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99話 生贄

 時は少し遡る。

 それはアカラト湖より帰還し、フリーデリンデ殿下との演説に至る手筈を皇帝たちと協議した後のこと。

 俺とエレカはもう一方の皇宮の主のもとへ向かっていた。

 皇宮を外観そのままに作り変え、大多数の者にはその存在すら知られぬまま住み着いていた人物。

「帰ったか、帰ったのだな?」

 二代目魔王を自称する少女、マオは穏やかに――いや、そう見えるよう押し殺した調子で俺たちを出迎えた。

 マオが隠れ潜む、外とは隔離された狭く暗い部屋。

 そこに足を踏み入れたのは、俺とエレカの二人だけ。プラチさえもルネに預けられ、出立の前にいた他の二人に至っては言うまでもない。察するなという方が無理な話だろう。

 マオとて少女然とした姿や立ち居振る舞いで誤魔化してはいるが、これでも一応は前の時代の生き残りだ。

「死んだのだな、アクタは。……アクタも」

「詫びはしない。求められるとも思ってはいないが」

「当たり前だ。妾が汝を咎めたことがあったか? どうだ、なかったであろう?」

 メイディーイルで魔物を、アクタともう一人いたマオの連れを殺したのがエレカだ。

 事細かに紐解けばエレカ自身というより、エレカの中にあったプラチナムとしての意思と呼ぶべきだが、今はそれも一体化している。仇と言えば、それまでだ。

「アクタは死んだ。チリは私が殺した。思うところがあるならば、今ここで言うといい」

「ない、と言えば嘘になる。妾にも心はあるのだ。……ただ、それは汝に向けた思いではない」

 静かに、穏やかに交わされる言葉には割って入る隙がない。

 とはいえ、最初から俺など不要なのだろう。もしも致命的な決裂に至りそうな流れが見えたならまだしも、そうなるまでは傍観に徹する。

 その、つもりだったのだが。

「チリとアクタは、その名の通り塵芥と化したのだ。何も思わぬわけがない。然りとて――」

「い、いやいや、待て。お前、今なんて?」

「カレン?」

 エレカが怪訝そうに……というか、不機嫌そうに声を上げるも、聞き流せる話ではなかった。

 塵芥?

 チリだアクタだ、てっきり魔族や魔物特有の名前なのかと気にせずにいたが、それが俺も知る言葉に由来するものだとしたら……今ここで言うことでもないと自覚しながら、思わずにはいられなかった。

「それは、なんというか、自分のために命を尽くす忠臣に与える名ではないと思うが」

 俺がおかしいのか?

 心底怪訝そうなマオと、不機嫌そうな呆れ顔を覗かせるエレカを見ていると変な思いに駆られる。

 言葉を撤回するなら今だ。邪魔をした、話を続けてくれ。

 そう言おうと首を振りかけた時、目を丸くしたマオがその何やら掴みかねた表情のまま口を開いた。

「忠臣にこそ与える名だと思うが。思うのだが……?」

 塵芥が、か?

「お父様も仰っていた。道半ばで斃れる者たちに、覆し得ぬ死を与える者たちに、然れど何も思わぬわけがないではないか」

 エレカを見る。

 表情がない。

 それが却って人間味を思わせる。と同時に、どこかで安堵している自分を見つけて首を振った。

「なんだ、汝らは知らんのか? 知らんのだな?」

 俺の仕草をどう受け取ったのか、マオはふふんと鼻を鳴らして微笑む。

 ……アクタの死を知った直後でなければ、可愛らしい少女の姿と俺もまた微笑むことができただろうが。あまりに似合わない言動に、薄ら寒いものを抱くのは間違っているのか?

「ごく限られた組織で動いてきた汝らには分からないかもしれないが、お父様が率いた魔王軍は広く大きかった。集う種族も違えば、戦う思惑も異なる。それをまとめ上げたのがお父様だった。まとめ上げられるのが魔王だった」

 偉大な父を自慢する娘。

 そんな光景に笑みを零す余裕はない。

「だが、……だから、なのだ。信賞必罰は欠かせぬ道理。過ちを犯した者には罰を、裏切りを働いた者には死を。魔王軍は広く大きかった。魔王が身内贔屓をしたなどと謗られれば、遠く離れた種族から離散し敵に回る。近しい者にこそ、厳しくせねばならんのだ」

 道理だ。

 疑う余地のない道理ゆえに、どうしようもなく混乱させられる。

 ちらりと横目で窺えば、なんとエレカは眉一つ動かさず無表情を保っていた。藪蛇だと、今になれば分かる。エレカが不機嫌になったのも当然だ。

「それで?」

 一から十まで話を聞いてやるほど子供に優しいつもりはない。

「それと塵芥と、どんな関係があるんだ?」

 裏切り者を蔑むなら分かるが、忠臣に向ける言葉や与える名ではないだろう。

 言うまでもなく伝わったと思った言葉は、しかし直後に現実を伴って突き返された。

「まだ分からんのか? まったく、シュトラウスはどんな教育をしている」

 半ば苛立ち混じりの呆れ声。

 今更あの父に申し訳なさを抱く日が来るとは思わなかった。不当この上ない飛び火に、いくら俺でも心の中で頭を下げる。

「お父様は裏切り者に鉄槌を下した。剣なら大業物と呼ばれる鉄槌を。妾にそうした姿を見せることを、お父様は嫌がっていたのだ。けれど幼き日の妾は、どうしてもお父様の魔王としての姿を近くで見たくてな。それを見てしまったのだ」

 言葉の上の存在ではないと思しき鉄槌。

 それを裏切り者であれなんであれ、生きた存在に振り下ろす姿など娘に見せられたものではないだろう。魔王でなくとも、そもそも父親という生き物でなくとも、当然の判断だ。

 しかしマオは、それを盗み見た。

 ……だからどうした、と吐き捨ててしまえば話は終わったのか?

「その時、お父様は叫んでいた。塵芥となれ、と。己を裏切った者に、振り下ろしたくなどない鉄槌を振り下ろす時、そう叫んでいたのだ」

 エレカを見る。

 目を瞑っていた。

「妾はそれを見て、思わず声を上げてしまったのだ。その、今なら気にするほどのことでもないのだが、その頃の妾には少し、ほんの少しだけ恐ろしく見える光景だったのだ」

 すまない。

 心の中でエレカに詫びる。俺が不用意に口を開いたせいで、どうでもいい話に付き合わせてしまった。

「それで妾に気付いたお父様は、けれど驚いただけで怒りはしなかった。それどころか塵芥なる者を知らなかった妾に、それは何者なのかと訊ねた妾に、優しく教えてくれたのだ」

 それが父親という生き物である。

 オイゲン・シュトラウスからは学ばなかった俺でも、巡礼者として旅をする中で何度となく見てきた。

「塵芥とは、命潰え骸さえ残らずとも共に戦い続ける、姿なき戦友なのだと。裏切り者を許すわけにはいかぬ。裏切り者を生かしておくわけにはいかぬ。けれど鉄槌を下した後には再び戦友となれるよう、どこにもいなくとも共に戦えるよう、お父様は願っていたのだ」

 マオは、そして言う。

「チリとアクタは、妾の塵芥となった。最早声は聞けぬ。笑い合えぬ。だが、どうした? それがどうしたのだ? 妾たちには未だ、戦う理由がある。倒すべき敵がいる。そうなのだろう?」

 これが、ある。

 忘れはしなかった現実を、しかし不意に突き付けられて背筋が冷える。

 エレカにもマオにも、裏表などないのだ。仲間の死を笑い飛ばすわけではない。それでいて、まるで忘れたかのように笑ってみせることもできる。

 無理をしているわけでも、壊れてしまったわけでもない。

「なら、話は早い。次はお前が塵芥となるのだ、二代目魔王」

 エレカが口を開く。

 ある意味では滑稽にも見えた無表情や瞑目ではない、暗く輝くかのような眼光を携えて。

「この身、この命、惜しむつもりは毛頭ない。あるはずないのだ」

 それを当然のごとく受け止めるマオにも、少女然とした雰囲気など残されてはいなかった。

 覚悟だ、これが。

 狂気にも達しそうな、決まり切った覚悟。

「それじゃあカレン、本題だ。ルージュが逃げ込んだ先、お前には分かるか?」

 今度こそ水を差すわけにはいかない。

 返事に要したのは、ほんの数秒。言葉をまとめる時間だけだった。

「竜寧山脈の向こう側、オールドーズ教会の総本山。実際に足を踏み入れたことはないし、正式になんと名付けられた土地かも知らないが、巡礼者と枢機卿の間では『聖都』とだけ呼ばれる都がある」

 十中八九、そこだろう。

 言葉を結べば、エレカもマオも異を唱えることなく頷いた。

「では、支度を始めよう。……二代目、最後の晩餐を忘れるなよ?」

「分かっている、分かっているのだ」

 その時の俺は知らなかった。

 それが比喩でもなんでもない、言葉通りの意味だとは。



   × × ×



 そして時は現在、フリーデリンデ殿下との演説を終えた後のこと。

 メイディーイル解放やオールドーズ打倒を叫ぶ兵士たちを背に、エレカは迷いのない足取りで皇宮の奥深くへと突き進んだ。

 途中、出迎えるかのように現れたオイゲン・シュトラウスに一言、プラチの身の安全を厳命する言葉を投げた以外、すぐ後ろを歩く俺にすら話しかけてくることはなかった。

 緊張しているわけではないと思う。

 この期に及んで、そんなまともな精神を持ち合わせているはずもない。

 しかし、あるいは、と思わせる瞬間が訪れた。

 マオが隠れる部屋……というより空間と呼ぶべき場所に繋がる隠し扉の前まで来た時だった。

 それまで俺のことなど忘れたかのように歩き続けたエレカが、不意に振り返る。

「カレン」

「……なんだ?」

 訊ねずとも言葉が続くものと思っていただけに、返事が遅れる。

 その間をどう取ったのかは知る由もないが、エレカは少し迷うように声を彷徨わせた。

「いや……。…………。ふと、聞いておきたくなっただけだ」

 何を、とは訊ねない。

 今度は待っていればいいのだと、相変わらずの迷う口振りから察したからだ。

「今の私は、お前の目にはどう映る?」

 まさしく神であろう。

 幼き日から信じてきた神様とは似ても似つかないながら、覇者の座を巡って争う神や王の一角には相応しい風格と言うべきか、威厳と言うべきか……。上手く言葉が見つからないものの、そんな何かを感じさせる背中ではあった。

 とはいえ、だ。

「どう、と言われても困る。お前はエレカだ」

 他に答えようがなかった。

 エレカは微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべ、小さく首を横に振る。

「……どうかしたのか?」

 兵士の前では、かつての姿など捨て去ったかに見えたのに。

 今の姿は、以前よりも幼く、だから年相応に見えるほどだった。

「戯言だよ」

「だとしても」

 言葉は口を衝いて出た。

 エレカはそれに驚いた顔を覗かせ、次いで呆れと諦めを綯い交ぜにして笑う。

「最近、夢を見るんだよ」

「夢?」

「夜に見る夢、幻想だ。カレンはどうだ? もしその姿になる前の、公爵家の娘カレン・シュトラウスであった頃に戻れるとしたら?」

 唐突な話だった。

 だが、飽きるほどに弄んできた問いでもある。

 その答えは、最近になってより鮮明にもなっていた。

「お断りだな。世界の行く末を掴みにも行かず、誰かが決める何かを待つだけの小娘になんぞ戻りたくないし、戻れない。戻ってしまえば恥ずかしさで悶え苦しむだろうさ」

 欠片も嘘偽りのない本心だったが、敢えて冗談めかしてみせた。

 俺の意図を汲んでか否か、エレカはくすりと笑って返す。

「そうか」

 しかし続く言葉に俺の笑みは凍りつく。

「私は戻りたいよ。無邪気に森の未来を信じていた頃に。ティルや他の妹みたいな子たちと笑う日々に。父の背が正しいと信じていた童心に」

 声は冷めていない。

 情熱や狂気も感じ取れない。

 ただ静かに、言葉だけを紡いでみせる。

「けどな、そこにカレンはいない。プラチもいない。グレイをどう思えばいいのかは分からないけど、ルネもリューオもフシュカも大切な仲間だった」

 感情のない言葉を、どう受け取ればいいかは分からない。

 だから判断は保留した。

 とはいえ言葉が指し示す意味だけは理解できる。俺が帝都に暮らし、エレカが森に暮らしていたら、二人が出会うことはなかった。

「緋色とも、立場が違えば友達になれたかもしれない。マオだって魔王が殺されていなければ、ただの子煩悩の親に育てられた普通の女の子だったかもしれない」

 けれども全ては、語る意味のない言葉。

「お母様と話してみたかった。お母様に笑いかけるお父様を知りたかった。生まれてこなかった子供たちの、育ちゆく姿を見守りたかった」

 エレカの瞳に、映る光はなんだ?

 目の前にいる俺を見ているのか、今ここにあるものを見ているのか、それさえも定かじゃなかった。

「もしも願えば、全てが叶うとしたら?」

 きらり、煌めく眼光。

 初めて垣間見えた感情は、だが俺の知るどんなものとも違っていて、理解することができなかった。

「それを世界に願うと? 覇者となった暁に、零れ落ちた全てを――」

「いいや?」

 笑う顔。

「戯言だと言ったろう? 私には私の、叶えなければならない願いがある」

「教えろ、と言っても答えないんだろうな」

「教えるまでもないことだよ。その瞬間が来たら、きっとカレンも同じ願いを口にする」

 その瞬間――。

 俺が世界に願う瞬間など、訪れてほしくはない。訪れてはならない。その時に願うものなど、想像もしたくないが知っている。

「だから、これは叶わぬ願いだ」

 そんなことはない、と思わず口走りかけた。

 違う。

 俺の、その瞬間の願いと、エレカが今言った願いは別物だ。

 それは一体、なんなのか。

 問うまでもなく、その答えはもたらされた。

「私はプラチナム。お前の知るエレカとは別の存在だと――」

 叶わないだろうな、それは。

 思わず笑うと、エレカも諦観の笑みを零した。

「傲慢で、身勝手で、そして叶わぬ願いだ。……戯言だったろう?」

「確かにな」

 エレカが再び振り返る。

 不可視の隠し扉は、来る者と迎える者の意思に応じて開かれた。

 突如広がる、一面の闇。

 そこに何故だか、光が見えた。

 闇の中でさえ爛々と輝く、黒いそれ。

「もう済んだのだな? 全てが、済んだのだな?」

 声。

 それに応じて、光が蠢く。

 理解するには、十分だった。

 いつの間に、などとは問うまい。

 勝手知ったる帝都である。言うまでもなく、エレカより俺の方が帝室や公爵家の力関係も熟知していた。ひとまずの危機が去った皇宮において、四六時中一緒にいなければ気が済まないほど子供でもなかった。

 だが、しかし。

「門を開け、道を繋げ。塵芥と化してでも、復讐を果たすのだろう?」

「無論である。妾こそが二代目魔王、偉大なる魔王の血と遺志を継ぐ者なのだから」

 義眼の力は、無限ではない。

 否。

 そもそも義眼そのものには、義眼の力を発揮するだけのマナがないのだ。

 ゆえにアクタも、その力を自在に扱うことはできなかった。

 それが今、マオの左の眼窩に収まっている。

 あの小さな身体に、一体どれほどのマナが蓄えられているというのか。アカラト湖の底と岸とを繋ぐ程度の道ではない。イスネアより更に先、竜寧山脈をも越えた向こう側に俺たちの目指す場所はある。

 まさか魔王の血は、ヒュームのそれと混じってなお膨大なマナを擁するほどのものなのか。

 答えは、だが、既に明かされていた。

 王の力は、血によって受け継がれるものではない。

 にもかかわらず、マオは名乗りを上げた。己こそが魔王であると。行き着く果てを、エレカとて見てきたはずだ。

 異形と化し、理性を失い、ただ敵だけを殺さんと朽ちていった者がいた。

「世界よ、思い出すのだ。妾の名を。妾の父を。妾の身に流れる血を。胸を焦がす復讐心を。我ら同胞が抱いた怨嗟をもッ!」

 それだけでは飽き足らぬと、マオは叫ぶ。

 そうするほどに義眼は輝き、その息遣いは荒くなる。

「知っている、知っているはずだ。妾は二代目魔王であり、魔眼王の後継者でもあると……! 勇者に奪われた血族の、奴らに踏みにじられた同胞の、塵芥の声なき怨嗟を妾に返すのだ!」

 義眼を嵌め込んでいない、本来の眼球を残したはずの右目までも淡い光を帯びていた。

 闇の中。

 狭苦しい空間の中。

 突如として吹き荒れた嵐が、俺たちの行く末を指し示す。

「時間は限られている。足を踏み外すなよ」

 風が流れてくる、そちらの方向に道が繋がったのだ。

 しかし、その道は。

 限られた時間とは、つまり――。

「命は戻らない。時と同じく、ただ流れゆくのみ。想う暇があるなら、踏み越えていけ」

 エレカは待たなかった。

 迷いのない足取りで闇の中へと踏み出し、そしてマオの脇腹に腕を差し込む。何をするのかと思えば、そのまま半ば引きずるようにして抱えていった。最早、ただ歩くことさえできないのだ。

 気付くやいなや、駆け寄っていた。

 エレカの腕から奪い取るようにしてマオを受け止め、背中に回るだけの余力もない小さな身体を胸に前に抱き上げる。

「……予想以上に時間がないな」

「そう、なのだろうな」

 他の言葉は返せなかった。

 腕の中、マオは言葉にならぬ声を紡ぎ続ける。今にも命果てようとする少女の、その願いはなんなのだろう。

 どうしたら人は、そんなにも願うことができるのか。

 自分の命は、誰だって惜しいはずなのに。

 大切な人の命は、それ以上にかけがえないはずなのに。

 どうして、人は――

「ハハハ、ハハハハ……。せ、かい、め……。おも……、しる、だ。わら、わ、が……。……らわ、……そ、が、やつ、を…………」

 返らぬ命のために。

 叶わぬ願いのために。

 辿り着いたとて何一つ、誰一人報われない未来のために。

 こんなにも、笑い続けられるのか。

「ハハハハ……、ハハ、ハ」

 闇は延々、どこまでも続くかのように、時には目の前のエレカの背中すら見失いそうなほどに濃く、満ちている。

 まるで人の心が、マオの口にした怨嗟が、そこかしこから溢れ出ているようだった。

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