十四話 獣がまだ人だった頃
あるところにナントカという男がいた。
男の名を知る者は、もういない。
ナントカはどこかから、誰かから逃げていた。
どこの誰から逃げていたのか知る者も、もういない。
ただ、逃げて逃げて逃げた先で、ある男と出会った。
だだっ広い荒野の只中。
何故か散乱した瓦礫を何故か片付けていた男と出会ったのである。
運命の出会い、と言うのだろうか?
情景を思い描いてみても、そんな幸せなものは想像できない。
けれどナントカにとって、それは確かに人生を変える出会いだった。
ナントカは言ったという。
「あんた、何してんだ?」
男は答えたという。
「魔神さ」
「は?」
「ここに魔神が来たんだ」
「そりゃあ、ご愁傷様で?」
「何を言う、こんなに嬉しいことが他にあるか」
「はぁ?」
「あぁ、てめぇは見てねえから分からねえんだろうな。魔神ってのはな、めちゃくちゃ強えんだ。めちゃくちゃ怖えんだ。あんなのがオレと同じ生き物だなんて信じられねえ。もしかしたら生き物じゃねえのかもしれねえ。だぁが、もし生き物だったとしたら、そりゃあすげぇことじゃねえか。オレら人間だって、いつかめちゃくちゃ強くて他の奴らに恐れられる存在になれるかもしれねえんだぜ?」
いきなりの饒舌にナントカは絶句したという。
「てめぇ、名前は?」
「ねえよ」
「んなわけねえだろ」
「親から貰ったもんは捨ててきた。俺は追われる身だ、名前なんかあっても困る」
「そうかい。しっかし、んじゃあてめぇのこと、オレぁなんて呼びゃあいい?」
「は?」
「ここら一帯から街の痕跡を消せってのがオールドーズ様からの言伝でな。しっかし、オレは腰が痛くて堪らん。てめぇは見たとこ若そうだな、代わりにやれ」
「おいおい、あんた人の話聞いてたか? 俺は追われてるって――」
「てめぇこそ人の話聞いてたか? やってくれじゃねえ、やれって言ったんだ」
男は、それ以上何も言わなかった。
次に口を開く時は、もしかしたら「最後に言い残すことはあるか」などと言い出しかねない。
ナントカは急いで男の手からツルハシだかスコップだか、ともあれ瓦礫掃除の道具をひったくって荒野に向き合った。
それからどれほどの時間が過ぎたのだろう?
私は知らない。
ナントカや男にとっても、過ぎ去った時間に意味はなかったのかもしれない。
「なぁ、あんた」
「なんだ、小僧」
「そういや俺ぁ、あんたに名前を聞かれはしたが、あんたの名前は聞いてなかった」
「だからどうした?」
「いい加減、教えてくれや。今まで頭ん中じゃあんたのことジジイって呼んでたんだ。もし教えてくれなきゃ、それで呼ぶことにする。いいのか?」
「脅してるつもりか?」
はっはっは、と豪快な笑い声を零した男は、だが物思いに耽るような表情を覗かせたという。
「オレはオットーだ」
「本当の名か?」
「いや、本当の名はオッチだ」
「はぁ? どうしてんな嘘なんか」
「オレも追われていてな。いんや、オレの弟が無実の罪で追われていた。嫁さんは連れていかれた。まだ言葉も分からねえ子供だけが残された。だからオレが逃げ出した。オレはオットー。無実を主張しながら逃げ出した、無様な犯罪者ってわけだ」
ナントカはしばし悩んだ。
何を悩んでいるのか自分でもよく分かっていないことに気付くまで悩んで、口を開いた。
「そんなこと言っていいのか、俺なんかに」
「もう何十年も前の話だ」
「……? 何十年も、あんたは弟の振りをしてたのか?」
「馬鹿言え。オレらのことなんざ何も知らん連中の世話になってたさ。知り合った時はまだ警戒してたから、あいつら全員が魔神に殺されちまうまで、オレはずっとオットーだった」
オットーだったオッチが笑う。
「けんど、そろそろいいだろ。オレはオッチだ。てめぇは、誰だ?」
「……なぁ、ジジイ」
「てめぇ、おい、名前教えたらその呼び方やめるんじゃなかったんか」
「あ、悪ぃ、嫌だったか?」
「オレはジジイじゃねえ、まだまだ動けんだよ」
「とか言いつつ腰は痛えんだろ?」
「んなわけねえだろ。あんなのてめぇに押し付けるための方便だ」
「ひでぇ爺さんだ」
ナントカは笑って、笑って、笑って、自分が久しぶりに笑っていることに気が付いた。
「なぁ、オッチ」
「んだよ、小僧、気持ち悪ぃ声出すんじゃ――」
「あんたの弟の名前、貰っていいか」
「あぁ?」
「俺はまだ自分の名を名乗れねえ。妹がいたんだ。けど、俺は……」
「おいおい、まさか妹の身代わりになって……?」
「違えんだ、妹が結婚するとか言い出して。うちは親が早くに死んで、俺が親代わりに育てたんだ。貧乏だけど、妹がいるから頑張れた。何もかも犠牲にするつもりで働いて、学校まで通わせてやれたってのに。あのクソ野郎、人の可愛い妹に手を出しやがった。挙げ句に結婚だぁ? 許せるわけがねえ。ちょっと懲らしめてやるだけのつもりだったんだ。うちの妹はんなに安くねえぞって。なのに、なのに……」
いきなりの饒舌に、なんなら次々と溢れる涙に、今度はオッチが絶句する番だった。
「冷たくなっちまった。だから逃げてきたのさ」
「てめぇ、クズだな」
「そうだ、俺はクズだ。だが、俺の妹に手を出したあいつはもっとクズだ」
「とことんクズだな」
「そんなクズで申し訳ねえが、あんたの弟の名前、俺が貰っちゃいけねえか」
「よくも言えたな、そんなこと」
オッチはまたも絶句した。
意味が分からない。こいつは気が触れているのか。その妹は実在するのか。むしろ妹が稼いだ金を酒に費やしていたのではないか。
オッチの脳裏を色々なことがよぎったという。
それでも、答えは決まっていたというのだから驚きだ。
「あぁ、名乗れ。弟にしちゃあちと若すぎるが、息子……はまぁ嫌だが、甥っ子くらいに思ってやっても構わん」
「あんたが弟と一緒に守ったっていう、あの……!?」
「いや、あれは女だった」
「そうか……。あんたの姪っ子だ、今頃どんな――」
「殺すぞ」
「え、は?」
「うちの姪っ子で変な想像してみろ、殺すぞ。二度殺す。いいか、二度だ」
意味が分からなくてオットーは震えた。
しかし、オッチがそう言うからには確かに二度殺されてしまうのだろうと察し、記憶から今頃とっくに大人になっているであろうオッチの姪の存在を消し去った。
「分かったな?」
「あぁ。俺はオットー、あんたの弟とはなんの関わりもない、ただのオットーだ」
「それでいい。ほら、片付けるぞ。次に来るオールドーズ様は癇癪持ちと聞かされている。なんでも魔神と遭遇しても生き残った、神の祝福を受けた巡礼者だとか。あぁ、待ち遠しいなぁ。オレが見たのとは違え魔神なんだろうなぁ。どんな魔神なんだろうなぁ。食われそうにでもなってくれてりゃあ、いい酒の肴になるんだけどなぁ」
オットーは絶句した。
そう、その時オットーは、初めて自分をオットーだと認識した。
× × ×
真実がどこにあるのか、それを知るには主観でさえ邪魔である。
しかし主観なくして自分は自分たり得ない。
ゆえに真実は、いつだって薄く透けた布の向こうに隠れている。
私が聞かされたオットーとオッチの出会いは、両人から聞いた話を禍福がまとめたものだった。
果たしてオッチに弟はいたのか? オットーは妹の婚約者を手に掛けたのか?
私は真実を確かめる術を持たないし、別段確かめようと思うほどの関心もない。
もしかしたら目の前で死んだ男を悼まずに済むよう、敢えて軽薄な男として誇張された可能性だってある。
禍福は優しい。
あの男を前にして、あれだけの笑みを湛えていたが、せめてその優しさだけは真実だと思いたかった。
「さて、次はなんの話をしようか。サクサの正体か? オッチが死を偽装してまで行きそうなところか? 旅に暇は付き物だが、意外と二人旅の方が暇を持て余すらしい。暇潰しになるなら、なんだって構わないが」
横を歩く禍福は心底楽しげだ。
今朝起きてから、ちょっとテンションがおかしい。
病気じゃないといいんだけど、それはそれとして、なんでもいいと言われたら聞かずにいられない話が一つある。
「災禍の病、と言ったか」
禍福が笑う。
声なく、薄く。
あぁ、やっぱりそうか。
禍福の顔を覆う獣毛と、変貌したオットーを包んでいた獣毛。その二つは無関係どころか、全く同一のものなのかもしれない。
いつも外套の袖で隠しているが、禍福は手袋をはめていた。寝る時でさえ巡礼者は外套を脱がない。食事の時に手袋を外さなくても驚かないが、ただ億劫がってはめ続けているわけじゃないだろう。
「獣化症。それが俺を蝕む病の片割れよ」
「その名の通り、人を獣に変容させる病だ」
幾許かの沈黙の末、禍福はぽつり呟いた。
そこに感情は覗けない。
「原因は分からない。天導病は足りない魔力を補おうとした結果だが、獣化症はただ獣と化す症状だけが目に見える。そんな症状だ、原因も分からず治療はできない」
笑いかけてくる禍福の顔を見れば、獣毛も見ないわけにはいかない。
「自然には治らないのか?」
「今までに一例たりとも、治ったという話は聞かない」
不治の病。
そんなものに侵されオットーは、あるいは……。
「見ただろう? 獣化症で獣と化すのは、何も見た目だけじゃない。知性が失われ、人間を人間たらしめていたものが獣性に取って代わられる。その治療は、あたかも獣を人間に作り変えるような話だろうさ」
だが、だとしたら。
上手く言葉が出てこない。
ずっとそうだ。オットーの最期を目の当たりにし、アジトを後にしてから。
どんな言葉を、どんな声に乗せればいいのか分からない。
「殺すしかなかったのか」
「獣と化した人間の行動原理は制御不能の衝動。己が壊れることも厭わず、物も者も構わず破壊し尽くさなければ気が済まないとばかりに暴れ回る。まさか牢獄に閉じ込めて息だけさせるのが救いだなんて思うわけじゃないだろう?」
禍福が浅く笑う。
「あいつにだって自覚症状はあったはずだ。獣化症は知性と理性を溶かす。初期段階では外見的変化がなくとも、自分の肉体が自分の意思を離れて独りでに動くという。彼らは、夢を思い出すかのように現実を思い出し、己の異常に気が付く」
夢、……夢か。
まさか未来に描く方の夢じゃないだろう。寝ている時に見る夢だ。
ある程度意識的に動ける夢もあるし、ただ自分が登場する下手くそな演劇を上から眺めるような夢もある。どちらも夢だと気付いたら遠ざかり、起きてしばらくすると朧げに消えてしまう。
その夢の感覚か。
「ほんの少し前までヒュームにしか……普通の人間にしか見えなかった」
「匂いはしていたんだがな。まあ、あんなに早く理性を失うのは尋常じゃない」
匂い? ――と首を傾げてみるも、禍福は気付かない振りをした。
「大方、俺がやった酒を呷ったんだろうさ」
「酒で悪化するのか?」
「酔えば、理性は薄れる。獣化症はそれで悪化する」
なるほど、と納得する。
行動原理は衝動と言っていたが、衝動とは箍が外れてしまえば歯止めが利きづらくなるものだ。どうにか収まっても、一度解き放たれた衝動は際限なく膨らんで、前よりも抑えるのが大変になる。
「まぁ、獣化症ってのは、そういう病だ。見慣れれば、なんとなくだが見分けが付くようになる」
「それが匂いか?」
「貴様とて、人間が持つマナの量や濃度を明確に見分けられるわけじゃあるまい?」
「なんとなくの感覚で、だけど、だからこそ些細な違いに違和感を抱く。そういうものか」
「そういうものだ」
それきり黙り込んだまま、私と禍福は歩を進めていった。
何かを言いたい。喋っていたいし、できることなら踏み込んだことを聞きたい。
でも、どうやって聞けばいいのか?
胸の奥に向かって手を伸ばせば伸ばすほど、その答えは遠ざかっていった。
まるで宙を舞う綿毛だ。
簡単に捉えられそうなのに、掴もうと躍起になればなるほど、ゆらりと巧みに指の間をすり抜けてしまう。
そういう時は、待てばいい。
そっと広げた手の平に舞い降りてくるまで、じっと……。
けれど、そうしている間にどこか遠くへ飛んでいって、見知らぬどこかに舞い降りてしまったら?
きっと私は、手を伸ばさなかったことを後悔する。
「禍福は」
幻視した、それでいて確かな重みを伴う苦い感情に背中を押され、我知らず口を開いていた。
空が暗い。
星々が瞬き、今が夜だと教えてくれる。
「禍福は、まだ、禍福なのか?」
私は何を言っているんだ。
禍福も目を丸くし、それから声を上げて笑った。
夜の荒野には、穏やかな風が吹いている。決して寒くはない。少し涼しすぎる程度。
身を震わせるほどではない冷気に流され、禍福の笑い声が遠ざかる。
「そうさ、俺は禍福さ」
その笑い声に自嘲が混じっていることに気付いて、思いもしなかった後悔を感じる。
「昔話をしようか。それとも、今の俺の話をしようか」
問う声音ではなかった。
禍福が喉の奥でくつくつと笑っている。
「昔話を。それから、今の禍福の話を」
「そうか。分かった」
禍福が空を見上げる。
星々は瞬き、遠くで雲がゆったり優雅に泳いでいた。
「夜は長い。いつだって夜は、長いもんだ」
何を意図した言葉だったかは分からない。
しかし、どこかに腰を落ち着け、座ったり寝たりして夜明けを待つ気は最初からなかったのだと、半ばフードに隠された横顔を見て気が付いた。




