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97話 深淵は、杳として

 凱旋など考えてはいなかった。

 そもそも勝者ではなく、何かを喜べる気分でもない。

 しかし、いざ目の当たりにした光景を前に、胸の奥底にあった感情を自覚する。

「おい、止まれっ!」

 帝都の脇を抜け、皇宮のある高台をフシュカの背に跨り走っていた最中。

 微かに抱いた違和感がすぐさま確信へと結び付き、あれこれ考えるより早く先行するエレカに声を飛ばしていた。

 返事はない。ただルネが減速したように見えた。

 次の瞬間には意を汲んだのかフシュカが急加速し、ルネの隣に並ぶ。エレカが横目で一瞥。小さく頷いて返し、速度をルネに合わせながらも走り続けてはいたフシュカの背から飛び降りる。

 勢いのまま数歩ほど走って、遅れてルネの背から降りたエレカに追い付いた。

「皇宮の様子がおかしい」

「それは知っているが」

 帝国やヒュームに疎いから気付いていないのかと思ったが、承知の上で竜馬を走らせて突っ込むつもりだったのか。

 内心に冷や汗を感じつつ、一方で大した問題でもないと無慈悲に判断する自分も見つめる。

 ルージュが去った今の帝国に、エレカを相手取れる存在があるだろうか? 大抵の邪魔立ては剣を抜かずに拳や手刀で解決できるはずだ。

 とはいえ、そうさせるわけにもいかない。

「まさかとは思うが、軍の主力が前線に出た隙に近衛が出張ってきた可能性がある」

「近衛?」

「皇帝と帝室を守護する、軍とは別の組織だ。総兵力で言えば帝国軍に遠く及ばないが、個々の実力では優る」

「それはつまり、問題になるほど?」

「違う、考えてもみろ」

 やはりエレカはエレカ、エルフはエルフか。

 ヒュームの、それも帝国の文化や習慣を知っておけという方が無茶な話だ。

「個々に実力がある……要するに、頭が回る連中だ。軍人が出払ったとて、曲がりなりにも魔王が占拠する皇宮にわざわざ武力で威圧するとは考えにくい」

「別の勢力という可能性は?」

「そっちの方が、まだ気が楽だ」

 ふむ、とエレカは瞑目。

 その間も大股で歩き続け、当然のごとくルネとフシュカが横並びについてくる。皇宮は目と鼻の先だ。皇宮それ自体ではなく、敷地の門前に立つ歩哨がこちらに気付いたような動きを見せ始めた。

 焦れったく思い始めた頃、ようやくエレカが口を開く。

「有能な手足に、無能な頭がくっついたか」

「理解できたなら――」

「話を合わせろ。悪いが、無駄にできる時間はない」

 心中で天を仰ぐ。

 皇宮の占拠などという暴挙をどうやって実現させたのか、そういえば宰相閣下に聞くのを忘れていた。しかし帝国軍人なれば、忠誠を誓う相手は皇帝その人であり、延長線上にあるのは帝室のみ。

 いかに魔王の威光で脅し付けようと、たかだか公爵風情に付き従う道理はない。

 道理に合わぬ現実は、無理を通して成せるものではないだろう。合わぬ道理を掻い潜り、上手いこと帳尻を合わせるから叶うのだ。

 それを更なる無理で押し通るなど考えたくもない。

 だが、結論から言えば――。

「……おや、随分と静かだったな。お陰で気付かなかった」

 公爵風情の宰相閣下が、相も変わらぬ皇宮の主気取りで俺たちを迎え入れることとなっていた。



 丁寧に淹れられたコーヒーを一口含み、すっきりとした味わいとは遠くかけ離れた現状を脳裏で整理する。

 まるで狸と狐の化かし合い……いや、現状はまだ腹の探り合いか。

 皇宮の敷地内に展開していた者たちは、やはり帝室を守護する近衛兵の一団だった。

 といっても、奪還を命じたのは皇帝ではない。皇帝からすれば姪に当たる、継承権を持たない代わりに愛国心は人一倍強い御方の、事実上の独断。

 帝室の事情などいかに公爵家で生まれ育っても知らないことの方が多いが、継承権を持たない上に政治的な役割も望まれなかった御婦人には正義感こそあれど、政治や軍事の情勢を読む力は皆無に等しい。

 話を聞くに、皇帝の一声で帝国が動くものと信じている節すらある。

 そして、信じる力とは偉大だ。

 臣民は皇帝だけでなく帝室を見る。例えるなら、頼れる仕事仲間の家族を見るようなもの。仕事上の付き合いに非の打ち所がなくとも、家庭内に問題を抱えるような人物は信用できない。

 その点、帝室という身内から信頼以上の尊敬を抱かれる皇帝の姿は、それを見た民にも安心感を与えるのだ。

 ゆえに御婦人は無能だったわけではない。

 有能な帝室の一員であり、だからこそ皇帝も無下にはできなかった。

 直接的な反抗は継承権の有無に関わらず子供たちに危害が及ぶ可能性があると説得し、皇帝の手による奪還ではなく、あくまで一部の暴発という形を装うこととなる。

 対するオイゲン・シュトラウスには、しかし私兵がいた。

 その兵力で迎撃、鎮圧することもできたが、これをしなかったために皇宮は近衛による奪還を許す。一方で、私兵の投入を避けたという事実が何より雄弁に語ったことだろう。

『宰相は――否、公爵は何を考えている?』

 そして皇帝陛下は、我らが帝国を率いる頭であり、支える屋台骨であり、前進させる足でもある。

 無能とは、あまりに程遠い。

 近衛の尽力で安全は確保されたと周囲の反対と不安の声を押し切って皇宮を『訪問』。

 魔王と手を組んだ宰相との、帝室にも知らせぬ密談に至った。

「さて。久しぶりだね。……と言っても、君は覚えていないのだろうけれど」

 穏やかな声が微かに響く、狭い部屋。

 魔王――否、マオの力で皇宮の中にありながら隔離空間と化した一室に、帝国の心臓そのものと言っても過言はない人物が佇んでいる。

 一見すると好々爺然とした風貌の老人。

 しかし柱で支えたかのごとく伸びた背筋や、重苦しいまでの知性を窺わせる目の奥の静けさが見る者を呑むようだった。

 皇帝、その人である。

 帝国人にとって、これほどの天敵はいないだろう。幼き日から子守唄の代わりかと呆れるほどに偉大さを伝え聞かされてきた御仁なのだから。

 だが、そう。

 帝国人にとっては、だ。

「悪いが、これはもう帝国の人間でも、公爵家の娘でもない。私のもの、森の一部だ。そう自分の庭みたいな顔で語られても困るな」

 平然と吐き捨てたのは、帝国で生まれ育っていないどころかヒュームですらなく、なんなら今はエルフというヒュームと並ぶ人間なのかも不確かな存在。

 エレカ・プラチナム・アーレンハートその人にとってみれば、皇帝とて只人に過ぎないのか。

「それで、貴様が皇帝か」

 皇宮を出る時は、まだしもエレカはエレカだった。

 机の上を好き勝手に歩き回る、トゲトゲとしたシルエットが特徴の白いネズミ。

 言葉を喋らなくなったプラチに思うところがあるのか。あるいは半身を失い、イスネアで見た時の暴威そのものかのような存在に戻りつつあるのか。

 なんにせよ、今のエレカに以前の良くも悪くも小娘だった気配はない。

 とはいえ、皇帝とて伊達に帝国の主ではないのだ。

 その人柄に親しみを抱く民の声はあれど、ただの好々爺など勢力争いに駆り立てられた公爵家の傀儡になるのがオチ。

 現実は傀儡どころか、公爵家という古狸どもをまとめ上げる親玉であろう。

 己の優位を誇示するがごとく居丈高に振る舞うエレカに対し、皇帝は穏やかな声音を崩さず応じてみせた。

「そういう貴女はエルフの王と伝え聞く」

「最大国家を支配する、事実上のヒュームの王だ。まさか愚かではあるまい?」

「はて一体なんのことやら……などと惚けてみせるのは、なるほどお気に召さないらしいね」

「短気と笑ってくれて結構。だけどな、勘違いするなよ? 私と貴様は、対等ではない」

 言うまでもないことだ。

 皇帝その人も、理屈を抜きにして感じ取っているに違いない。むしろ感じ取れなければ、器でないのだ。

「頭を垂れよ、と?」

「黙れ。無駄話がしたいなら、口ではなく首で働かせてやる」

 首で?

 どういう意味かと首を傾げかけ、その俺自身の首に手を触れる。あぁ、そういうことか。

 冗談にしては度が過ぎる。

 詰まるところ、冗談ではないのだろう。

「貴様の敵はなんだ? 帝国の皇帝よ」

 皇帝。

 個人ではなく、称号であり地位を示すそれ。

「魔王、と数時間前までは即答できただろうね」

「つまり分からぬと? 貴様はそれでも王か?」

 俺ですら初めて聞く、侮蔑の笑い声。

 先ほどエレカが口にした、愚かではないという評価。あまりに含意がありすぎるものの、そもそもエルフに王などいないのだ。エルフの森にいるのは、森長と呼ばれる調整役のような存在。

 少ないながらヒュームの行商人も出入りする森のことを、皇帝の立場で知らないとも思えない。

 であればこそ、エレカが王を名乗ることの重みを感じずにはいられないはずだが。

 そのエレカが吐き捨てた、王の資格を問う侮蔑の声にも。

「貴様の民を苦しませるものはなんだ。魔王か? オイゲンか? 私か? 本気でそう思っているなら、この場で己の首を刎ねろ。私の方がよほど有効に使ってやれる」

 首、やはりそれか。

 山賊じゃあるまいし、首を取ったからといって国を乗っ取れるわけではない。それでも使えるとエレカは言う。更には、無駄口よりは働くと。

「……マナの減少については把握しているとも」

「メイディーイルの森を見た。あれは個人の成果か?」

「恥ずかしいことに、大凡は。価値に気付いてからは支援をしたが」

 苦渋の声だ。

 同情はすまい。

 しかし、戦慄はする。

 オイゲン・シュトラウスも同じだろう。今の帝国が、どれほど瀬戸際にいたのか。残りが一枚とは言わないまでも、数えるほどの首の皮がどれほどの偶然で繋がっているのかも。

 巡礼者として旅をしていた頃であれば、恐怖で足が動かなくなっていたかもしれない。悍ましいほどの、受け入れ難い現実である。

「貴様らの、そして我らの敵、それは世界よ」

 エレカが笑う。

 呵々と、それでいて忌々しげに。

「世界に抗えと?」

「抗わずに死ねと、子供たちに言えるか?」

 アーレンハートの森と一体になったエレカにとって、子供とはそこに生きたエルフたちを指すのだろう。単なる幼少の者たちではない。

 皇帝にとっても、きっと同じだ。そうあることが帝室の不文律でもある。

「抗わねば、ならんのだ。貴様がヒュームの王だというなら、全てのエルフの森を蹂躙し富という富を奪い取ってでもヒュームを守らなければならない。だが貴様は、帝国の皇帝だという」

 嫌な笑みだ。

 対等ではないと、他ならぬエレカが言っていた。

 その通りだと、その時は思った。エレカには絶大な力がある。ルージュやグレイには及ばずとも、ただの人間には到底太刀打ちできない圧倒的な力が。

 そうではなかった。

 エレカの言う、対等ではないもの。

「覚悟、か」

 我知らず、ぽつりと零していた。

 エレカがこちらを見る。頷いてから、軽やかに笑ってみせた。

「決まってない方がおかしい。……違うか?」

「違わない、のだろうね。確かに、その通りだ。悩む余地はなく、迷う贅沢も許されはしない」

 皇帝の目が、エレカの目を見据える。

「けれど、口で言うのは簡単だ。世界に抗う? 素晴らしい響きだ。これ以上なく、胸が踊る。……それで? 皇帝は、神ではない。夜はいずれ明けようが、それだけだ。どんな権力を用いようと、朝を連れてくることは叶わない」

 無自覚だろうが、皮肉な台詞だ。

 神たるエレカ・プラチナム・アーレンハートにとて、朝を連れてくることは不可能なのだから。

「分かっているじゃないか」

 覚悟は、だからとっくに決まっていたのだ。

 不可能を、エレカは知っている。

 不可能を諦め、可能な中でも取捨選択し、己にとって大切な何かだけを選び抜いた後だ。

 きっと帝国は犠牲となる。

 全てはオール・ルージュ・オールドーズを討ち倒すための布石。

 同情はしない。肩入れもなしだ。

 俺はただ、カレン・アーレンハートの名に殉じる。

「貴様らには、夜明けを待つことしかできない。辛い時間だ。刻一刻と人が死ぬ。他人の死は忘れられる。だが隣人の死は心を蝕む。家族の死は蝕むだけでなく、壊してしまうかもしれない。それでも、夜空は闇のまま」

 詩的だと笑い飛ばせる話ではない。

 いつ明けるかも分からぬ夜を、いつかは明けるのが夜なのだと言葉騙しに耐え続けるしかないのが現実なのだから。

「貴様の、その口はなんのために付いている? 民を騙せ。民のために。いつかは明ける夜を、今にも明けるのだと永遠に信じ込ませることが貴様の役目だ。違うとは言わせんぞ」

 ふざけた話だ。

 夜が明けた時、そこに何人の民が息をしている?

 なんのために、夜を明かす?

 俺には、考えることもできない。見知った者たちに抱く感情すら、いつの頃からか希薄になっていた。それでもエレカの危機には心を痛められるだろう。

 しかし見ず知らずの、ただ同じ国に生まれ育っただけの誰かの死には?

 心を砕くとは、よく言ったものだ。

 誰しも後生大事に抱え込まざるを得ないそれを、誰かのために自ら打ち砕く。ヒビが入るだけでどうしようもなく痛むそれを、己の手で粉々にしなければ叶わないことがある。

「貴女には、それができると?」

 皇帝が問う。

 失敗だったと、すぐに悟るだろう。

「できんさ」

 エレカの笑い声に、湿り気はなかった。

「私の森には、もう守るべき民がいないのだよ。誇りのために手を汚した者たちも、未来を担うはずだった可愛い子らも、森そのものであった木々たちも、最早ないのだ」

 プラチナムを衝き動かした、復讐の誓い。

 気付かないでいられる道理もなかった。

 プラチが言葉を喋らなくなり、引き換えにエレカが桁外れの力を見せる。イスネアで分かたれた二人が、今また一つに。そういうこと、なのかもしれない。

「私には私の、果たさなければならない役目がある。そのためにはルージュが――、オールドーズ教会が邪魔だ」

「……ん?」

 じろりと見てくるエレカには首を横に振って返すが、生まれた疑問はそのままだ。

 邪魔?

 妖精王が世界樹を割り、エルフを散り散りにさせた。その背後にいたのがルージュだったはず。それを倒すことが目的ではなく、ただの邪魔でしかないと?

 覇者になる、とエレカは謳った。

 復讐ではなく……?

「まぁ、いい。貴様はどうだ? ……奴は謳ったそうだな。天導病、だったか?」

 エレカが再び俺を見る。

 この場に、俺の素性を知らぬ者はいない。

 シュトラウス家とて狸一味の一角だ。オールドーズ教会との連携を取らざるを得ない帝国において、表向きは死者と化した実の娘が巡礼者の身分でいることは、公爵家からすれば帝室に対する手札の一つになる。

 しかし今ここで、天導病などという教会の謳う御伽噺が意味するものとは何か。

「貴様とて知っているはずだ。人は、食わねば生きていけない。そして、餌がある。希望という餌がある。団結を促す餌がある。勇気を奮い立たせる餌がある」

 希望、団結、勇気。

 綺麗な、けれども餌か。

「駆り立てろと、そう言うのだね? 敵がいる。それは盗人で、詐欺師で、諸悪の根源だと。戦い、勝ち取れば、夜が明けると。けれど、現実には――」

 狸ですら、震え慄くことがあるらしい。

「死ねと、儂が命じる。間引けと、貴女は命じる」

「強制はすまい。強制して、できるものでもあるまい」

 エレカは笑う。

「ただ、できぬと言うなら、その首で駆り立てるのみ」

 いったい、なんのために?

 笑うエレカを、じっと見つめた。

 エレカは振り返らず、視線が重なることはなかった。

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