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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

僕はもう、君を拒めない

作者: たかせまこと

「ん……」


 髪を梳かれているような感覚。

 幼いころ、よく母がしてくれていたように。

 くせのない髪は手に馴染むと、かつてはよく言われていた。

 四十路を過ぎても量が減ることもなく、白いモノも目立たない性質のいい髪だと、今も理容師には言われる。


「ねえ、風邪ひきますよ?」


 耳元で低く囁かれる。

 ふと耳にかかる息がくすぐったくて、身じろぎをした。


「ううううう……」

「志方センセ? ねえ、風邪ひいちゃうから、起きてくださいよ」


 優しく肩をたたかれる。

 それから。

 持ち上げられた右手の指先が、ペロリとなめられた。


「わ! ……な、な、何して…」


 慌ててとび起きて手を引き戻そうとするも、自分の手を持っている相手は、にこにこと凶悪な笑顔のまま、びくともしない。

 見た目は、今時の若者。

 伸びやかな肢体と少し色を入れて整えられた髪型。

 物怖じしない態度で歳より上に見られることも多いけれど、年若い、同僚。

 そして、元々は教え子。


 一瞬、自分がどこにいて何をしているのかを、把握しきれなかった。


 職場だ。

 塾の講師室。

 ノートのチェックをして、テストの丸付けをして……いるうちに、転寝してしまったらしい。

 慌てて壁の時計を見上げたら、そろそろ終電を気にしなくてはいけない時間になっていた。


「そんなにびっくりしなくても、いいじゃないですか」

「びっくりするでしょ、急にそんなことされたら」

「そんなことって……ああ、指をなめたこと?」


 半分寝とぼけているからだろうか。

 笑顔を浮かべて再び自分の指先に口づけをする顔が、10年前とほとんど変わらないように見える。


「チョークが付いてるよ、やめなさい」

「じゃあ、左手」

「赤インクがついてるよ。どっちにしたって、人の手をいきなり口に含もうとするもんじゃないよ」

「志方センセ……俺、もう、生徒じゃないんですけど?」

「やってることは、生徒の時とあまり変わらないじゃないか」


 この相手――望月くん――は、中学生だったころから自分をからかっていた。

 高校入試が終わったら塾なんて来なくなるものなのに、くそまじめに通ってくるから勉強が好きなのかと思っていたら、そんなことはなく。

 ホントに、来るだけだったのだ。

 そして、黙って授業を受け、最後までだらだらと残って講師室にまで入り込もうとして他の講師に追い返される。

 そんな繰り返しだった。

 そこそこ自慢できる第一志望校に合格して、無事に卒業し、親が跳び上がって喜びそうな大学に入り。


『どうせなら実利と実益を兼ねていた方が、効率がいいんで』


 と、バイトの講師としてこの塾に戻ってきた。

 だけにとどまらず、ここに講師として就職までしてしまうのだから、とんでもないと思う。


 生徒の時は、態度はともかく成績は優秀だった。

 講師になった今でも、態度はともかく、成績は優秀だ。

 出身大学はブランドになるだけのところだし、見た目もいい。


「生徒の時は、こんなことしなかったでしょ」

「普通、誰にもさせません」


 握りしめた僕の右手に口をつけて、望月くんが笑う。


「普通なんてどうでもいいです。俺がしたいだけですから」

「ああ……そう。じゃ、右手だけでいいなら、今のところは思う存分どうぞ」

「もう、ホントに志方センセは屁理屈がうまいな。右手だけでいい訳ないじゃないですか」


 生徒も事務員も、他の講師たちも帰ってしまったらしい。

 他の部屋から何の音もしない。

 講師室に二人だけだってことに気が付いて、臍をかむ。


 気を付けていたのに。


 雑居ビルの二階。

 パーテーションで区切られた講義室と、事務室。

 それから長机が四台、田の字に置かれている講師室。


 自分の定位置は、講師室の一番奥。

 文系資料の本棚を背にしていて、一番動かなくて済むから。

 今はそれがあだになってる。

 右側に望月くんに立たれていては、定位置から抜け出すことすらかなわない。


「ねえ、志方センセ?」

「……何ですか?」


 とりあえず。

 視線は合わせないようにしよう。


 野生の動物は、目を見てはいけません、と。

 何処の山に行っても、注意されることは同じ。

 特に発情期には、目を合わせないように十分注意してください。

 相手が、どんな動物――熊でもイノシシでもサルでもシカでも――だとしても、とにかくそこには注意しましょう。


 だから多分、人間も本能に従っている時には、目を合わせない方がいい筈。


「何で、こっち見てくれないんですか?」

「え、危険そうだから?」

「なにそれ。しかも疑問形?」


 思わず出た本音に、くすっと微笑む気配。

 瞬間、理性が揺らぐ。

 望月くんの微笑む顔は、割と好きなのだ。

 何かをたくらんでいるような顔ではなくて、思わず、といった風情でこぼれる表情が。


 いや。

 いやいやいや。

 だからといって、今ここで右を向いたら、きっと今以上に困った事態に陥るから。


「見てくれなくても、向かせますけどね」


 ふふふ、と、こぼれる笑い声。

 何だと思った瞬間に、左肩が抱き込まれて、椅子ごと向きを変えられる。


「ちょっ……!」

「人の話は、ちゃんと目を見て聞きましょう、でしょ? 志方センセ?」

「人の嫌がることは止めましょう、でしょ? 望月先生」

「ホントに口が減らないなぁ……少し黙っててくださいよ」


 そのまま影が落ちてきて、唇で唇をふさがれる。

 捉えられた右手と抱き込まれた左肩。


 逃げる術なんてない。

 思いつかない。


 これが、怖かった。


「……んぅ!」


 息をつめる。

 目を閉じる。

 そして、閉じようとした唇は、瞬間反応が遅れて侵入を許してしまう。

 望月くんの舌が、口腔を蹂躙する。

 その思いも注ぎ込むように。


「ん……んん…」


 苦しい。

 苦しい。

 息ができない。


 ちゅ、とリップ音を立てて唇が離れる。

 やっと吸うことのできた空気を、必死に呑み込む。

 目を開けたら視界がぼやけていた。


「そんな必死に呼吸しなくても……いやでした?」

「…息が、できなかったんだよ」

「キスの途中で鼻で吸えばいいじゃないですか」

「そんな余裕なかったんだよ!」

「よかったんだ?」


 ちゅ。

 もう一度キス。

 今度は音だけ立ててすぐに離れる。


「いいとか悪いとか、そんな問題じゃないだろ」

「だって志方センセ、以前は教え子に手を出すのはモラルに反するからダメって、云ったじゃないですか」


 だから同僚になってから仕切り直しに来ました。

 と、悪びれもせずに望月くんが笑う。

 志方センセ、ガードが固くてなかなか口説かせてくれないんだもん、と。


 そう。

 彼はずっと自分をからかっていた。

 ずいぶんと年上の、しかも男の自分を好きだと。

 付き合って欲しいと。

 自分のものになって欲しいと、言い続けているのだから。

 からかう以外になんだっていうんだ。


「冗談もほどほどにした方がいいよ」

「冗談で男が口説けるほど、遊びなれてないですよ」


 真面目な表情をして、望月くんが僕の前に膝をつく。

 椅子に座った自分の胴体に両手を回す。


「冗談なんかじゃないんだよ……いい加減、信じてよ」


 信じてるよ。

 知ってるよ。

 冗談で人の心を弄べるような子じゃないってことくらい、もう、わかっているよ。


 だから、怖いんじゃないか。


 ほろり、と、滴が落ちた。

 我慢しきれなかった一粒は、続く滴の呼び水になる。


「志方センセ?」

「僕は、君ほど若くもなければ、思い切りもよくないんだよ」

「……でも、優しい。俺はあなたほど優しい人を、知らないよ」

「君が、そう思っているだけだ。買い被りだよ」

「いいよ、それでも。センセが俺だけに優しいってことだから」


 ぐいぐいと、回した手に力を入れて、望月くんが僕に抱き着く形になる。

 形のいい頭を見下ろしながら、目から落ちる滴が止まらない。


「ねえ、大好き。愛してるよ、志方センセ。だから、俺のものになって」


 こんなに熱くて真摯な思いを向けられて、断れると思ってるのか。

 自分の魅力をわかってないだろう、君。


 そう言ってやりたいのに、あふれるのは言葉ではなく涙だけ。

 15歳以上はある歳の差だとか。

 同性同士だとか。

 教育現場の職場恋愛になるのにとか。

 ためらう理由はたくさんあるのに。

 なのに。




 僕はもう、きみを拒めない。






<END>

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