15話 獣がまだ人だった頃・2
巫女と呼ばれる女が、姉のように振る舞っていた。
それが最も古い記憶。
巫女はいつも曖昧に笑っていた。気味の悪い女だと思ったことを覚えている。
巫女の傍にはいつも誰かしら大人が控えていて、そういう連中をあの曖昧な笑みで誘き寄せているのかと思ったほどだ。
違った。
一度だけ、一人でいる巫女を見たことがある。
饐えた臭いのする便所で腰を折り、じっとりとした脂汗を額に浮かべ、獣じみた吠え声を上げながら唾液か何かを吐き出していた。透明ではなかった。
黄緑と紅を混ぜて、だが、それが黄緑と紅の混ざった色だと見て取れる程度には混ざりきっていない、粘着質の液体。
胃液と血液か。
他人事のように思ったことも覚えている。
巫女の血走った目が私を見つけて、唸り声とともに睨んできたことも。
「~、~~ッ!」
声は言葉にならなかった。
まだ何か言いたげだった巫女の口から、ごぽっと鮮やかな紅が溢れ出る。
そこで気付いた。
眼前では、一人の人間が最期を迎えようとしている。
どれほどが過ぎただろう。
私の肩を力強く掴む手があって、そうと気付いた次の瞬間には突き飛ばされていた。振り返った瞳が驚きに歪むも、その主は未練を振り切って巫女だったものに駆け寄る。
何も突き飛ばす気などなく、ただ咄嗟に押しのけてしまっただけなのだろう。
私は身体が小さく、細く、軽かったから意図せず地面に転がってしまった。それだけのこと。
その者は男だった。顔など覚えていない。ただ、どうせいつも巫女の傍に控えていた大人たちの一人だろうと、嗅ぎ慣れた臭いで感じ取る。
男が立ち上がり、首を振った。
息を呑む音が幾つも同時に聞こえ、ぎょっとして振り返る。何人もの大人が、いつの間にか私の背後に立っていた。私が嫌々繰り返してきた鍛錬はなんだったのか。なんの意味もなしていない。
一様に黙る大人たちを掻き分け、誰かが歩み出てくる。
見慣れない、しかしどこか見覚えのある男。
「あぁ」
と、沈黙を破ったのは私の素っ頓狂な声だった。
「これはこれは、父上ではありませんか」
「――」
私に、名はいらない。
「お前が次の巫女だ」
「お断りします」
「ならば、死ぬか?」
「極端ですね」
「長く生きた導児は、自ずと人々を導く巫女となる。天導病に選ばれたお前は導児だ。お前が生きれば、自ずと巫女となる。巫女にならぬためには、死ぬしかない」
「何故、どんな権限を以て、私を巫女に?」
「我らが女神の導きによって」
神様の絶対的な権限が相手となると、私に打つ手はない。
「仕方ありません。では、長生きしましょう」
父は無表情を放ってきた。あれれ、満足いきませんか。
「あと何年生きたら、私は巫女になれるのです?」
「五年だ」
「長いですね」
「十年生きただけで、長すぎる」
「だったら、もう巫女でいいではありませんか」
「今、十二の者がいる」
「だったら、その人が次の巫女じゃありませんか」
「あの者は長くない。息も絶え絶えだ。巫女の役目は、己が神に導かれながらも毅然と人々を導く姿を示すこと。人前で吐血されては、いくら導児といえど憐憫を浴びる」
「不幸ですね」
「お前は違うと?」
「分かりません。私は幸福も不幸も、経験した覚えがありませんから」
大人たちを引き連れ、父は去っていった。
入れ代わりに現れた大人の女たちが恭しく私の手を取り、神域ではなく、見たこともない豪華な寝室へと導く。
「私、まだ巫女じゃないんですけど」
「巫女でなくとも、――家のご息女であられますゆえ」
――・――という名は、そんなにも重いのか。
私は身軽が好きなんですけどね。
どこにでも翔んでいける、綿毛のような身軽さが欲しい。
そう思ったら、何故か唐突に答えを得た。
私が微笑む。女たちは曖昧に頬笑み返した。
私が曖昧に笑う。女たちは一瞬だけ表情を凍り付かせ、すぐさま取り繕う笑みを浮かべる。
その瞬間から、私はいつも曖昧な笑みを浮かべられるよう努力を始めた。これは武器だったのか。
私は巫女になろう。
巫女になって曖昧な笑みを浮かべれば、私が命じるがままにどこまででも神輿を担いでくれる従者を得られる。
私は人間だから、綿毛にはなれない。
だけど、巫女にはなれそうだ。
× × ×
いつだったか、大人の女たちに聞いたことがある。
「大人になるにはどうしたらいい? 私は子供だ。いつも女の子扱いされる。女になるには、どうしたらいい?」
女たちは珍しく距離感の近い、それでいていつも以上に引きつらせた笑みのまま、ぼそぼそと答えた。
「殿方と……いえ、ええっと、恋をなされてはどうでしょう」
「男に興味はないな」
「……下着。そうです、職人が細工を凝らした下着を用意しましょう」
「その職人は女か?」
「は? え? いえ、確か街一番の職人は男性だったはずですが」
「だったら嫌だな。誰が作ったものか分からないならともかく、男が作ったと分かっている下着を身に着けたいか?」
「あぁ、なるほど、それはそうですね」
「だろう?」
「えぇ」
女の一人はいつもの畏まった態度を忘れ、素の表情で頷いていた。
それに目ざとく咳払いをしてみせたのは、どうも女たちを束ねているらしいリーダー的な女だ。
「大人とはなろうとしてなるものではなく、気付けばなっているものです」
「そうなのか。だったら、大人になったと気付くのはどんな時だ?」
「そうですね……。まぁ、毛が生えてきた時じゃないでしょうか」
「そうか、毛か。私も生え変わるかな。この茶色い毛、好きじゃないんだよな」
「いえ、髪の毛は一生そのままかと。それかご高齢になって、白くなるだけで」
「じゃあどこの毛だっていうんだ」
髪以外の毛なんて、睫毛と眉毛くらいじゃないか。
私が腹を立てたと気付いたのか、女たちが急に目配せしだして何かを押し付け合う。そんなに私のご機嫌取りは嫌か。まぁ嫌だろうな。下手に怒らせたら教会と父まで一緒になって怒りだしかねない。
巫女見習いとは、便利なものだ。
などと考えているうちに、押し付け合いが終わったらしい。
先ほど素の表情を見せ、リーダーに咳払いされてしまった女が一歩前に出る。
そうか、責任を取らされるのだな。世知辛い社会の一端を垣間見た。
「えと、……です」
「え?」
「だから、その、ッッッです」
「おい、肝心なところが言葉になってないぞ」
女は怒っているのか、顔が真っ赤だ。私は怒ることはあっても、怒られることはなかったから、一瞬怯んでしまった。
いや、私は巫女見習いだ。怒られたなら怒り返せば、万事都合よく運ぶ。
そうだ、何か言われたら憤激してみせよう。
「お、お……」
「お?」
「おっ…………ああもう、どこだっていいんですよっ!」
「どこだっていいのか」
「そうです! なんでこんなとこに毛が生えるんだ、変だろ、邪魔だろ、汚いだろって思っちゃうようなとこに毛が生えたら、あなたはもう立派な大人です!」
「おぉ……! そうなのか!」
なんだ、怒ってなかったのか。
そして、そんなに単純なことだったのか。
いやいや、そんなに単純なことをわざわざ説明させられたから怒っているのかもしれない。私は無知だ。多くのことを知らずに育ってきた。街では私くらいの歳になると『お使い』というのをするらしいけど、私は一度もしたことがない。
どうやら『お使い』とは商店街に繰り出して買い物をすることのはずだけど、そんなの父も前の巫女もしなかったはずだ。大人になると『お使い』はしなくていいのか。だったら私は、最初からしない。
どうだ、大人だぞ。
いや違うな、まだ変なところに毛は生えていない。
「じゃあ、大人になったら言うな」
「えっ。あ、はい」
女が素っ頓狂な目を左右に揺らす。
「大人になったら、私は巫女だ。ふふふ、私が巫女になる時は近い!」
後ろに控えていた女たちが咄嗟に視線を下げた。
しまった、うっかり普通に笑ってしまった。すぐに曖昧な笑みで武装し、多すぎて邪魔な女たちを下げさせる。
「どうした、女リーダー」
「それはわたくしのことですか?」
「そうだ、貴様がリーダーだろう?」
待て待て、笑うんじゃない。
気付けば楽しくて笑ってしまいそうになる頬に力を入れ、精一杯の威厳を込めて言葉を紡ぐ。
「今日は貴様も下がれ。邪魔だ。私は一人で静かに寝たい」
「ですが」
「言葉の意味が分からんか。私は、貴様に、下がれと言ったんだ」
「……。…………はい」
豪華な寝室に、私は一人だけ取り残された。
広すぎる。
あと色も多いな。
寝室は白と黒、あとは木の色だけあればいい。葉の色さえ邪魔だ。太陽だの星だのの色は以ての外。目が散る。チカチカする。
しかし今日という日は何を見ても嬉しく、楽しかった。
いつ毛が生えるのかは分からないけど、そう遠くはないはずだ。前の巫女だって、傍目には大人じゃなかった。なのに大人たちより上に立っていた。あいつには毛が生えていたのだ。
なら私にだって、今日明日、毛が生えてもおかしくない。
だから寝よう。
一刻も早く明日を迎え、一日も早く巫女になる。
……あれ?
そういえば私は、巫女になりたかったんだっけ? 大人に、女になりたかったんじゃ……。
それさえも、何か間違っている気がする。
こういうのは……そう、ボタンを掛け違えるというんだ。
掛け違ったボタンの正しい姿を探すうち、私は眠りに落ちていた。
いいや、違う。
意識を失っていた。
気付いた時にはカーテンを開けっ放しにした窓から月明かりが差し込んでいて、その淡い光のもと、私は一人呻いていた。
痛い。
苦しい。
なんだこれ。
分からない。
起き上がろうとしたら失敗して、身体の横側を床に叩き付けてしまった。何かがピキリと乾いた音を立てる。腹から何かが這い上がってきた。本能的に床に手をつく。
直後、どす黒い何かが私の口から溢れ出した。
なんだよ、これ。
なんなんだよ、これ。
扉が開け放たれる。女リーダーが何事か叫んでいた。
うるさい、うるさい、頭が割れる。
叫ぼうとしたのに、どうにかこうにか声を出したのに、女が叫び続けているから私の声が届かない。掻き消される。
――ふざけるな。
「わた、しが――。わたし、は。私だッ」
胸ぐらを掴む。
勿論、自分のだ。女の胸なんて届かない。何メートルあるんだ? 部屋が広すぎる。どうだっていい。叫ぶ。
「黙れッ!」
「です――」
「黙れと、言っているッ!!」
女が黙った。
お陰で廊下から響く足音が聞こえてくる。あぁ、うるさい。
「ここはどこだ」
「いきなり、何を」
「ここはどこだと聞いている」
「ここは……あ」
「私の寝室で騒ぐなど、誰が許した。黙れ。そして去れ。永劫、ここに喧騒を持ち込むな」
足音が止む。
何人もの大人が扉越しに私を見ていた。
ごぽっ、と愉快な音が鳴る。笑った。笑ってしまった。呵々と、声を上げ。
「さぁ、去れ。私は寝る」
誰も何も言わなかった。
口元を拭う。
粘度のある鮮やかな紅がびっしりと覆う手の甲に、私は確かに、それを認めた。
「あぁ、いい日だ」
誰も何も言わない。
「思い出した。私は綿毛になりたかったんだ」
胸を掻き毟る。
どうして忘れていたんだろう。
身軽に、気ままに、揺れ動く心に従ってどこまででも行きたい気分だった。
「いいな、いい。素晴らしい気分だ。身体が軽い」
「――」
私の名を呼ぶ、誰かの声。
聞き慣れない、しかしどこか聞き覚えのある男の声。
「あぁ、これはこれは、父上ではありませんか」
「お前は……、――なのか」
「ははは、娘の姿を忘れましたか」
「だが、お前は、貴様は…………」
何がそんなにおかしい?
父が目を丸くするなんて、明日は雪でも降るんじゃないか。雪とは空から降ってくるもので、綿毛のように白くふわふわしているという。一度でいいから見てみたいものだ。
そうだ、見に行こう。
「父上、この辺りに雪が降るところはありませんか」
「急に何を言い出す」
「雪を見たいんです。綿毛のようだと、聞いたことがあります」
「ダメだ」
「何故です?」
「それ以上、何も考えるな。自分を見つめ直せ。今なら、まだ――」
「私は、私を知っていますよ。私はずっと、綿毛のようになりたかったんです」
笑う。
視界が揺れた。
急に光が強くなって、世界が突然朝を迎えたようだった。
「お前は……あぁ、くそったれが」
父が珍しく声を震わせた。
何をそんなに怒っているんですか。
笑おうとして、頬に違和感を覚える。手を伸ばし、触ってみる。さわさわ。余計に強くなった違和感の正体を確かめようと頬から手を離して、ようやく見て取れた。
鮮やかな紅が淡い栗色に取って代わられている。
「おや?」
誰かが目を見開いた。
あれは誰だったか。
そうだ、昼間私に毛のことを教えてくれた女だ。
「これで私は大人ですね」
こんなところに毛が生えているのは変だ。邪魔かどうかは分からないけど、パンを食べる時にジャムが付いてしまって大変そうではある。と考えると、邪魔でもあるのか。
「あれ、でもおかしいですね」
くつくつの喉の音で変な音がする。
笑っているのか、私が。
「皆さんには、こんなところに毛は生えていません」
「それは――」
誰の声だったか、分からない。
もう、どうだっていいだろう。
それが俺がまだ私だった頃――。
まだ屋敷に幽閉されることなく、オールドーズとは別の名を持ち、巡礼者とは違う身分で振る舞っていた頃の、最後の色鮮やかな記憶である。




