106話 錦の巫女
離れていても尖塔を見通せた大聖堂。
それは眼前にすると一層高く聳えて見えた。天階の大聖堂などと呼ばれたのも、初めて目にした者には尖塔が天まで続いているかのように見えたとかいう、ただそれだけの理由ではないかとすら思えてくる。
とはいえ今更、観光気分で足を止めるわけもない。
門前で立ち止まって尖塔など見上げる暇ができたのは、そこにちょうどアルバが――逃げたロベルトたちの追跡と尋問を任されていた女が合流したからだった。
俺たちに聞かせまいとする意図は見られないものの、一方でわざわざ聞かせる理由もないとばかりに潜めた声で行われた報告。それでも俺の耳であれば難なく聞き取れたが、かといって口を挟むほどのこともない。
追跡と捕縛、更に俺たちに合流するまでに要する時間を考えれば、アルバ自身が尋問できた時間など高が知れている。
まだ部下たちが尋問しているのだろうが、今現在もたらされた情報は微々たるもの。そしてそれは判断を覆させる代物ではなかった。
しばしの黙考の後、ディエゴが口を開く。
「二度手間になってしまうが、奴らを連行してきてもらいたい。できそうか?」
ロベルトたちが抵抗しそうかを問うたはずの言葉に、アルバは全く別の方向から首を振って返す。
「僭越ながら、お供させていただければと」
「自分の判断に納得できないか?」
「いえ、そんなことは! ……ですが、大聖堂はまさに心の臓。翻って賊の連行程度、しくじる者たちではありません」
「彼女の耳を侮るわけでもなく、そう進言すると」
ちらり、と二人の眼差しが俺に向く。
隠すつもりのない盗み見ほど面白くないものもないが、意趣返しするまでもなかった。
「私は別に構わないけどな。貴様らごとき一人増えようが二人増えようが関係ない」
どこまで聞こえていたのかはさておき、俺が何を言うべきかと思案するより早くエレカが口を挟んできたからだ。
「なんなら案内ももう十分なんだが、巫女に面会願う手前、貴様らの顔も立てないわけにいけない」
その不遜な態度も、ここまで貫けば不信感ではなく信頼を呼ぶ。
無論好ましい意味ではないが、良かれ悪しかれ相手の背中を押すに足る信頼だ。
ディエゴが折れ、アルバの意見が通る。二人が止めていた足を大聖堂へと向け、俺たちも続いた。当然、名も知らぬ防衛隊の面々も。
大聖堂の門はディエゴより上背があったが、彼はそれを難なく押し開けていく。
巫女がいるという大聖堂に、そんな無遠慮に踏み込んでいいのかと何気なく思った矢先だ。俺の心中を読んだわけもないだろうが、ディエゴが徐ろに口を開いた。
「巫女様がおられるのは奥の御所だ。まずは……」
しかし言葉は、そこで曖昧に切られる。
疑問を抱くより早く、その答えが俺の視界にも飛び込んできた。
「光……?」
明るかったのだ。
月も星も覆い隠された夜の闇を切り裂くように、半ばまで開けられた門扉の隙間から光が漏れ出る。
固まるディエゴを押し退けて内部に踏み込み、直後に過ちを悟った。
模様が描かれた窓。
まるで陽光を受けたかのごとく色鮮やかに輝く光が伽藍堂に降り注ぎ、荘厳で神秘的な空間を作り上げていた。
そして伽藍堂の最奥、御所と呼ぶにはあまりに開放的なそこに、一つの姿を見て取る。
視線は外さぬように背後へと戻るが、ほんの数瞬前に通り過ぎたはずの空間は俺を拒絶した。知っている。そうだろうと思った。だから失敗を自覚したのだが、ほんの僅かな気の緩みですら取り返しはつかない。
結界だ。
緋色が錫杖を用いて展開したのと同じ、外と内とを明確に切り離す魔法。
それが大聖堂の内部に張り巡らされ、細かな条件までは分からないが、踏み込むことはできても逃げ帰ることはできない大掛かりな罠と化していた。
してやられたと、認める他ない。
そうと知ってか知らでか……いや、十中八九察したのだろう。エレカも俺の後に続き、まだ状況を理解できていないらしいディエゴたちも狩猟場に足を踏み入れる。
俺はその全てを、ただ足音だけで感じ取った。
眼前……というには遠すぎる、けれども見間違えるはずもない姿を前に、警戒とは別の意味でも目を離すことなどできなかった。
「ルージュ?」
と、呟いてしまった俺をよそに。
そのルージュによく似た、それでいて違和感も抱かせる女が声を上げた。
「防衛隊が聞いて呆れる。敵の首魁を律儀に道案内するなど、君に付けた脳みそはなんのためにあるんだ?」
膨れ上がる違和感。
女は、ルージュと瓜二つの外見をしていた。
男であれば、いいや女であっても、強いて引き剥がさなければ吸い込まれてしまいそうな美貌。顔立ちも体付きも、非の打ち所などないかのような女神の姿。
だが、しかし。
鮮烈な印象を刻み込んだ紅の髪はそこになく、代わりに透き通る金色の髪が陽光に似た光の中に、風もないのに揺らめいていた。俺たちを見据える瞳は碧玉、唇を染めるのも淡い花の色。
「人はいつだって信用ならない。不完全な存在に信頼などするものではない。分かっていたのに、僕は過信したんだろうね」
僕、と己を呼んだ女が立ち上がる。
そう、立ち上がった。今までは座っていた……はずだが、気付いた後で目を凝らしても何に座っていたのか分からない。思い出せもしない。伽藍堂には、立って歩ける俺たちを除けば、ただ降り注ぐ光しか存在しなかった。
「み……、巫女様? 何を――いえ、何が、どうなっているのでしょうか。お身体は大丈夫なので」
「君、斧を貸し給え」
困惑と心配の声を一顧だにせず、一方的に吐き捨てる女。それをディエゴは巫女と呼んだのか?
俺の知る巫女と、……似ても似つかぬはずなのに、何故だか重なって見えた。
「斧……ですか?」
「君が背負っているそれだよ。斧でも槍でも、斧槍でも戦斧でも呼び方なんてなんでもいい。兎に角それを渡せと言ったんだ。これ以上、僕を苛立たせないでほしい」
ディエゴが何か問い返そうとし、できずに終わったのが喉の奥が鳴る音で分かった。
何がどうなっているのか。
俺ですら理解が全く追い付かないのだ。それでも、あまりに異質な伽藍堂が普段の大聖堂と別物であることくらいは想像できる。俺と違って普段を知るディエゴには、余計に理解し難い光景なのだろう。
ただ、同時に。
未だ沈黙を破らないエレカにも、些かの不気味さは感じてしまう。
アルバを筆頭とした部下たちも何も言わず、動きもしないままに時間だけが流れた。その時間さえも止まったかに思えた頃、ようやく自分が何をすべきか理解したらしいディエゴが俺を追い越し、女……巫女のもとへと歩き出す。
途中、背中に回した手が斧槍の柄を握ろうとし、躊躇うのが見えた。
事実上の最高権力者に対し、得物を抜きながら近付くことがどれほどの非礼か。とはいえ相手がそれを求めている以上、歩きながら手にするか、立ち止まってから手にするかの違いでしかない。
そして巫女は、苛立たしげに片足を揺らしている。
ディエゴの手は迷い続け、数秒も要して柄を掴んだ。握り込んだ拳は震えている。困惑か緊張か、どちらにせよ常ならば有り得ないだろう。
長い長い十数秒を経て、ディエゴが巫女の前に辿り着く。
恭しく片膝をつき、捧げ物でもするかのように差し出された斧槍に手を伸ばす巫女の顔に、苛立ち以外の表情は見て取れなかった。
斧槍の柄が握られる。
何をするのか。
微塵も想像できなかったし、だから理解もできなかった。
斧槍は振り上げられ、そして振り下ろされた。
「はっ?」
「ハッ」
同じ音。
けれど俺の声は疑問を呈し、エレカの声は確信を滲ませた。
ディエゴの首が、ごとりと音を立てて床に落ちる。吹き上がる鮮血を、巫女は斧槍を盾とし払い除けていた。
顔には未だ、不機嫌な色。
「まったく、手間をかけさせてくれる」
挙句の果てに吐き捨てられた声が、理解し得ない乖離を物語ってみせた。
「なにを……どうして…………」
背後で零された声に、微かな金属音が続く。感情を理性で抑え込もうとしたか、理性を感情が突き破ろうとしたか。
どちらも同じことだ。
遂に理性は堪え切れず、激情に駆られ走り出す者が現れる。
俺たちのすぐ横を通り過ぎていったのはアルバだった。なんとも愚かしい忠誠である。
「僕に来る、と見せかけて裏切り者の勇者を狙ったなら考えたんだけどね」
巫女が呟く。
その時には既に、振り上げられた斧槍がアルバを両断していた。
ディエゴの体躯に合わされたと思しき斧槍の全長は俺の上背を超すほどだ。片刃の斧部分だけでも片手で持ち上げるのは難儀するだろうし、そこに長く突き出た槍まで付いている。
あんなものを片手で振り回す女が尋常な存在のはずがない。
エレカやグレイ、それこそルージュと同質の存在。膂力ではない別の力で振り回される斧槍を前に、真っ当な剣や斧で立ち向かえると思ってはいけない。
アルバは間違えた。ディエゴの犠牲から学べなかった。
では、他の部下たちは?
「貴様ら、上官の死をなんとも思わんのか?」
笑うような声音で言ったのはエレカだった。
「おや、意外に優しい。……ならよかったんだけど、君のそれは小賢しいだけだ。まったく嫌になるよ。君は老獪なのか幼稚なのか分かったもんじゃない」
「年老いてはいないから、その二択なら幼稚なんだろうな」
「そうかい、それなら余計に嫌になるね。道理も知らないガキに押し通るだけの力を与えたのはどこの馬鹿だ?」
エレカの声に巫女が応じ、巫女の声にエレカが応じる。
まるで旧知の仲かのように交わされる会話だが、言うまでもなく互いに隙を見せる様子はない。
そして俺も、一度は失態を演じている。万が一にも防衛隊の面々の剣など食らいたくはないから、必然としてエレカに釘を刺すよりも巫女を含めた周囲への警戒に意識を割かざるを得ない。
一歩、二歩とエレカから距離を取り、ずっと前にいた巫女と後ろにいた防衛隊とを視界に収める。
防衛隊には動けない者と、動かない者がいるようだった。
動けない者は無論、状況の変化に付いていけていない。何が起きたのかも理解しきれておらず、動けないのだ。
一方の動かない者は、巫女の決定を無条件に受け止めたか、あるいは誰が味方で誰が敵なのか判断しようとしている様子。
双方、即座に俺やエレカに斬り掛かってくる素振りはない。
どちらかといえば、エレカと巫女の会話に神経を尖らせている。
「拍子抜けだな」
と、首を振ったのはエレカだった。
「アルバを見習って突っ掛かってくれれば、奴の手の内を少しは探れたんだがな。……貴様もそうだろう? こいつらを放置するのは、私が動いて少しでも隙を晒せばいいと思ってるだけだ」
「当ッ然!」
お前らは友達か。
場違いなやり取りに場違いな感情を抱いてしまうが、次の瞬間に肝が冷える。巫女のひどく冷めた瞳が、じっと俺を見据えていた。いっそ外見通り、ルージュ当人と見るべき化け物の部類か。
だが、分からない。
分からないことだらけの中でも特に、その容姿が疑問だった。
俺の知る巫女とは、ただ天導病に侵されながらも長生きしている者を指す言葉でしかない。最年長の者だったのか、年長の中で体力のある者だったのかはさておき、あれほどまでに逸脱した力の持ち主ではなかった。
そんな既知の存在とは異なる巫女とやらが、信奉する女神と同じ姿をしている。
「なんにせよ、敵は敵だ」
エレカに向けて、小さく言う。
そんなことは百も承知だろう。打てば響く会話が成り立ったとて、まさか巫女がルージュを裏切ってくれるなどとは思うまい。
「まぁ、確かにそうなんだけどな……」
「君の勇者は野蛮だね、プラチナム。折角の人間なんだから文明的であるべきだよ」
「身内を二人、問答無用に斬り捨てておいてよく言う」
声だけはどうにか笑って口を挟むが、返されたのは本物の笑い声。
「これは身内じゃないよ、ただの道具だ。馬鹿と鋏はなんとやらとは言うけどね、残念ながら持ち手を切りつけてくる鋏に使い道はない。迅速に処分するのが最も賢明な答えだよ」
ただの道具。
迅速に処分。
誰かが思い描いたような台詞は茶番めいて聞こえるが、それを実行に移したなら茶番では済まされない。
「まっ……待ってくださいッ!?」
困惑混じりの怒声という、なんとも器用な叫び声を防衛隊の誰かが響かせた。
若い男の声。
探すまでもなく、身を乗り出す姿が視界に映っていた。
「隊長が何をしたというのですか! 副長は、副長だって……!」
「役目を果たさぬという怠惰。君の言う隊長がしでかしたのはそういうものだ」
「役目っ? 役目ですとッ!? 隊長がどれほど防衛隊の任に真摯でおられたか、それを知らぬ巫女様では――」
「うるさいな。敵をここに招き入れる、これを背信ではなく怠惰と呼んでやっているだけ慈悲深いとは思わないのか」
この巫女の前ではエレカも霞む。
招かれざる敵と承知で、防衛隊の若者に同情してしまいそうなほどだ。
「待ってください、待ってください……ッ! この者たちが敵だと、そうだというなら、何故この者たちではなく隊長を、副長までも…………」
怒号は、しかし萎みゆく。
若者の頬を涙が伝う。その自覚もないまま、彼は呆然と巫女を見やっていた。
「帝国や他の者たち、エルフでもない、真の敵がいると……。竜寧山脈に巣食う魔獣が、獣たちの神を信奉していると。巫女様は、かつての枢機卿も、その獣の神こそを真の敵とし準備してきたのだと。そう、この者たちは言ったのです」
「敵の言葉を信じる阿呆ですと自己紹介している自覚はあるか?」
「ですからッ! ……ですから、その真偽を確かめるべく。かつての敵とも手を取り合い、真に戦うべき敵と戦うために。巫女様のお知恵を……、判断を仰ぐために…………」
「己の脳みそで考えることのできない阿呆ですと……あぁもういい、めんどくさい」
泣きながら訴える若者に、遂に零されたため息。
絶望のどん底に叩き付けられた者の顔を、随分と久しぶりに見た気がする。死が軽くなっても、絶望はなくならない。当たり前だが、いっそ絶望も軽くなってくれたらいいのに。
「隊長は、隊長は、隊長は……ッ」
絶望が一転、狂気と化す。
ぐしゃぐしゃの顔を両手で掻き毟るように、まともではなくなった声で若者は叫んだ。
「隊長はあぁぁぁああァァ――ッ」
「うるさいって」
巫女が呟く。冷淡に。むしろ気味悪そうに。
若者の狂気に引っ張られそうになっていた他の面々ですら、表情を凍り付かせた。
「隊長隊長って、こんなものにそこまで執着するとは」
「こんなもの?」
「なんだ、君には同族意識があったのか?」
我知らず零していた声に巫女が意外そうに返してきた。
「そうじゃ、ないが……」
「なら安心だ。勇ましさと愚かしさは紙一重だが、だからといって勇者ともあろう者が愚かでは困る」
しかしディエゴは俺とよく似た獣化症の……獣化症の?
いや、待て。
確かディエゴは言った。
巫女が獣化症を抑え込んだと。つまりは、そういうことなのか? 巫女が自ら救った命だから、それをどう扱うのも自由だと?
「君たちもオールドーズならば彼女を見習い給え。獣化症は理性を、知性を溶かす。文字通り獣と化すんだ。妙だとは思わなかったのか?」
笑い声。
違う、と脳裏で誰かが叫んだ。誰かじゃない。俺だ、俺自身。
違う。
抑え込んだ、わけじゃない。
「気付きなよ、愚者諸君。言ったろう? 道具だと」
巫女が足を踏み出す。
一歩。
二歩目を出したように見えた次の瞬間、軽々と蹴り上げていた。丸まった外套。ディエゴの、胴体だったモノ。
あっ、と間の抜けた声が聞こえた。
若者が声と瓜二つの間抜け面で駆け出している。
どうしてもディエゴを受け止めたかったのだろう。必死に両手を前に伸ばした、これまた間抜けな姿勢で走った。
だが、彼我の距離は十メートル以上ある。それに巫女も軽く蹴り上げただけだ。若者の健闘はあまりに虚しく、ディエゴだったモノが光降り注ぐ床に落ちた。
ぼすんと鈍い音が鳴る。
だからといって諦められる若者ではなかった。急げば間に合うとでも思っているかのように慌てて駆け寄り、丸まった外套にすぐ前で膝を付く。
そしてディエゴを抱え上げようとしたが、できなかった。
「えっ?」
若者が恭しく腕の下に手を通すも、外套の袖ははらりと払いのけるように落ちてしまう。
「なんっ、なんでっ……」
袖を掴む。掴むことはできた。しかし袖は、そんなにも強く握り締められるものだったか? いくら死んでいて抵抗する力がないとはいえ、そんな布切れを掴むみたいに。
「得てして人間は、己どもを理性の権化を誤解する」
脈絡なく紡がれた言葉。
「だが現実はどうだ? 人間ほど感情に乱され、不合理な行動に出るものもいない」
巫女のひどく冷たい眼差しの先で、若者がディエゴを包んでいた外套を持ち上げた。
最初は何かに引っ掛かったように重く感じられた動きも、すぐにその引っ掛かったものが外れて軽くなる。
若者が外套を持ち上げた。
外套だけを、持ち上げた。
引っ掛かっていた何かが、また床に落ちる。
「僕に名乗る道理はないんだけど、オールドーズが礼儀も知らぬ野蛮人の集いだと誤解されては困る。嫌いであろうと、許されざる相手だろうと、例外なく。それが礼儀であり、秩序というものだ」
「あァ……、あアァ、アアアァァァ――ッ!!」
場違いなほどに静かな巫女の声を引き裂いて、若者の絶叫が響き渡る。
彼の眼下、ディエゴの外套から零れ落ちたものは、小さな塊。
毛むくじゃらの、首をなくした、獣の死骸。
「我が名はプリズム。オール・プリズム・オールドーズ。神でも王でもないけど、世界が与え給うた力は本物だよ」