グラス。それは草の名前。
雑草女の腕を掴み食堂から出た私は、人が居ない廊下で女の背を壁に押し付けた。
「雑草、今すぐ私の物になれ。」
「……はぁ?」
我欲の思うままに発した私の言葉に、雑草女は不思議そうな顔をしている。
真っ直ぐ私を見詰め、嫌悪や侮蔑の表情をしない。
この女には今の私の態度でさえ、初めて見たモノと同じく興味の対象でしかない。
私が、どんな気持ちで言ったかなど…考えもしないのだろう!
「今まで物欲なんて無かった貴方が、初めて欲しいと思ってくれたのがわたしだなんて…ちょっと嬉しいわね。」
ちょっと…だと?
「お前は!私を恋人か夫になったかも知れないと言ったな!なのに……!」
「貴方がわたしを、好きではないからよ。」
私の言葉を遮るように雑草女が答えた。
「貴方は、知らない事が不快なだけ。わたしが欲しいのではない、わたしが何なのかを知りたいだけ。」
「だから何だ!気に入った女の全てを知りたいと思う事の、何がおかしい!」
壁に押し付けた雑草女に顔を近付ける。
顔を近付け怒鳴り散らす。
激昂し過ぎて呼吸が荒くなる。
ゼイゼイと吐く息が女の顔にかかり、女の黒髪が私の呼気に揺れる。
青く澄んだ美しい瞳で私を見詰める女は。
呼吸をしていなかった。
「今の貴方は、わたしが不死の身体でなかったとしたら…わたしが何者かを知る為に殺す事を選べる人よ。」
否定出来なかった。
女が呼吸をしていない事を知り、益々雑草女の正体が知りたい自分が居る。
女の正体が解るならば、死なせる事も躊躇わないであろう私。
だが、女が気付いてない私も…居る。
なぜ、私を好きではないのだと身勝手な思いを叩きつけたい私が。
「わたしは…人間ではないから、食物を体内に取り入れる事は出来ない。人間でないから傷つかないし死なない。…今、話せるのはこれだけよ。」
雑草女は、私の身体を抱き上げた。
「な!何をする!離せ!!こういうのは……!」
男が女にするものだろう?
「足元フラフラじゃないの。部屋まで運んであげるわよ。ふふっ、今度は逆になれたらいいわね。ちょっと憧れてるの。お姫様抱っこ。」
華奢な身体で自分より上背のある私を軽々抱き上げたまま、雑草女はスタスタと私の部屋に向かう。
私を抱き上げた女の身体は冷たかった。
激昂して熱くなった私の身体を鎮めるように、ただ冷たく、心地好く……冷たい泉に身体を浸しているような不思議な感触だった。
部屋に運ばれ、ベッドに下ろされる。
なぜか気恥ずかしい。
「ダーリン…わたしは…残して欲しいだけなのよ…わたし達は、貴方を尊敬している。でも…」
ベッドに寝かせた私と視線を合わせる為に、雑草女はベッドの脇に膝を付き、ベッドの上に腕を組んで顔を置く。
「……私を尊敬……しているのか……」
「そう、わたし達みんな、貴方を尊敬している。……でもね……実はね……わたしだけの貴方にならないかなぁって、思っちゃう時があるんだ~あはは!困ったぁ!」
雑草女は困り顔で笑った。
眉尻は下がって困っているのに、何だか笑ってしまうのだと。
この女は…私にどれ程多くの笑顔を見せたのだろう。
私にとって笑顔とは、幼い時の記憶では私に暴力を振るう者達の嘲笑。
魔王と呼ばれるようになってからは、媚びへつらう愛想笑い。
私にとって笑顔とは、決して良い印象のものではなかった。
この女と逢ってから、嘲笑と愛想笑いではない多くの笑顔を見せられた。
私も笑った。笑う事を、笑える事を知った。
困り顔で笑う女の黒髪に触れる。
指先に絡める。
髪を遊ぶ私の顔を見て、女が微笑む。
胸の奥が熱くなり、ギュッと握り潰されたように苦しく痛い。
目頭がジワッと熱くなる。
「……雑草……お前の名前を知りたい……」
女の正体など、今はどうでもいい。人間ではないと言った。
それでもう今は充分だ。
女の名を知りたい。
私が勝手に呼ぶ、雑草やフグリではなく、女の本当の名前を。
「呼びたいのだ…お前の名を……。頼む…。」
私の口から、私の声で、女の名を呼びたい。
「わたしの名前は、グラス。嘘でないわよ?」
「グラス…草か?また、変わった名前を付けられたな……」
「せっかく教えたのに、文句からなの?」
女は頬を膨らませ、怒ってますと表現する。
女の持つ、膨大であろうが拙い知識は色々とちぐはぐさを見せ面白く、私は困り顔で笑ってしまった。
「クックッ、すまん、雑草とさほど変わらないのだなと。」
女はベッドの上に顔を置いたままプイと横を向いた。
これも怒ってますの表現の一つなのだろう。
「…グラス。」
自分の声で呼んだ名を、自分の耳で聞く。
他の誰も呼んだ事の無い彼女の名を、私の声が最初に紡ぐ。
熱くなった目頭がボヤッと滲む。
グラスの頬に手の平を当て彼女を見詰める。
ヒヤリと冷たい彼女の頬を指先で撫で、唇に触れた。
「グラス…」
彼女の名前を知っただけで、私の知識欲は今、満たされている。
今は彼女の正体など、どうでもいい。
ただひたすら、グラスが欲しい。彼女の心が欲しい。
「グラス…」
食堂に行く前に、中庭で彼女がタンポポに口付けをしていた姿を思い出す。
あんな小さな花に嫉妬をしてしまう自分が居る。
ベッドから身体を起こした私はグラスの腕を掴みベッド脇から立ち上がらせ、彼女の身体を抱き寄せるとグラスの唇に私の唇をそっと押し付けた。
私の唇が濡れる。柔らかく弾力のある彼女の唇は、まるで朝露のようだった。
「……ダーリン…ふふっ、タンポポポに嫉妬したの?」
「ポが多い…タンポポだ…。」
彼女が何者でも構わない。
グラスが欲しい。好きかと尋ねられたら、私はまだ胸を張って好きだと言える自信はない。
私はまだ、好きが何かを知らない。
はっきり自覚出来るのは執着と独占欲、だが…彼女を傷付けたくはない。
そして、彼女に見放される事に恐怖を感じる。
「今日はもう休みなさい、ダーリン…。」
浅く何度か重ねられた唇を離し、グラスは私の額と自身の額を合わせる。
「まだ…グラスの姿を見ていたい…。」
「人は休まないと駄目なのよ…ちゃんと寝てちょうだい。」
グラスの身体が私から離れる。
私の身体に掛かっていた彼女の髪が、彼女の身体を追うようにスルスルと私から離れていくのを止めたくて手が延びる。
「また、明日ね?ダーリン。おやすみなさい。」
グラスは美しい笑顔を見せて、部屋を出て行った。
私の手に絡んで残った彼女の髪の毛が、蒸発するように消えて無くなる。
「ああっ…」
彼女の髪の毛の消えた自身の手を見て、情けない声をあげてしまう。
髪の毛さえ、残らないのか…?
彼女が私の元に居ない時間、彼女を想う為に…私の指先に絡まった彼女の美しい黒髪が欲しかった……。
不意に、ザワリと背筋を悪寒が走る。
何一つ残らない…。半年持たない……。
持たないのは、彼女の存在そのものなのか?