春の日【春の詩企画】
日記を文語で書いたのは出雲大社含めて2回目かな。
早、冬も過ぎて、少しばかり春めきつ。
例のあかねさす日なれど、
やや飴色のとけたるやうに思へり。
通い路の片に萌えたる花々の名こそ知らぬが
風ごとにさざめきあいたり。
朋友、弥の松を見て、
「松は季を分かぬ者なり。されど、見ゆらむ人の心は、それごとに変わるなんめり。」
と言いて、これを詠めり。
松の葉は
落ちぬはなれど
春されば
ややほころびる
心地こそすれ
「あな、面白し。」と言いて、我もなさむと思いて、
大粒の
蕾吸い込む
今朝の春
と書きし。今は忘れたるが、春のあしたのことなり
《現代語訳》
早くも冬は過ぎて、少しばかり春めいていた。
いつもの太陽の日であるけれど、いくらか飴色が溶けているように思った。
道路のそばに芽ぐんでいる花々で、名前も知らない花々が
風が吹くごとにざわざわしている。
友人の弥が松を見て、
「松は季節を区別しない者である。そうであるけれど、(松を)見るような人の心はそれごとに変わるようである。」
と言って、この和歌を詠んだ。
松の葉は
(一年中)落ちない葉だけれど
春になると
少し気持ちが打ち解けたような
心地がする
「ああ、趣深い。」と言って、私も作ろうと思って、
蕾が立春頃の朝の(新鮮な)空気を吸い込んで大きく膨らんでいるなあ
と書いた。今はもう(いつか)忘れたけれど、春の朝のことである。
《一解説》
今回は真面目な現代語訳だけです。いつもの口語訳は作るのちょっと、、、(長いと大変なんです)
でもいつも思うけど、古典の現代語訳は口語と離れている気がします。
この違いって、和訳文が普通の日本語と少しずれているのと同じような理由で生じたズレなんでしょうね。
さて、本題に入ります。今の日記と古典の日記文学の大きな違いは、書くタイミングだと思います。
今の日記は夜に1日を振り返って書くものが主流ですが、古典の日記文学は大人になって少し経って書くものがメインです。(茜は毎日日記をつけてはいません。ただするべきことをまとめたメモはありますが。)
最近、弥が茜のノリに合わせてくれます。
「情緒を解さないこの身にも虹の綺麗さはわかるのだなあ」
と虹を見たときにつぶやいたりしてくれます。
あらまほしきものは、心知れる友。
いい人です。
本作は「春の詩企画」参加作品です。
企画の概要については下記URLをご覧ください。みんな参加してね!盛りあげよう!
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1423845/blogkey/2230859/(志茂塚ゆり様活動報告)
遥彼方様の「ほころび、解ける春」企画にも参加しています。まさかのほころんでいない松の和歌だけど、大事なのメンタル、メンタル。(。-_-。)




