102話 道、続く
山に開かれた『道』は、義眼が開くそれとは似ても似つかないものだった。
というのも、まさしく道でしかなかったのだ。
進むべき道を示すかのように木々が左右に分かれ、背の低い草で覆い尽くされた地面には少なくない陽の光が注ぐ。
然りとて山は山のまま、俺たちの進む道は急勾配の連続だった。
言うまでもなく一日二日で越えられる距離ではなく、頼りない月明かりだけが注ぐ夜には野営を余儀なくされた。
その間も魔獣たちは襲ってこそこなかったが、視線は常に感じ続けていたし、ほんの僅かな時間でも集団を離れれば威嚇めいた鳴き声も聞こえてくる。
お陰で俺とエレカは常に互いの隙を守り続け、寝ている間はもう片方が夜番に立つ羽目になった。これはロベルトたちも同じである。たった七人の集団で二人が夜番を担うのは効率が悪い気もしたが、俺にせよエレカにせよロベルトたちを信頼できるわけもなく、向こうもそれは同じだろう。
それに魔獣は襲ってこなくても、普通の獣たちとは出くわすことがあったし、そうなれば防衛反応として襲いかかってくることもあった。とはいえ、獣は食料だ。逃げずに立ち向かってきてくれるのは有り難い。
そんなことが何度かあって、
「魔獣どもめ。俺たちのことは食いやがるくせに、こいつらは食わねえのか」
と、ロベルト一味の生き残り(名はベニートというらしい。もう一人はマルコだ)が唾を吐く一幕もあった。
お返しとばかりに威嚇の大合唱が森から響いてきて、その男は半泣きになりながら謝り倒していたが。
そして実際のところは、人間にとっての家畜のようなものだろう。
家畜などと呼べるほど確立された意思や技術があったかは未知数にせよ、魔獣とて食わなければ生きていけない。王狼や声だけだった山守の支配下にあるのなら、他の魔獣ではなく獣だけを餌にしていた可能性はある。
となると、飽食は叶うまい。
山に分け入った俺たちを遠巻きに警戒しながらも、脱落した者がいれば容赦なく飛び付いていく。あの攻撃性の高さは、慢性的な飢えや食料への執着心から来るのかもしれない。
もしそうだとすれば、裏返しの事実として、本能的には獣同然の魔獣をそれほどまでに統率できる支配力が山守にはある。
気を抜いていい理由にはならないが、気を休めるべき理由にはなるだろう。
俺たちの目的地は、安息の地ではないのだ。
向かう先は戦いの地。
山の夜は寒く、寝て起きても疲れが取れるどころか夜通し歩き続けた方がマシだったのではないかと思うほどに身体が硬くなっている。だとしても休み、気力も体力も万全に近付けなければならない。
しかし山に入って三日目の朝、遂に恐れていた事態が起きた。
最悪の事態ではない。
ただベニートが青くなった唇を震わせ、どこを見ているのか分からない目で、何を言っているのか分からない声を吐くようになった。体温が下がりすぎたのだ。
野営の際にはエレカが魔法で生み出した火を拾った枝や木片に移して焚き火をしていたが、風を遮るもののない夜の山はそれ以上に冷える。
そして食べているものも少なすぎた。捕まえた獣はエレカが最優先で食べ、次は俺だった。エレカの起こした火で暖まるロベルトたちに不平など零せるわけもない。
必然といえば必然、想定できないはずのない事態。
ゆえに、と結んでいいのかは分からないが、エレカは悩まなかった。
やはり必然だったのだろう。震えるベニートは置き去りにされた。見捨てないでくれ、と懇願する体力も残されてはいない。何事か言いたげだったマルコに対し、エレカは露悪的に笑いかけた。
「肉の取り分が増えたんだ。嬉しくないのか?」
マルコは引きつった笑みで頷いた。
頷かなければ、ベニートに分けられていた分がエレカか俺に流れるだけだと気付いていたのだろう。
その頃にはロベルトやオッチでさえ口数は少なかった。というより、必要最低限の声しか発しない。何が一番貴重なのか、奴らは知っている。
第一に体力、第二に理性だ。
体力がなくなるほどに理性は失われ、理性に欠ける行動をすれば体力も無駄に消耗する。
人間が人間らしく在るための術を、人里離れて生きてきた無法者の古株が知らないわけもない。
だが、そんな人物にも思わず口を衝いて出るものはあった。
「街、なのか。――ってぇことは」
「ようやくの折り返しというわけだ。骨が折れたな」
ロベルトの懇願めいた呟きにエレカが笑って返す。恐らくは本心から漏れた声だった。
とはいえ俺も、きっと獣毛の下で頬を緩ませていたに違いない。
開かれた山の頂から見下ろす、白亜の建物たち。明らかに人の手で築かれた光景、美しいとさえ素直に称賛できてしまう街並みが広がっている。
「お、お、おぉぉぅ! ほんとか、ほんとに――」
「喜ぶには早えんだよ、小僧。分からねえか、まだ距離がある。エルフの神様も言ったろう、ここは折り返しに過ぎねえんだ」
理性の手綱を手放しかけたマルコをオッチが制する。
そう、まだ折り返しだ。
いつまで歩けば頂に着くのかと、あるいは本当に着くのかと疑念にさえ駆られながら登り続ける道のりは辛い。とはいえ、それほどまでではないにせよ、見えたはずの終わりに向かって延々歩き続ける道のりもまた辛かろう。
安堵するのは、一瞬。
すぐに気を引き締め直し、半分も残る道のりを進むのだ。それ以外に進むべき道もない。
「……いや、まぁいいか」
不意にエレカが呟いた。
咄嗟には何を言わんとしているのか分からず、横に並んで顔を覗く。と、直後に表情を消された。
一瞬だけ見えたのは悪戯がバレた子供のような、バツが悪い顔。
「生憎と、私も慎みというものを覚えたんだ。なんでも口に出す子供じゃない」
なんて言い訳がましく言うことが子供っぽいのだが、嫌な気はしない。ほんの一時でも、見慣れたエレカが戻ってきたような気になる。
しかし、別人に取って代わられたわけじゃない。
エルフの少女の姿に化けたグレイと違い、エレカはエレカのままだ。
「さて、感慨に耽る時間は終わりだ。貴様らにも任せたい仕事があるからな、そう死んでくれるなよ?」
その命をなんとも思っていないであろうエレカの口から放たれた言葉。
感銘など受けるはずもなく、代わりに表情を引き締めるロベルトたちだ。任せたい仕事などと言われ、ろくなものを想像できるはずもないだろう。
それこそ命を文字通りに費やす、ただ死ぬためだけの役割かもしれない。
だとすればロベルトたちは死に物狂いで逃げ出すはずだが、裏を返せば、そうだと分かるまでは従うはずだ。
奴らに他の道なんてない。この死に瀕したような時代、人など歯牙にも掛けない化け物どもが闊歩する戦争の最中、ただの無法者ごときにどんな道があろうか。
否――。
そもそも誰一人、進む道など選べなかったのではないか。
神でさえ生き残るために戦わざるを得なかった。
何より、俺自身は?
エレカとともにあることを自ら選んだつもりだ。だがエレカと進む道を選ばなければ今頃どうしていただろう。
「どうしたよ、兄貴の姐さん」
思考を断ち切る声に睨んで返せば、下卑た笑みを湛えるオッチの顔があった。
「ふざけた呼び方をするな」
一言吐き捨て、また前を見やる。
選べなかった道、選ばなかった道などどうだっていい。
進むべき道はただ一つ、眼前に伸びるそれだけだ。
「それじゃあ、行くか」
「あぁ」
何気なく言ってみせたエレカに頷き、再び足を踏み出す。
上ってきた分、下る坂道。
暗喩めいて感じるのは、俺の感傷が過ぎるのだろう。
食料の補給など望めない山中にあって何が一番の問題かといえば、まず水である。
途中で一度だけ川の流れる音を拾えたことがあって、その時は道を外れてでも水を求めたほどだ。そうでもしなければ木々に絡み付いた蔦を切り、滴る水を飲む羽目になる。実際、何度もそうした。
しかし言うまでもなく、満足な潤いを得られるまで飲んで回る時間はない。
必然、山を下りる頃には男どもが肉以上に水に飢え、やがて目の前に広がった光景に野太い歓喜の声を上げさせた。
「おおおぉ! 畑だぜ、畑! しかもこんなに……こりゃあ、どんだけあるんだ?」
「んなことより井戸探せ! なくても灌漑か溜池はあるはずだ」
ロベルトは指示を飛ばした後で俺たちを見やり、何事か窺う顔を覗かせた。
零れそうになったため息を飲み込み、顎でエレカを示す。
「好きにすればいい。毒見役だと思っておこう」
お許しが出るや、マルコが駆け出していく。どこにそんな体力があったのやら。ロベルトも違う方に向けて歩き出す。
オッチは俺たちとロベルトたちを交互に見た後、両手を頭の上にまで持ち上げた。
「オレぁ老いぼれだぜ、もうくたくただ」
「まだ何も言ってないが?」
不愉快な男だ。
視界から外すように目を動かせば、再び辺りの景色が見えてくる。
そこはマルコの叫んだ通りの広い畑だった。どれほどの面積になるだろうか。相当の収穫量になることは明らかだ。
しかし収穫期からは外れているのか、ここでも干魃の影響は逃れ得ないのか、緑は多くなかった。食べ頃の実や葉がなっている植物は更に少ない。水には期待できるかもしれないが、食料は微妙なところだ。
それより正面、畑の端に据えられた柵か何かが目に付いた。
「天然の要塞があれば防壁はいらないというわけか」
あの柵の向こうに聖都がある。
オールドーズ教会の中枢を守るものが、煉瓦どころか子供でも簡単に越えられそうな柵とは。それどころか山の上から見下ろせた、白亜の建物の一部も見通せる。
聖都を守る柵というより、畑を守る柵なのだろう。その証に、柵は俺たちが歩いてきた方向、つまりは山に面しても立てられていた。
念頭にあるのは害獣程度。
人間が竜寧山脈を越えてくることはないと知っての対策に過ぎない。
「もしかすると、杞憂だったか?」
不意に呟かれた声に目を向けると、エレカが肩を竦めてみせる。
「もっと二重三重の、堅固を通り越して偏執的な守りが敷かれていると思ったが。よほど山守を信用していたか、私たちが計算外だったか。見ていれば嫌でも違和感を抱かされる」
言葉とともに視線で示されたのは、どうやら井戸か何かを見つけたマルコ。
潜めたつもりらしい声でロベルトを呼び、新しい玩具を見つけた子供みたいにはしゃいでいる。俺たちに占有される前にたらふく飲んでしまう算段なのだ。それが毒見役として求められた仕事だとは考えもしないに違いない。
いや、ロベルトは気付いた上で、だから咎められはすまいと気を抜いている。
だがエレカにしてみれば、そこまで接近できる……つまり獣ではなく人間を標的とした罠の存在を確かめる意図もあったはずだ。もしも敵が偏執的な守りを敷いていたなら、今頃あの男たちは二度死んでいる。
山越えを考えていなかったか、考えていても対処が間に合わなかったか。
あるいは第三、その必要性を認めなかったか。
「なぁ、老いぼれ」
唐突なエレカの呼び声。
オッチが驚いた顔でそちらを向くのが見えた。
「貴様は長生きが自慢らしいな? その年の功ではどう見る? 貴様が聖都を守るなら、これだけの備えで満足するか? それとも、もっと守りを固めるか? 私見、私情で構わない」
わざわざ問う意味があるとは思えない。
それを示す通り、遠くからのロベルトの声にエレカはさっさと歩き出してしまった。
残されたオッチは慌てて後を追いながら、何を求められているのかと思案顔。然りとて問われた以上、答えないわけにもいかなかったのだろう。
「十分すぎるように見えますがね」
この男にしては珍しい、下手からの声だった。
「それはどうして? 現に今、私たちの侵略を受けようとしているが」
「誰もあんな山を越えてくるなんざ思わんでしょう。それに、こんなちんけな柵じゃ小せえ毛玉はどうにかなっても、気が立った獣や魔獣には意味をなさねえ。差し詰め、農民を安心させるためだけの見せかけの備えってもんで、要するに無駄じゃねえかと」
「なるほどな」
ひとまずの納得の返事。
それでもオッチは安堵の色や気を抜く気配は見せなかったが、だからこそ一瞬焦らされた。
「カレンは? お前ならどう考える?」
完全に不意を衝かれた。
しかし同時に、安堵もする。エレカとオッチの言葉を聞きながら、半ば暇を潰す目的で考えを巡らせていたからだ。
「聖都といえど、住むのは化け物ではなく人間。となれば、限界はあるだろう」
「限界? つまり守りを固めようにも、限度があると」
「それは勿論だが、暮らしがある。毎日を生きる、それが第一の条件だ。防壁にせよなんにせよ、実際に築くのは人の手だろう? 理由も知らされないまま過剰に見える防備を整えろと命令しても民心は付いてこない」
特にルージュは信仰心を拠り所としている。
洗脳に等しい形で黒さえも白と思わせるなら別だが、それができるなら帝国はおろかエルフの森に至るまで、もっと都合の良い形で支配していたことだろう。
「であれば、茶番か」
俺の言葉をどう受け取ったのか、エレカは小さく笑みを零した。
「向こうがその気なら、こちらも乗るとしようじゃないか」
続けられた言葉の真意は定かではない。
茶番に乗る。それが招く事態を、そもそも何を茶番と形容したのかさえ想像することしかできない。
とはいえ急ぐ気配がないところを見るに、ロベルトたちを連れてきた意味はあったようだ。
歩きながら、なんとなしに空を見上げた。
日は傾き始めている。
夜襲にはまだ早かったが、日が出ているうちから平然と畑に踏み込んだ以上は暗がりに乗じての行動を考えていない。
ロベルトたちもここが敵地だという感覚が乏しいのか、――いや、単純に死地と思っていた竜寧山脈を抜け出せて安堵してしまっているのか。大声で俺たちを呼び続けた挙げ句、見つけた灌漑が自分たちのものかのように振る舞った。
エレカはまず俺に水を嗅がせ、飲みたければ飲めとそれ以上の意味を含ませずに言った。
大の男が得意顔を見せた気持ちが分かってしまう。
それは今まで飲んだどんな水よりも美味かった。
そんな俺を見て、エレカが声を上げて笑う。
「敵はまだ畑を……、住民の暮らしを守るつもりでいるらしいな。なんとも優しいことだ。民にも、私たちにも」
我知らず喉が鳴った。
毒。
その可能性を考えなかったわけがない。ただロベルトたちが口にして平気な以上、遅効性の毒を気にして水を口にしないより、水分不足で支障が出る危険を減らした方がいいと考えた結果だ。
しかし考えてみれば当たり前のことで、灌漑やそこに引いている水の源泉に毒を流せば畑は死んだも同然。
「敵は万全の備えをしている。そう考えるのが妥当だろうな」
「……あぁ。急ごしらえの、後先考えない策は取る必要がなかった」
そして俺たちを、エレカ・プラチナム・アーレンハートを待っている。
来なければ来ないでいい。来たら来たで、返り討ちにするまで。そういう気概。どちらにせよ真の、最大の敵は俺たちではない。
アカラト湖での戦いを経てなお、辿り着けていない答え。
ルージュは一体どこを見据え、何と戦おうとしているのか。
分からないまま、その眼前にまで来てしまった。
忘れるはずのないことを忘れていたと気付かされ、水を飲んだばかりだというのに喉が渇く。
「それじゃあ行こうじゃないか。……貴様らはどうする?」
軽やかな笑顔でエレカが言った。
ロベルトもオッチも、勿論残る二人も否とは言えない。ここまで来て放り出される方がずっと恐ろしいに違いなかった。
「カレン。お前は私の半身だ。お前だけは頼りにしている。忘れてくれるな」
「過分な言葉、とは笑わずにおくよ」
魔王を倒した勇者の伝説。
そこに語られる女神が、今や俺たちの敵である。
「……ん?」
思わず、声が漏れた。
エレカが振り返り、俺の目を見てすぐに辺りへ視線を走らせる。そこまで確かめ、意識は思考に沈んだ。
ルージュは勇者と決裂した。
理由は妖精王の裏切りが露見したから。
だがルージュは勇者を殺さず、覇者の座を明け渡した。
愛する者を、同じだけの想いは返されないと知っていながら、手に掛けることは嫌ったのだ。
では、どうして勇者は覇者となれた?
ルージュの敵は、しかし勇者が覇者となることを受け入れたと?
「答えは出たか?」
エレカの声で思考が引っ張り上げられる。
脳が口と上手く繋がらず、声の代わりに首を横に振って答えとした。
世界は、言うまでもなく優しくない。
子供の勉強じゃないのだ。どんなに注意深く目を凝らしても正解に辿り着く道なんて用意されちゃいない。知り得ないものは永遠に未知であり、そういう運命に生まれた以上は無知のままに死んでいく。
それでも戦えと、勝たねば死ぬと、世界は決めた。運命は定まった。
再び、空を見上げる。
茜色に染まる空。
エレカやルージュとは違う本物の神様が、果たしてそこにはいるのだろうか?




