈な物語でも、なんでもいい。次を作る。悲劇の次を。悲劇ではない次を」
それが私の使命だ。
私たちの、目指すべき道だ。
「大仰だな」
「これでも森長の娘なんだ。世界が滅んだとて、森は救わなければならない」
「……そうか」
禍福の声に、色はなかった。
世界は滅ぶ。
時代が滅ぶ。
そう謳うオールドーズの一人にとって、私の歩む道は茨ですらない。踏み出した足は空を切り、奈落の底へ落ちてゆくだけ。
構うものか。
彼女が全てを知るというなら、私は森を救う。
それだけの話だ。
「走ろう」
「随分と急だな」
「時間がない」
「夜はまだ遠いぞ?」
「夜は遠くも、貴様の森の終わりは近い」
ふと笑う。
笑ってしまってから、己を悔いた。森の終わりを告げられ、どうして笑えるのか。
それでも走り出してみたら、笑うしかなかった。
羽が生えたみたいだ。
どうしてだか分からない。
けれど楽しくて、嬉しくて仕方なかった。
隣を見る。
足音もなく、上体を揺らすこともなく、流れるというより滑るように走る禍福の口元は、だからよく見えた。
一つ、夢ができた。
夜に見る夢じゃない、未来に抱く夢だ。
森を救ったら、もう一度旅に出よう。
森を追放されたエルフが森長になるわけにはいかない。
だから、もう一度。
受け入れてくれるなら、旅する禍福の傍らで。




