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96話 斯くて勇者は

「我が名はカレン・アーレンハート。王殺しにして、復讐を継ぐ勇者である」

 エレカよ、魔眼王よ、そして世界よ。

 これでいいのか、と答えが返されないことを承知で問う。

 いきなり力が溢れてくるとか、そんな都合の良いことは起きなかった。ただルージュが振り返り、怪訝そうに眉根を寄せるだけ。

「なんのつもりですか、あなたごときが」

「貴様の敗因を教えてやる。貴様は勇者に甘すぎた」

 竜人にとって、敵は最早ルージュただ一人となった。

 魔力の節約を考えないエレカの遠距離からの攻撃がなくなれば、よほど自由に動き回れるのだろう。俺との会話など意に介す素振りも見せず、ルージュへの攻撃を再開させていた。

 だが、失われた右半身の再生は遅い。

 バランスは崩れるのか、敵が減った割に反撃という感じでもなかった。幾分か余裕を取り戻した程度。

 ゆえに光の槍を使うルージュであれば、押し切ることはできたかもしれない。

 そうしなかったのは単純に魔力を出し惜しんだか、あるいは俺の挑発に乗ってくれたか。

「前の時代、どうして勇者を殺さなかった?」

 竜人の剣を難なく潜り抜けたルージュの足取りが、その瞬間、僅かに乱れた。

 こちらに突き刺さるのは、それだけで俺を殺さんとするかのような眼光。

「……何をッ!」

 怒髪天を衝く。

 およそ冷静さの欠片も見えない形相で、まともな言葉になっていない怒声を吐き捨ててきた。

「貴様には妖精王を殺す能力がなかった。勇者を殺す覚悟がなかった。今だってそうだ。エレカの共闘を信じる気概がなかった」

「そんなことをする必要が、どこに――」

「それが貴様の敗因だと言っている。俺は殺すぞ、貴様を。貴様らを」

「ハァ、ハ」

 竜人が笑った、気がした。

 気のせいか?

 しかし確かに一瞬、竜人はルージュを狙っていた動きを止めてまで俺を見た。その口元に炎が集まる。反射的に避け――ようとした時、竜人が首を動かした。

 熱線が刃のごとく虚空を走り、ルージュに迫る。ルージュはこれも回避したが、ほとんど当たる寸前だった。俺を囮にした、目の前からの奇襲。理性があるのか、やはり。

 分からない。

 だったら、考えるのはやめる。

 余所事を考えているだけの余裕が俺にあるか? ないのだ。あるはずがなかった。感情は捨てろ。それだけが俺を生き残らせる。

「あなたは何も分かっていません……!」

「いいや、知っているさ」

 拳を握る。

 力が溢れるなんて都合の良いことはなかった。

 ただ不思議なことに、頭は澄み渡っている。目で見てきたもの、脳で考えてきたもの、それが腕や足、指先にまで通じるようだった。

 一度、二度、爪先で地面を蹴ってみる。

 力の入れ方は、それで覚えた。

「貴様は、竜人には勝てない」

 笑ってみせる。

 ルージュの眼差しに、揺れるものを見た。

 たかが一瞬。

 されど一瞬。

 地面を蹴飛ばす。足技はご法度だ。最も印象的な場面で見せてしまった。だからこそ、囮にする。

 高く高く跳び上がるように勢いを乗せて。

 しかし向かう先は、上ではなく前。蹴り出した足を強引に地面に叩き付け、急減速。からの急加速。

 ワンテンポずらした蹴りでルージュを狙う。

 と、見せかけてみた。

 ルージュは剣も構えない。大きく後ろに飛び退った。直上から、ルージュが立っていた地面に巨大な剣が突き刺さる。

 その剣を避け、横に回り込んでから回し蹴り。これには剣の切っ先を返された。突っ込むわけにはいかず地面に手を付き、軌道を変える。それからルージュは余裕を持って熱線を避けた。

 嫌になるくらい合わせてくれる。

 だが、それでも追い詰められない。俺の実力不足だ。強いて振り払わなければ、情けなさに泣けてきただろう。

「エレカの手を取るべきだった。疑わしくも、並び立つしかなかった。それが貴様の、唯一の勝つ道だった!」

 叫ぶ。

 俺の剣。

 俺の盾。

「何も知らぬ新参者が何を喚いたところで……ッ!」

「だったら!」 

 手を尽くし、足を蹴り出し、けれど届かぬもどかしさを振り払い。

 ただ叫ぶ。

 ただただ叫ぶ。

「だったら知っているのか、貴様は! 貴様自身は! どうすれば勝てるのか!」

 言葉を操るようになった竜人を前にした時、ルージュは取り乱した。

 感情を隠すこともできず、頑なに未来の勝利を叫んだ。

 あそこに鍵がある。

 俺もエレカも知らない、それゆえに取り違えた何かがあるのだ。

「貴様なら知っているはずだ」

「……ッ」

 返されるのは、やはり鋭い眼光。

 どう殺してやろうかと、どんな苦しみを味わわせてやろうかと、そんなことを瞬時に考えてしまった時の人間の眼差し。

「知っているんだな、貴様は」

 笑う。

 心の底から、笑みが零れた。

「世界に示してみせろ、貴様の勝利を。世界が剥がしてくれるだろうよ、その化けの皮」

「勇者だからと――」

 ルージュが剣を翻す。

 振り下ろされていた竜人の剣を、一歩も動かず弾き返した。見かけからは想像もできない腕力、ではないのだろう。

 ロックの魔剣を湖に蹴飛ばす瞬間、触れた足には違和感があった。最初は魔剣に宿る魔力がそれほどまでに濃密なのだと思ったが、今ならなんとなく分かる。ルージュが今しがた見せた一撃と理屈は同じか、模倣したもの。

 神の何気ない一撃を再現するために、常人は命を賭さなければならない。

 であれば、俺は?

 到達者と呼ばれ、勇者と認められ、因果なことに王を殺した過去のある俺は。

 何をどの程度諦めれば、ルージュと対等に戦える?

「勇者だからと、甘やかしたのが私の失態なのでしょう」

「他の女を愛した男だ」

 間違えた、と直後に悟った。

 目の前に迫っていた剣を、それを握る拳を弾くことでなんとか耳を掠るだけに留められたのは、ほとんど奇跡と言っていい。次はない。

「愚弄するなら、容赦はしません」

 しかし意外にも、続いたのは剣ではなく言葉だった。

 九死に一生、それを寄越したのは、またしても竜人である。熱線が俺の眼前を横切った。ルージュが俺を殺そうと剣を振るっていれば、俺は自分が生き残るために抗っただろう。

 そこでほんの数秒でも稼げたなら、俺の命と引き換えにルージュは致命傷とまでは言わずとも大怪我を負っていた。そこまで読んでの退避。だから俺は竜人に救われた。

 またグレイと呼んでやろうか?

 笑いかけ、冗談を弄ぶ余裕もないと思い出す。

 敵は化け物どもだ、どんな余裕もあるはずない。

 腹の溜まった空気を一息に吐き出し、地面を駆ける。敵は化け物、俺は人間。どう足掻こうと、俺の拳がルージュに届くことはない。だったら化け物の剣を届かせるまでだ。

 さて、問題はどう届かせるか。

 ルージュは俺の攻撃など見切っている。拳を避けられるどころか、そもそも手や足が届く距離まで詰めさせてくれない。まだしも脅威に感じ、逃げてくれているなら追い詰めようという気にもなるが、奴が真に回避しているのは俺の攻撃ではなく竜人の横槍だ。

 先の怒りはどこへやら。俺など最早、眼中にないらしい。

 あるいは怒りを自覚し、努めて自制しているのか。

 どうあれ今、ルージュの意識は竜人に傾けられている。それを油断とは呼ぶまい。仮に熟睡しているところを奇襲しようと、俺に勝ち目はないだろう。むしろ俺ごときに意識を割くことこそが油断と言える。

 と、不意に竜人が吠えた。

 何かと思えば、巨大な竜の尾を地面に叩き付けて跳躍する。全身に生えた短い腕を小刻みに動かし、まるで空でも飛ぶつもりのよう。

 無論、そんなことできやしないが。

 ほんの少し……といっても竜人の巨体なのだから一メートル以上は跳ね上がり、更に長い体躯の上から巨大な剣を振り下ろしてくる。

 狙いはルージュだ。

 疑いを挟む余地もなく、きっと目を瞑っていても避けるのは容易かっただろう。

 ゆえに本当の狙いは他にある。

 ルージュも分かっているから、大きく距離を取った。

 ――否。取ろうとした、と言うべきか。

 ルージュは確かに一対の剣撃を悠々と回避してみせた。であれば必然、剣は地面に叩き付けられる。

 桁外れの衝撃が起こす土埃は、ほとんど横殴りの暴風雨だ。しかも飛び散るのは雨粒ではなく土砂。

 決して近付きすぎてはいなかった俺でさえ巻き込まれる。咄嗟に顔を腕で守りながら後退しようとするも、そんな余裕すらなく身を屈めるのが精一杯だった。腕を、頬を、全身を、どこが痛いのかも分からないほどの絶え間ない痛みが襲う。

 距離を取ろうとしていたとはいえ、より近距離で受けたルージュはどうだ。

 ようやく砂嵐が収まった頃、砂塵に包まれた視界に目を凝らす。見えるはずもないと思ったが、そんなことはなかった。

 一筋の光が見える。

 天へと、斜めに突き抜ける光の軌道。

 舞い散る砂が新たなに吹いた風に流され、不思議な模様を虚空に描く。

 ルージュが、ほとんど飛翔と言っていい速度で竜人へと迫っていた。剣が振り抜かれる。砂がまた風に舞った。竜人の剣がルージュを弾き飛ばす。徐々に砂塵が晴れていく。

 真正面から放たれた熱線に、ルージュは光の槍で応戦するしかなかった。

 そして、ようやく着地。

 ほんの数秒、片手で数えられる時間で激しく戦場が巡る。

 そうかと思えば、幾許かの静寂が生まれた。着地したルージュがそのまま膝を付いて立ち上がらない。どこかに傷を負ったかにも見えたが、目を凝らせば憎々しげな表情が見て取れる。

 力を浪費させられたこと、それに苛立っているらしい。

 余裕があるものだな、と他人事のように笑いそうになってしまった。

 俺が出る幕などあるのか? 命を賭してまで戦況を揺らがせる必要があるのか?

 脳裏で転がせば、笑い飛ばすには十分だった。機会があるか、必要があるか。そんなこと関係ない。なければ作る、なくてもやるのだ。

 時が経てば滅ぶ身の上、竜人が戦場の膠着など許すはずもない。

 動こうとしないルージュに再び熱線が迫る。迎え撃つ意味もない一撃を横移動で避ければ、そこに横薙ぎの斬撃が放たれた。

 ルージュは剣で弾くも、吹き飛ばされたのは自分の方だ。

「イィヒャ」

 その光景を楽しむかのように竜人が笑い声を零す。人間の形をした顔は微動だにしていない。音の角度からして口から発してはいるはずだが、見える姿と聞こえる声の違和感が気持ち悪いものを抱かせる。

 ただ現状、そう笑える状況でもないだろう。

 ルージュもむざむざとやられているわけではない。後ろに吹き飛ばされたのは、踏ん張らずに衝撃を逃がしたからだ。

 竜人に時間がないなら、ルージュにも余裕はない。

 全ての攻撃をなんのリスクもなく避けて、防ごうなんて贅沢が過ぎる。最小限のリスクと引き換えに、失う魔力も最小限に。そうまでして浪費を厭う理由がルージュにはある。

 竜人には勝てない。

 それがルージュに向けられた竜人その人の言葉。

 俺には理解できていない事情がどこかにあるにしても、恐らくは真実の言葉なのだ。でなければルージュが笑い飛ばさない理由がないだろう。

 俺は所詮、一個の人間に過ぎない。

 知らないことだらけだ。世界のなんたるかも、ルージュやグレイの過去も。

 だから考える。

 答えは知らない。正解なんて知る由もない。

 だからこそ脳を働かせ、導き出さなければならない。

 俺が今、すべきことはなんだ?

 知らないことを知るために藻掻く時間はない。知っているはずの全てを脳裏に巡らせ、取捨選択する。

「……いいのか、それでッ」

 我知らず呻いていた。答えは出た、正解とは程遠い答えなら。

 しかし眼前、竜人の攻撃は激しさを増している。エレカがいなくなった今、竜人にとって敵と呼べる存在はルージュただ一人。攻めて、攻めて、攻め立てて、限られた猶予の中で決着を急ぐ。

 残された時間は短い。

 たとえ正解からは程遠くとも、俺は俺にできることをやるしかないのか。

 ほぞを噛む。……ほぞとはなんだったか。思わず記憶を辿りそうになった思考を断ち切る。そんなことはどうでもいい。知っていたとしても、知らなかったとしても関係のないことだ。

「俺を見ろ! オール・ルージュ・オールドーズ――ッ!」

 叫ぶ。

 恐怖も疑念も何もかも捨て去って。

 然しものルージュも驚きを横顔に滲ませ、ほんの一瞬だけ視線もこちらに向けかけたが、これしきのことで隙を晒してくれるほど優しくはない。反対に俺の叫びを予見していたかのごとき反応速度で振るわれた竜人の剣を、やはり驚く素振りもなく避けてみせる。

 そうして、忌々しげな表情を消し去った。

「一体なんのつもりで――」

「貴様の敵は、ソレだけじゃないぞ」

 拳を握る。

 力は漲るというより、上手く浸透していく感覚。腕から手、指へと流れる血液の一滴まで感じ取れるかのような冴え渡り。

 それでいて、余計な力は伝わらない。

 自分でも驚くほど自然に、淀みのない一歩を踏み出せた。一瞬で加速する。

 ルージュは僅かに視線を逸らした。好機、ではない。地面に踵を突き、無理やり急停止。そのまま背後へと跳べば、鼻の先をルージュの剣の切っ先が通り過ぎる。そのルージュの背後には熱線が突き刺さった。

 三者三様、思惑はあるのだ。

 噛み合えば何も起きず、噛み合わなかった瞬間に致命的な何かが起きる。冷や汗をかく余裕もない。

 そして無論、ただ一度の衝突で完結する戦いでもなかった。

 竜人が追撃の刃を携え、ルージュに迫る。ルージュもただ避けるのではなく、回避の動作をそのまま俺への攻撃に繋げてきた。

 ルージュが眼前で腰を落とす。地面すれすれを這うように放たれた蹴りは、だから敢えて受けた。勿論、まともには受けずに力を受け流せる格好で。

 足を掬われ、背中から地面に落ちていく最中、颶風を伴う巨大な剣が前髪を斬り裂いていった。蹴りを耐えるか避けるか、どちらにせよ身体を強張らせたが最後、ルージュを狙った竜人の剣に捕まっていたわけだ。

 敵の敵は、依然、敵である。

 後方宙返りの要領で地面に手を付き、格好の的になっていた足を逃がした。ルージュの手が空を切る。俺の足を掴もうとしていたらしい。いくらルージュとはいえ、あんな縮こまった体勢から剣は振り抜けないか。

 対するこちらは、反動を付けて起き上がった直後。

 居丈高に踏み荒らすがごとく、上段から踵を叩き落とす。ルージュは横に跳んで避けた。落とした踵を軸足として、大きく一歩踏み込む。膝を突き出した蹴り、と見せかけて更に一歩。

 大きく背後へ跳ぼうとしていたルージュの動きが一瞬鈍る。一歩の差で、俺の拳が届くと察した。

 だが何もかもが対等ではないのだ。

 俺は拳、ルージュは剣、膂力も反応速度も比較にならない。下手に逃げて対処を迫られるより、さっさと迎撃して五分に持ち込み、そのまま翻す。ルージュにはそれを実現するだけの優位があった。

 ゆえに考えてしまった、その隙を竜人が見逃すはずがない。

 硬直は一瞬。

 熱線は彼我の距離を瞬く間に消し去るが、それとて一瞬の間隙を縫うほどではなかった。ルージュは必然、後ろに下がるしかない。俺と奴の間に熱線が突き刺さる。……そこまでは、だから読めていたことだ。

 引き絞られた熱線は、どこを狙うか分かっていれば避けるのも難しくない。

 熱線を避けながらルージュを追う。膂力の差以前に、ただ後ろに下がるだけのルージュと、熱線を避けて回り込む俺とでは距離が広がるばかりだ。

 しかし今一度、その距離を消し去ってくれる者がここにいる。

 ルージュの背後、大上段から振り落とされる巨剣が壁と化した。下がれば剣の射程に捕まり、下がらなければ俺に捕まる。二者択一なら、悩むまでもなかっただろう。

 ほとんど反転する勢いで急減速し、剣を構える。迎撃の意思表示。だが実際に待つことはしない。俺相手に使う時間など一秒もないはずだ。すぐさま切って返し、竜人の攻撃に備えるなり反撃に出るなり。

 分かっていた。

 俺は弱い。

 だからこそ今この瞬間、正面からの不意打ちができる。

 熱線を避けるために迂回し、僅かに傾いていた重心。その背中を押してやるように右足を蹴り上げる。

 無論、蹴りでは剣に勝てない。だったら剣を振るわれるより早く、届かせるまで。

 見様見真似、ぶっつけ本番、それがどうした。エレカを見てきた。イスネアの時とは違う、不自然な空の駆け方。あれはきっとこうやるんだと身体が動く。

 空中に蹴り出され、何も足掛かりになるものなどないはずの右足が、弧を描く動きの中で何かを蹴った。

 ルージュの予測を、ほんの僅かに上回れる速度。

 そして狙うは顎。

 たとえ超常の力を誇ろうと、細い首で重たい脳を支えるヒトであるなら関係ない。脳を揺らし、ほんの数瞬でも動きを鈍らせたなら、あとは竜人がどうにかしてくれるだろう。

 今になってようやくルージュも悟った表情を覗かせる。一秒が間延びしていた。剣で俺を殺したとて、振り回された身体が即座に動きを止めるわけではない。後ろに退路はなく、横移動で避けようにも俺の右足は弧を描いている。下手に避け損なって顎先を掠める方が厄介だ。

 そして俺に考えられた程度のこと、ルージュが考えないはずもない。

 選ばれた答えは、だから望んだ答えだった。

 ルージュは剣を持たない左腕を盾とする。利害の一致だ。俺は足を失いたくないし、奴は不測の動きを嫌う。ゆえに俺が逃げに転じる剣での迎撃ではなく、そのまま足を振り抜くであろう防御の一手を打った。

 そこまでは正しい。

 予想通り、思惑通り、俺は正解を選んだ気になれた。

 そこまで、でしかなかった。

 間延びした一秒が過ぎ去り、俺の右足がルージュの左腕を強かに蹴りつける。それ自体は痛痒も生まないだろう。だが勢いを受け止めるためには、ルージュは足を止めるしかなかった。

 その背後に巨剣が叩き落される。

 それさえも陽動にするかのごとく、竜人は熱線を放とうとしていた。

 しかし、あぁ、ルージュはそこまでも読んでいたのだ。

 誘ったのだと、直後に察する。

 まさに好機と竜人に思わせる今の状況こそ、ルージュにとっての絶好機。

 残された片腕で剣を振り下ろし、熱線が通る角度に頭をもたげた竜人に何ができたか。俺という囮は、竜人にとってだけでなく、ルージュにとっても機能してしまった。

 ルージュが背後に回した右手、そこに握る剣の切っ先が竜人の額を確かに指し示す。

 二人の間を、光の槍が突き抜けた。

 熱線が放たれる。

 天に向かって。

 光の槍に額を撃ち抜かれた衝撃で、竜人の顔が天を仰いでいた。まだ絶命はすまい。ゆえに二度目の槍が、乳房にも胸筋にも見える左胸の膨らみを捉えた。

 果たして、あれで息絶えるか?

 見定めている余裕など俺にはなかった。我に返るや慌てて飛び退くも、当のルージュに追撃する素振りはない。

 それもそのはずだ。俺など囮でしかなかった。全ては竜人を、絶好の瞬間、絶好の位置に誘き出すための餌。ここで俺の隙を狙うより、竜人の一挙手一投足を見逃すまいとするのは当然だった。

 あぁ、くそ。

 そういうことか。

 当然すぎた、理性的すぎた。

 ゆえに、か。

 ルージュの、確かな膨らみのある左胸から、刃が突き出した。

「えっ……?」

 素っ頓狂な、まるで少女が零すかのごとき戸惑いの声。

 姿だけ見れば少女の残り香を漂わせる細身を、刃が斬り裂く。左胸から右腰へ。身体の外へと飛び出した刃が、容赦なく首を貫いた。頭部を狙わなかったのは、頭蓋骨の抵抗を嫌ったからか。

 その判断は恐らく正解だった。

 腹と同じく、首をも斬り裂こうとした刃は、なんと首を貫かれたままのルージュ自身の手に掴まれる。

「ぐぁ……ぁ」

 声は出ない。

 首は回らない。

 眼球だけが動くも、姿を見つけることはできなかっただろう。

 背後から首に剣を突き立てたエレカは、見られるはずのない口の端を歪めていた。

 血に濡れた剣が引き抜かれる。血に濡れようと刃は刃だ。引き抜けないほどに握り締めたら、その手が斬り落とされて終わる。

 ルージュの抵抗は、ほとんど無意味なものだった。

 そして剣が振り上げられる。

 ルージュは逃げようともしなかった。それほどの余力もないのか。

 ――否。

「チッ……!」

 舌打ちしたエレカが剣を引くや、切っ先を下げた。下段、先ほどとは逆に左脇腹から右へと抜ける軌道で剣を振り抜く。

 横薙ぎの斬撃は、ルージュを捉えたかに見えた。

 返り血がエレカを濡らす。

 しかしルージュの姿は、……そう、姿だけは、そこに健在だった。

「貴様までも……ッ」

 唸るエレカの顔が見える。返り血が消えていく。流れ落ちるのではない。ただ薄れ、消えゆく。

 ルージュの首が背後を向いた。

 首も、肩も、上半身、腰までも連動して動く。自然な振り向き方だった。

「やっぱり嫌いです、あなた」

 自然な声だった。

「全て計算尽くですか。私に勇者を守らせ、人喰い鬼に己の身を焼かせ、一つ間違えたら簡単に死んでしまう戦場に勇者を追いやり、あまつさえ囮にしてまで、狙っていたのは敵を討つこと」

 感情を滲ませない。

 ……滲ませまいとする、微かに震える声だった。

「あなたのような人、大嫌いです」

 そして笑った、ような気がした。

 エレカは何も答えず、ただ当然のように飛び退く。

 始まりと、反対だ。

 ルージュの全身が光に包まれ、風に吹かれた煙のごとく霧散した。

 戦場に、地響きが轟く。

 竜人の巨体が、今ようやく地面に崩れ落ちたのだ。巨体どころか、その再生の度に生えた無数の腕すら動く気配はない。遂に息絶えたか。脳と心臓を再生する魔力を、世界から与えてもらえずに。

「……勝ったわけじゃ」

「ないんだろうな」

 希望的観測を振り払うべく零した声を、疲れた声音のエレカが引き継ぐ。

「心臓を刺した時、違和感があった。神の持つ膨大な魔力のせいかと思って、気付くのが遅れた」

 ぽつり、ぽつりと、話しながらも間違いを探す声音。

「あの身体そのものが、魔力で練り上げられた紛い物だったんだろう。巧妙すぎて、本物に近すぎて、死の間際まで悟らせてくれなかった」

 グレイのそれとは似て非なるものなのだろう。

 口振りと表情が教えてくれた。一難去ってまた一難、なんて話じゃ済まないか。

「本体が……あれほどの人形を操る首魁が別にいると?」

「首魁とまでは思わないが、まぁ、あれを分身にできる程度の本体はあるらしいな」

 エレカが笑おうとして、失敗する。

 それは俺も同じだ。乾いた笑いすら湧いてはこない。

 犠牲を払いすぎた。

 最初から勝機などなかった戦いに、幾つもの命が散っていった。

 それでも無意味ではなかったと、必要な犠牲だったと笑えばいいのか?

「だが、追い詰めた」

 ぽつりと、言いながら確かめるかのようにエレカが呟く。

「逃げられた、の間違いじゃないのか?」

「逃げる? 一体どこに?」

 ハッ、と零された笑い声。

 嘲笑にも似たそれが呼び水となって、エレカの笑い声が響き渡る。

「奴は最初から引きこもっているだけだ。居城に身を潜め、何もかもを手下に任せ、自分は魔力の温存と集中に徹してきた。それが奴だ、オール・ルージュ・オールドーズだ」

 酷薄な、あるいは獰猛な笑み。

 視線を追いかければ、その先に横たわっていたのはグレイだった竜人である。

「知っていたな、あいつは」

「知り得たとは思えないが……?」

「だけど実際、ルージュに奥の手を切らせて追い込んだ。妖精王もいなくなった、逃げ場のない袋小路に。理性を失うことまで分かっていたから、誰が敵かを最後まで気にしていたんだろう」

 確かに竜は、竜人は、エレカが自ら敵と認めるまではルージュしか狙わなかった。

 しかし理性を失ってなお、どうして敵か否かを気にしていられたのか。全ては想像でしかなく、偶然の一言で片付いてしまう理屈だ。

 にもかかわらずエレカは、確信を表情に覗かせる。

「ほら、カレン。最後の役目だ」

 最後?

 まだ戦いは終わっていないだろうと、笑い飛ばそうとした時だった。

 深く深く、腹の底を揺さぶる咆哮が地を這うように辺りに響く。

 竜人が、力なく視線だけを空へと向けていた。絶命してはいなかったのだ。やはりと言うべきか、まさかと言うべきか。

「あいつに墓場を、眠るべき場所を教えてやってくれ。お前が……私たちが最後にできる、命を賭して戦った仲間への手向けだ」

「どうやって? 口元にでも出ていって、生き餌にでもなれと?」

 竜人にとって、俺たちは敵でしかない。

 命を賭して戦おうとした敵と、肩を並べて対峙してきたもう一つの敵。最後の裏切りを理解できるほどの理性を残しているとは思えない。

 肩を竦めて見やれば、エレカは呆れ混じりの笑みで見返す。

 久しぶりに見た、優しげな笑顔だった。

「思い出せ。お前は一度だって、あいつに敵とは名乗ってないんだ」

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