鮫の女と、その父の陰謀。
グラスは彼女がダーリンと呼ぶ、この世界を統べる若き王の私室を出た。
夜の帳が降り、藍色に染まった空には月が輝く。
中庭に面した廊下に射し込む冷たい月の明かりが彼女の白磁の様な肌を青白く照らした。
「ダーリン…」
グラスは王の意識を変えつつある自身の存在に不安を感じ始めていた。
「わたし…貴方を変えて良かったのかしら…」
グラスは宙に視線を向け、何も無い空間を目で追い始める。
グラスの目にだけ見える「窓」を開く。
多くの彼女の問い掛けに答えを与えてきたそこに、今の彼女の問いに対する答えは記載されていなかった。
「ちょっと貴女!」
王の私室を背にして長い廊下を歩いてきたグラスの前に、亜麻色の髪を大きく巻いた、派手な成りの女が立っていた。
大きな胸を強調するような胸元を開けたドレスを身に纏い、気合いの入った出で立ちをしている。
この女は、食堂に行く前に中庭でグラスを責めた女達の中にも居た顔だ。
「どういうつもり?貴女、陛下をどうする気なの?」
着飾った女は口元を扇で覆って表情を隠し、グラスに尋ねる。
尋ねられたグラスは宙に浮く「窓」に目を向ける。
宙に浮く文字を追うように視線を動かし、コクリと頷いた後にグラスは女を指さした。
「分かったわ!あなたは鮫の女ね!」
「何なのよ!鮫の女って!!」
意味の分からない呼び方をされ、女がキイ!と言わんばかりに、高い声を上げる。
その女の肩に手が置かれ、背後から中年の男が姿を現した。
暗く長い廊下、鮫の女の背後は死角になっていて見えなかったが気配を窺えば数人居る気配がする。
「まぁまぁ、ステラ…お前は黙ってなさい。」「お父様!」
グラスは目の前に立つ鮫の女の背後に潜む者達と、鮫の女に父と呼ばれた男を警戒する。
父と呼ばれた男の目線がグラスの姿を舐るように、何度も上下に動く。
その厭らしい動きにグラスは眉根を寄せて不快感を顕にした。
「陛下はもう、お休みになったわ。邪魔しないであげて。」
「このわたくしに偉そうに!お前一体、何様なの!?…あの男っ…!このわたくしを見もしないで、こんな薄汚れた野良猫みたいな女を部屋に連れ込むなんて!」
ステラと呼ばれた鮫の女は自尊心が高いらしく、男に選ばれ当然だと自負していた自分が無視をされた事に憤り、紅の塗られた紅い唇をギリリと噛む。
「陛下は姿、形など気にしないわよ。」
「そのようだな。お前のような小娘に簡単に籠絡されてしまうとは、あの男の狭量さには笑うしかないわ。」
ステラの父の言葉に王が侮辱されている事を知り、グラスは腕を組んで顎を上げ、王の私室へと続く廊下に仁王立ちとなり立ち塞がる。
「うっさいわ。お前らこそ器がちっせぇ。何しに此処へ来た。陛下に近付くんじゃない。帰りやがれ。」
苛立ちをあらわに声音を低くしたグラスの肩が人の居なかった背後から不意に掴まれ、慌て振り返ったグラスの口が塞がれる。
「娘、我々の仲間になれ。お前ならば簡単にあの男の懐に入り込めるだろう。断る事は出来ん。これから、お前の身に起こる事を、あの魔王に知られたくなければな!!」
「んん…!」
グラスの四肢が複数の男達によって拘束され、口も塞がれたまま引き摺られる。
グラスは僅かに抵抗をしながら、そのまま男達に担ぎ上げられた。
「さあ、魔王に見付からない内に女を連れて移動するぞ。女の気配を辿られては面倒だ、女に気配を遮断する魔法を纏わせておけ。」
ステラと呼ばれた鮫の女が、担ぎ上げられたグラスを見てほくそ笑む。
「お前は後から男達の慰みものになるのよ。うふふ…いいザマだわ…。これでお前は、お父様の操り人形よ。」
手足、口を縛られたまま男の肩に担ぎ上げられたグラスが、目の前に「窓」を開く。
「…………」
━━うーん、慰みものとか、操り人形とか、会話の意味が分からんくて調べてみたけど……
そうか、そういう意味か…。ヤラシー事をする気なワケか。
それを弱味として脅して操る事を、そう言うのか。
この人達、ダーリンの魔法がわたしに効いてない事を知らないんだ…。
攻撃されない程、本当にダーリンを夢中にさせてると思ってるんだ…。
違うのになあ…━━
心で呟いた後に、グラスは別れ際の王の姿を思い出した。
夢中かどうかはともかく、全てに無関心だった王の意識を自分に向けさせてしまったかも知れない事を。
「早く城から出るぞ!女を運び出せ!」
━━ダーリンは遠乗りに出掛け城に帰るまでは、早く帰れだの、居なくなれだの言っていた。
わたしが居なくなった所で清々したと思うだけかも……
でも……部屋を出る時のダーリンは違っていた…。
わたしがダーリンを変えてしまった?
…わたしのせいで…
わたし達の居場所が変わってしまったら、どうしよう…!━━━
「大人しくなったな、抵抗しなければ優しくしてやる。」
グラスを担ぎ上げた男達は、城の裏に停められた荷馬車に乗り込む。
考える事に夢中で頭の中をぐるぐると思考を巡らせているグラスを乗せた馬車は、城から離れて行った。
「グラス!!」
私室を飛び出した私は、グラスの姿を探す。
私の手の指に絡まっていた彼女の黒髪が、蒸発するように消えてしまった時に、言い様の無い不安に襲われた。
半年持たないと言った彼女の言葉が、半年しか滞在出来ないと言う意味では無く。
言葉の通り、消えた髪の毛のように半年しか存在を保てないと言う意味では無いのかと。
否定して欲しい。
半年しか滞在出来ない等と言うのであれば、閉じ込めてでも、縛り付けてでも、私の元から放さない。逃がさない。
だが、消えた髪の毛のように消えてしまうのは……!
嫌だ、そんな事にはならないと否定してくれ!
「グラス!どこだ!どこに居る!」
私室から中庭に面した廊下を走る。
月明かりを頼りに、窓から身を乗り出し中庭も探す。
「グラーーース!!!!」
喉が焼き切れそうな程、大きく悲痛な声で彼女の名を呼ぶ。
まさか、もう……消えた?
そんな筈はない、残りはもう僅か半年…
だが、まだだ…まだ半年はあった!
だから今、居なくなる筈がない!!
頬を熱い物が伝う。
不安に胸が押し潰されそうで、どうして良いか分からない。
魔法を使って彼女の気配を探すが、人間ではないと言う彼女の気配は辿れない。
私は泣き崩れるように、その場に膝をついた。
「陛下…!どうしましたの!?お休みになられたと思いましたのに。」
「………鮫の女…。」
「ステラですわ、陛下…。」
鮫の女が私に近付き、床に膝をつく私に寄り添うように自身も膝をついた。
「廊下は身体が冷えてしまいますわ…お部屋にお連れ致します。お休みになって下さいまし。」
「……駄目だ、私はグラスを探さないと……」
「今夜はお休みになられて、明日明るくなりましたら探しましょう?お手伝い致しますわ。」
ステラは豊満な胸を私の腕に押し付け微笑み掛けた。