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101話 無法者の法・2

 人の手が加わっていない山に道などない。

 干魃になど見舞われていないかのように枝葉を広げる木々が陽光を遮り、その張り巡らされた根を生い茂る草が覆い隠す。

 斜面はまだ急勾配とまでは言えない傾斜だが、それでも根に足を取られて転び、受け身も取れずに転げ落ちていった者がいた。最初はそれを笑う声も聞こえたが、切羽詰まった悲鳴に掻き消されるや凍り付く。

 山越えに参加したロベルトの配下はオッチを含めた十数人の男と、男所帯に一人だけいた女のサクサ。

 流石にロベルトの求めだろうと応じる者は少ないか、と思っていたが、どうやらこれで全員らしい。そもそも食料が底をつきかけ、餓死を待つか決死の山越えに挑むかの二者択一を迫られる状況だったのだ。

 見回りに歩いていたのも、単に合流する者を探すというよりは、食料を持っている巡礼者や他の誰かを襲うのが目的だったと見られる。

 渡りに船と言える話ではないにせよ、俺たちに呼応しない理由はなかったというわけだ。

 しかし、竜寧山脈は早くも牙を剥いてみせた。

 まだ山に分け入って三十分と経っていない。だから魔獣が姿を見せないのだと思っていたが、実際には人数に気圧されたかエレカのマナを嗅ぎ取ったか、機を窺っていただけらしい。

 それで一人、集団から離れて無防備に転がっていたところを襲われた。

 ただ、案の定と言うべきか、エレカは一顧だにせず斜面を駆け登り続ける。片腕は常に背中のマオを支えながら、木の根に足を引っ掛かけるどころか土より踏ん張りの利く足場のように扱っていた。

 時には空いた片手で低く垂れ下がった木の枝や蔦を掴み、力強く全身を引き上げていく。

 まだしも俺は体重に対して膂力があるし、軽業じみた動きも慣れていた。お陰で簡単……ではないにせよ後を追えたが、ロベルトたちは必死だ。

 俺の姿を見て侮る者はいなくても、見るからに若く細身のエレカを侮っていた者はいるだろう。

 それが今や、不満一つ零さずに背中を追うばかり。

 零さないというより、零す余裕がないだけかもしれないが。

 とはいえ、不満を口にしたところで聞き入れてもらえる可能性など万に一つもないことを知っていたはずだ。

 更に二十分か三十分ほど、些かペースは落としながらも、やはり常人には付いていくのが精一杯の速度で山を登った。

 エレカは文字通り超人的な、一人だけ斜面ではなく平地を往くかのような足取りである。

 必然、次々と遅れる者が出た。足を踏み外した者、体力が尽きた者、あるいはそうした者たちの巻き添えを食った者。

 そして、その度に断末魔の叫びが響き渡った。

 木々が生い茂る山に日差しはほとんど落ちてこない。暗がりの中、明らかにまともな獣のものではない鳴き声と、仲間だった者たちの悲鳴が木霊する。

 魔獣は俺たちを遠巻きに取り囲み、脱落する者を今か今かと待ち構えているようだった。

 時折、木々の間を猿に似た犬が跳び回る。巡礼の旅では見慣れた魔獣、ウズザルだ。他にも見慣れてはいないが、どこかで見た覚えのある異形の獣。

 奴らの姿は、しかし置いていかれまいと必死のロベルトたちには探す余裕もないし、進む先を通り過ぎても森の暗がりでは見えないだろう。

 まぁ、見えない方が幸運だ。

 ロベルトの胴体よりも巨大な体躯の鳥が首を真後ろにまで回してじっと見つめ続けてくる様など、ただでさえ半狂乱の男たちが目にしたら気が狂って山を下りかねない。言うまでもないが、集団から離れた途端に餌食となって終わりだ。

 曲がりなりにも今こうして理性を保ち、辛うじてながらも一つの集団を保てているのは、ひとえにエレカが限界に等しい速度で進み続けているからだろう。ただ前に進むしかない。前に進まなければ食われて終わる。

 それしか考えられないから、それだけを考えて進み続けられるのだ。

 そこまで気付いて、ようやくエレカの意図に思い至った。エレカは最初こそ全力で、といっても慣れない山道の癖を読みながら進んだ。ただ足の運び方やら何やらを掴んだ後も、ペースは上がるどころか少し下がった。

 わざと、だったのか。

 エレカは集団を形成していられる限界の速度を意図的に作っているらしい。

 単純に自分が孤立しないための策かもしれないが、ロベルトやオッチ、サクサといった荒事に特に慣れた連中は未だ命を繋いでいる。

 だが、そんな薄氷を踏む登山が急に終わった。

 もっとも、山がいきなり平地になることはない。

 先頭を走っていたエレカが突如として姿を消し、そうかと思えば次の瞬間、止まった背中にぶつかりそうになった。

 山がいきなり平地になることはない。

 しかし、山にいきなり平地が現れることはあるようだ。

 といっても、幾らかの斜度はある。それでも人の手が入ったかのように木々が払われ、そこだけ陽の光が差し込む空間が広がっていた。苔むした、あれは岩だろうか。……いや、倒木もある。

 背の低い草や岩や倒木に生えた苔に覆われた、緑の広場。

 ロベルトやオッチたちも後に続き、言葉にはしないまでも驚きの声を漏らしている。

 そんな中で一人、エレカだけが研ぎ澄ませた集中を絶やさず、それどころか空いた右手で長剣を引き抜いた。

「何かいるのか?」

 口では疑問を紡ぎながら、脳裏には確信めいたものがあった。

 これだけ人を阻んできた山中に、こんな空間が前触れもなく現れて違和感を抱かない方がおかしい。何かがある。なんなのかは、分からないが。

「何者かは分からん」

 エレカが呟く。

「だが、見ている。見定めていたようだが、それもやめたらしい」

 背後に気配。

 エレカが前方を警戒し続けているのを確認してから振り返る。

 直後にロベルトを睨んだ。ロベルトはすぐさま察して、傍らで何事か叫びそうになっていた男を裏拳で黙らせた。鼻血が吹き出すも、男は声を上げまいと両手で口を押さえる。

 安堵し、正面に向き直った。

 そして絶句する。

 裏拳が顔面に突き刺さる、鈍い音。

 それくらいしか広場に音はなかったのに、俺たちの正面に二頭の熊――違う、熊じみた体躯の狼だ。頭から尻までで二メートルは優にある。三メートルに達するかもしれない。

 竜馬と比べても極端に大きな黒い狼が一対、俺たちの前に現れていた。

 二頭は正対せず身体の側面を向け、しかも互いに反対を向いている。エレカが左から斬り掛かれば、向かって右にいる狼が即座に対応するだろう。逆も然り。単なる獣にしては、あまりに隙がなさすぎた。

「名を聞こう」

 エレカが言う。

 名。

 それで納得した。

「我らは王狼」

「神の地を守護する者」

 二頭が流暢に喋る。男とも女とも……いや、雄とも雌とも分からぬ不思議な声。

 ロベルトたちが息を呑むのを感じたが、振り返る余裕などなかった。

「新しき神よ、無知は許されよう」

「しかし、狼藉は許されぬ」

 仰々しい物言いだが、要は知らずに踏み込んだのは勘弁してやるから、今すぐ帰れと言っているのだ。

 俺でも分かる話、エレカが分からなかったとは思えない。

「分からんな」

「なにゆえ」

「分からんか? 王が神に(かしず)くなど理解に苦しむ。狼どもの王だというなら、狼どもの栄華のために神をも殺さなければ話にならん」

「愚昧とて許されよう」

 会話が成立しているのか怪しい。

 ただ、そもそも成立させる必要が向こうにはないのだろう。

 俺たちを付け狙ってきた魔獣たちが広場を取り囲む木々に潜み、あるいは陽の光を反射させた眼光だけを覗かせている。一匹や二匹くらいエレカに飛び掛かってもおかしくないと思ってはいたのたが、奴ら全員、王狼とやらの支配下にあるらしい。

「去るのだ、新しき神よ」

 向かって左の王狼が言う。

「聞く道理はないな」

「お主一人であれば、そうだろうとも」

「しかし、配下の者たちはどうか」

「食いたければ食えばいい。配下ではないし、同情もしない。存分に食え」

 言葉は返されなかった。

 答えが予想外だったのか、どう出るべきか逡巡したのか。

 ほんの数秒の沈黙を挟んで、エレカが再び口を開いた。

「ところで貴様ら、神の地と言ったな? それは聖都の……、ルージュの居城か?」

「旧き神とは無縁なり」

「我らが守護するは、お主らが踏み荒らした大地である」

 まさか帝都からここまで全土などとは言うまい。

 竜寧山脈を指していると見ていいが、だとすれば随分と都合の良い存在だ。

「ルージュを守っているわけではないのに、奴の元へ行こうとする俺たちは阻むと?」

「向かう地はお主らの都合に過ぎぬ」

「地形的にも、他にないんだがな」

 会話は成立しても、話にならない。

 聖都を守る立地の山を守護しているだけで、聖都そのものを守っているわけではないと。

「なら、通らせてもらおうか」

 エレカが何気ない声で言った。

「これ以上の狼藉は――」

「ならば貴様らを皆殺しにするだけだ。山を守ると言ったな? 私たちが踏み荒らしたのも気に入らんと。結構、結構。貴様らの血で、肉で、臓腑で汚してやろう。ついでに焼き払ってもやる。それで満足なんだな?」

 王狼が狼らしく吠える。

 男の一人か二人が悲鳴を上げたが、俺やエレカにしてみれば馬脚を現したか、と笑いたい状況だった。

「所詮は獣よ。計算はできずとも威嚇は得意だ」

「我らへの侮辱は許そう」

「しかし狼藉は許されぬ」

「誰の許しも無用だ。私は私の道を押し通るのみ」

 エレカが右腕を引いた。

 長剣を握った方の腕。引き絞った弓のごとく、振り抜かれた剣の先から炎の刃が迸る。

 王狼が吠えた。

 ヲウ、と一声上げただけで炎が掻き消え、小さな火の粉だけが草の上に落ちる。そして燃えることもなく消えた。

 が、構わぬエレカが突っ込んでいる。向かって左の王狼。右の王狼が跳躍と同時に前足を伸ばした。エレカが剣で払おうとした瞬間、もう一頭が再び吠える。

 エレカの動きが鈍った。その隙に王狼が飛び付く。――かに見えたが、地面に落ちた。後ろ足に蔦が絡まっている。

 瞳が、獰猛に煌めいた。

 察したのだろう。左にいた王狼がエレカに迫る。ほとんど捨て身だ。

 だがエレカは、構わなかった。

 不意の蔦に動きを遮られた王狼めがけて剣を振り上げる。その無防備な背中を守るために、俺は走っていた。エレカと王狼との間に割って入った、その勢いに乗せて足を蹴り上げる。

 王狼が俺ごとエレカを引き裂かんと前足を大きく持ち上げていた。

 それほどの隙をエレカが許すはずもないと、どうして分からないのか。

 眼前にまで迫った死から逃れようと蔦を引き千切り、身を翻しかけた王狼の、ゆえに眼前でエレカの剣が翻った。

 そして俺の眼前。

 文字通り目と鼻の先にまで迫っていた王狼の前足が炎の刃に呑まれた。

 肉の焦げる、不快な臭い。

 それで止まるほど、不慣れなわけもなかった。蹴り上げた足で大きく強く踏み込み、痛みか衝撃で仰け反った王狼の顎の下に潜り込む。

 突き上げる拳の一撃。

 確かに捉えた衝撃に、返ってくる重みは尋常ではない。

 耐えやがった、と気付くと同時、それが敵にとってどれほどの悪手かも気付く。

 力を込め、一撃を耐え、その時に足はどうなる?

 大地に根を張るがごとく力強く踏ん張ってしまえば、逃げ道など自ら断ったも同然であろう。

 エレカの剣が王狼の横っ腹に突き刺さる。

 背後から追い縋ろうとしていたもう一頭の王狼は、足下を疎かにしすぎたのかまたも蔦に絡め取られていた。藻掻けば藻掻くほどに強く絡み、そうでなくとも刻一刻と蔦が増えて雁字搦めになっていく。

 その眼差しの先で、剣を引き抜かれた傷口から一気に血を吹き出させる王狼。

 獣の生命力は侮れないものの、エレカが無傷で立っていることを考えれば、残された命はどれほど儚いか。

 しかし、だからこそ不可解だった。

「ここまで来て慈悲の心にでも芽生えたか?」

「馬鹿を言うな。交渉できる相手を殺す馬鹿がどこにいる?」

 エレカが心底不服そうに鼻を鳴らす。

 それから二頭の王狼を交互に見やった。

「不用意に動けば番いを殺す。殺せないとは、思うまいな?」

 有無を言わせぬ声だった。

 王狼の過ちは、知りもしない相手に自分たちの理屈で挑んだことだ。

 王狼たちはエレカを知らなかった。剣を使うことは見たら分かるだろう。ここまでの道中で膂力が人のそれを凌駕することも見て取れたはずだ。

 だが、蔦の魔法は?

 エレカの戦い方は?

 俺とエレカが互いにどれだけ呼応し合えるかは?

 何も知らないと言っていいほどに、王狼たちは俺たちを知らなかった。

 にもかかわらず、己の流儀で事を運んだ。それが失敗の原因である。

「私は見ての通りエルフだ。治癒の魔法も使える。その傷、望めば癒やしてやろう」

 翻って、望まなければ?

 ただ流血の末に死ぬだけでは済まないと、未だ理解していないならそれまでだ。

 王狼には力があった。あの吠え声がどんな理屈で炎を打ち消し、エレカの動きを鈍らせたのかは分からない。膂力は俺など優に凌駕し、エレカとはどちらが上か分からないにせよ、仮に同等としても事実上の二対一だ。

 斜面を登っている間に襲い掛かってくれば、結果は違ったかもしれない。

 無知に愚昧を重ねた王狼たちが、ここで再び愚かな決断を下すか否か。

「……お主は、何を望む」

 首から下を蔦に覆い尽くされた王狼が呻くように零した。

「その前に私の質問に答えてほしい。貴様らが望むものは? 自分たちの命か? それとも山の安寧か?」

 答えは明白だろう。

 ゆえに、問うたエレカ自身も笑ってみせたのだ。

「私たちが望むのは聖都、ただそれだけ。山に興味はない。どうして貴様らが突っ掛かってきたのか、あまりに理解し難い愚行じゃないか。……そうだろう? 何もしなければ血で汚さずに済んだというのに」

 心底理解できないとばかりに笑い声を響かせるエレカ。

 どこまでも侮辱的な言葉であり、態度である。露悪的すぎるほどのそれは、少し前なら俺でさえ演技だと気付けなかっただろう。

 今しがた立ち回りを演じた王狼は勿論、必要に迫られていたとはいえ暴力と威圧によって引き連れられてきたロベルトたちにも悪逆無道の存在と認識させるに十分すぎる。

「教えてやろう。貴様らに残された道は二つに一つだ。その血でこの地を汚すか、私に道を開けるか」

「……狼藉は、許されぬ」

 狼がどうやって言葉を発しているのかは知らないが、どうやら喉で紡いでいることに変わりはないらしい。

 伸びた蔦に喉まで圧迫された王狼が声を絞り出した。

 悲しいかな、エレカが取り合うはずもない。

「誰に? まさか貴様の信じる神だとでも? 愚かしいな。王ともあろう者が、己で考えることを放棄するとは。時代の狼が、獣どものが泣いてしまう」

「お主が、何を、言おうとも……ッ」

 王狼が喘ぐも、蔦に囚われた足では藻掻くことも叶わない。

 考え決めるどころか、己の意思で動く自由すら奪われた姿はいっそ憐れだ。話が通じない以上、先を急ぐしかないだろうに。

 あるいは殺した後、辺りの魔獣どもが襲い掛かってくる可能性を考えているのか。

 どうあれ、早いか遅いかだ。

「エレカ」

「なんだ?」

「これ以上は時間の無駄だ。死に体の獣をいたぶって何になる?」

「……まぁ、お前が言うならそうするが」

 ため息混じりのエレカが気負いなく剣を構える。

 その時だった。

「お待ちいただきたい」

 声が聞こえた。

 どこからか。

 ……どこからだ?

 上、なのは聞き分けられたが、前後左右のどこなのかが判然としない。ぽっかり口を開けたように空が広がる頭上でないことだけが確かで、あとはさっぱりだ。

「まずは名乗れ。でなければ話にならん」

 エレカは構わず吐き捨てた。

 身体は前方に向けたまま、二頭の王狼を隙なく窺い続けている。

「名乗る名などありませぬ。それはとうの昔に捨てたものゆえ」

「貴様も神に傅く王か神か」

「拙者は山守。それだけの存在に過ぎませぬ」

 やはり聞こえるのは声だけ。

 エレカに代わって辺りを見回すも、魔獣たちが無数の眼で見返してくるばかり。恐ろしくはないが、不気味だな。

「貴公は新しき神とお見受け致します。新しき時代、生まれ落ちた神はただ一人。世界も遂に行き詰まりかと苦悩しておりましたゆえ、貴公の振るう力には勇気付けられた思いです」

 随分と偉そうな、まるで超越者気取りの物言いだ。

 必然というべきか、エレカは予想に違わず鼻を鳴らして返す。

「貴様の同輩の窮地には興味がないと?」

「それらも拙者も、今や王や神の器にありませぬゆえ。無力な獣に、負けた獣に、なんの価値がありましょう? 野生に権威はありませぬ。力ある者が君臨し、力なき者は屈服し、然もなくば死に絶えるものです。ゆえに、癒やしの力は不要にございます」

 辺りの魔獣どもが様子見を貫いた理由は、まさかそれなのか?

 王狼とて味方ではなく、単なる支配者に過ぎないと。加勢なく外敵を倒せるなら力を示されて終わりで、加勢しなかったがために外敵に負けるなら縄張りの長が入れ替わるだけ。わざわざ自らの命を投じてまで、戦いの勝敗を覆す意味はない。

 非情で、理性的な、それでいて野性の本能とも言える判断。

「では、私の要求は呑まれると?」

「貴公の要求がなんたるか、想像しかできませぬゆえ」

「道を開け。獣だけで暮らす山に、こんな空間がどうして存在する? 私たちが分け入り、犠牲も厭わず前進を続けたからだろう?」

 不自然だった広場の絡繰り、やはり王狼か声の主か、どうあれ魔獣の域を超えた存在の手が加わっていたと見るか。

 そしてエレカが王狼を殺さなかった理由もそこにあると。

 二頭一対であることを利用し、命と山とを天秤に掛けさせた。出てきた答えはエレカにしても予想外のものだろうが、結果的に会話は成り立っている。

「かの魔眼王と比べられては恐縮してしまいますゆえ」

「戯言はいらん。できるのか、できないのか」

「貴公の仰られた道は開けませぬ。かの魔眼王は、最も旧き王の一つ。かの者に比肩し得る力の持ち主は最も旧き神か、然もなくば貴公が残るのみでありますゆえ」

 魔眼王。

 あの死を望んだ異形の王は、それほどまでの力を誇っていたのか。

 いや、むしろ義眼の元になったはずの王に匹敵すると言われたエレカこそを見直すべきか?

 どちらにせよ、今は考える必要のない話だな。

「しかし、貴公の通る道を、ただ道だけを開くのであるなら、山守に許された権能でしょう」

「ただの道……。正真正銘、ただの道だと言うか」

「いかにも。拙者は無力でありますゆえ。しかし、貴公が山と呼ぶこの地は、我らが神の地であらせられます。ただ山守に委ねていただいた権能の許す限りが拙者の力にございます」

 その言葉には違和感があった。

 だが考えを巡らせるより早く、姿なき声が予想だにしなかった言葉を吐く。

「無論、無条件でとは参りませぬが」

 もしも相手が目の前にいたなら、まさに開いた口が塞がらなかっただろう。

 姿も見せない相手に口だけぽっかり開けてみせても間抜け面を晒すだけ。そう見当違いに頭を回した数瞬で、遅まきながらに気が付いた。

 その通り、相手は姿も見せていない。

 王狼は知りもしないエレカの前に姿を晒して正面からの戦いを演じてしまった。

 一方で声の主は、姿も見せないのだから隙とて一切晒さない。どんな存在で、どれほどの力を持ち、どう動こうとしているのか。何一つ悟らせない相手との優劣を決め付けるなど、早計を通り越して単なる愚行だ。

 それこそ王狼が犯した過ちである。

 そして声の主は、そこまで計算尽くで要求してきたのだった。

「どうか時代を乱した不埒者の亡骸を引き渡していただきたい」

「亡骸?」

 思わず鸚鵡返しにしてしまったのは俺だ。

 王狼はまだ生きている。腹を貫かれた側も蔦に絡め取られた側も、互いが生きているからこそ死に物狂いの反撃に売って出られずにいた。それが自分だけでなく、もう一頭の死をも意味すると分かっているから。

 ゆえに亡骸を引き渡せと言われても、そもそもの亡骸が今この場には……、

「……待ってくれ、エレカ」

 王狼は生きている。

 ロベルトたちにも仲間の死体を拾い上げる余裕などなかった。

 だが、だというのなら――。

「有り得ないはずの魔王の復活、ルージュが警戒していた時点で十分すぎるほどに怪しかったが、やはり貴様らにとっては一大事だったようだな」

「世の法則を逸脱した行い。信じ難きそれとて、魔王ならばあるいは、と思えてしまいますゆえ。新しき神のあなたには、理解し得ぬことやもしれませぬが」

 魔王の復活。

 当たり前のようにエレカが口にしたことが何より雄弁に教えてくれた。

 マオまでも逝ったのか。何も言わず、背負っていたエレカ以外の誰にも知られることなく。

 天導病で散りゆく命を見てきた。獣化症に侵された者の命を、そうでない者の命もこの手で奪ってきた。

 今更、死を悲しむつもりなどない。

 しかし一体、どれほどの命がこのたった一時間、二時間で失われた?

 振り返ってみれば、ロベルトとオッチの姿が見える。オッチの陰にはサクサもいた。他には二つ、見覚えのない顔。

 生き残ったのは、たったの五人。

 単純な引き算で犠牲になった人数を導けたはずなのに、俺にはそれさえできなかった。

 元々何人いたのか、そんなことも把握していなかったから。

 エレカが掻き立て、時代が強いた強行軍。

 俺とて、その一員に過ぎない。あるいはエレカ自身、時代に強いられた一人なのだろう。

 数字に数えられることもなく散っていった、ゆえにどれほど積み重なったのかも分からぬ命の数々。

 それが時代の終焉だと、当たり前にそこにあった世界の最期なのだと知っていたつもりで、全く理解できていなかった。

 吐き気すら催さない、空虚な思いが胸中を吹き抜けていく。

「この世界に、貴様の神に誓えるか? これは私に尽くし、復讐に殉じた者だ。むざむざ差し出してやれるほど安いものではない」

「無論ですとも」

 静かな声だった。

 どちらが吐き出す声も、いっそ静謐に満ちるがごとき静けさを纏っていた。

「世界よ、神よ。この身に課された使命において、拙者は新しき神を、その御連れの方々を見送りましょう。そして山守の名において命じましょう、この者たちに対する手出しの一切を禁じると」

 声の主は結局、何者だったのか。

 山守などという自称が偽りであれば、誓う神とて偽りとなってしまう。

 果たして信用に値するのか?

 いかに俺とて、訊ねられる雰囲気ではなかった。そう、雰囲気だ。馬鹿げている。助言の体でも装ってエレカの胸中を確かめることはできただろう。

 どうして、そうしなかったのか。できなかったのか。

 目を背けようにも、あまりに明白なそれに気付かないわけにはいかなかった。

 厳かまでに丁寧な所作で、背負っていたマオを地面に下ろすエレカ。

 そこに悲しみや苦しみ、後悔めいたものは微塵もなく。

 それどころか、己の手で触れた少女に対する感情を何一つ覗かせないまま全てを終えた。

 あぁ。

 だから、つまり……。

 それは塵芥に過ぎないのだ。

 マオが信じて、エレカが謳った死の形。

「さぁ、クズども」

 今しがたまで厳かに引き結んでいた口を開き、獰猛に吐き捨てる。

「今更死に果てる者などいまいな?」

「……わけは分からねえが、あんたが口と態度だけの小娘じゃねえってことは分かったさ」

「それならいい。私に従え。従えば命を繋ぎ、従わなければ死あるのみ」

 最早マオには目もくれず、然りとて俺たちを振り返ることもなく、ただ前だけを見据えてエレカは零す。

「私が、私こそが神なのだ。オール・ルージュ・オールドーズは聖都に引きこもる算段だ。だが聖都を守り続けた竜寧山脈の山守は味方しなかった。ヒュームの覇者たる帝国の信心はオールドーズを離れ、今は私とともにあるだろう」

 静かな、それでいて力強い声が辺りに漂う。

 抗う権利さえも奪われて、ただ染み込んでくるのを待つだけの時が流れた。

「無法者ども、崇めろとは言わん。ただ信じろ。この私を。我が名はエレカ・プラチナム・アーレンハート。時代の終焉にまで到達した、貴様ら人類の神である。時代の覇者たらん私の足下で、精々足掻け。己が命のため、尊厳のため、そして力のために」

 吐き捨てた、その声に。

「神でも、帝でも、なんだっていい。あんたは示した、その資格があると」

「邪教徒と呼ばれたオレだ。神を謳うエルフの一人や二人、信じねえ道理はねえだろうな」

 二つの悪が応じる。

 巡礼者として旅した頃、奴らをどれほど大きな悪と信じてきたか。

 だが今、その二つの悪はあまり矮小だった。

「さぁ、山守よ。次は貴様だ。道を開け、その使命とやらに応じて」

 疑いはすまい。

 信ずることが力になるというなら、目を瞑って後を追おう。

 しかし、エレカよ。

 お前はどこに向かっているのか。どこに向かおうというのか。

 もしも問えば、答えてくれると信じていいのか。

 できるわけがなかった。

 何度となく自覚してきたそれを、今ほど強く痛感したことはない。

 ついぞ振り返らなかったエレカがどこを見据えていたのか、果たして俺に知る術はあったのだろうか。

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