第9話 夏の流行りのアッパッパ
「ふわぁ~、よく寝た。……あれ? ここはどこでしたっけ?」
翌日の早朝。目を覚ました恵美子は、首筋から胸元へと伝い落ちる汗を手で拭い、長襦袢の襟元の乱れを整えた。もうすぐ九月だというのに、まだまだ蒸し暑い。
「……ああ、思い出しました。ここは彦馬さんの弁当屋でしたね。宿なしの私とウケモチノカミ様は、しばらくこの家の二階でご厄介になることになったのでした。……何だか外が騒がしいですね」
障子窓の外からは、賑やかな人々の声や車の音、たまに牛の鳴き声が聞こえてくる。たしかここは川べりの家だったはずだけれど、いったい何事だろう。恵美子は布団からよたよたと這い出て、障子窓をガラリと開けた。
強烈な朝日が部屋の中に差しこみ、恵美子は一瞬だけ顔をぐえっと歪めたが、外の景色を見ると「わぁ~! すごい!」と驚いた。
朝日に川面がキラキラと輝く京橋川を背景に、河岸ではたくさんの野菜や果物が売り買いされていた。とても賑やかな青物市場だ。貨物自動車と牛車が続々と市場に青物を運び込んでいる。市場の人々は売り手も買い手も生き生きとした笑顔だった。
「お~。今朝も賑わっていますねぇ、大根河岸の青物市場は。この光景は江戸時代の頃から全く変わっていません。まあ、あの時代には貨物自動車なんてありませんでしたがね」
いつからいたのか、望子が後ろにいて市場の様子を楽しげに見下ろしていた。
「東京は人口が多いから、市場もお祭りみたいに大賑わいなのですね。田舎の村ではこんな光景見たことがありません」
「あなた、名古屋の女学校の学生だったのでしょう? 名古屋も商業が栄えた都市なのに、こういう市場はなかったのですか?」
「たぶんあったのでしょうが、学生寮の寮長さんがとても厳しかったのでなかなか学校の外に出られなくて……」
「なるほど。お嬢様の学校だから、遊びや男の誘惑から学生を遠ざけようとしていたわけですか。面白くないですねぇ、神代の時代は男神も女神も自由気ままに愛を語り合っていたというのに」
「へぇ~、そうなのですか。では、ウケモチノカミ様も恋をたくさんしたのですか?」
「…………」
なぜか悲しげな笑みを浮かべて顔を反らす女神。どうやら聞いたらいけないことを聞いてしまったらしい。縁結びの神として祀られているのに、本人は恋愛経験がゼロなのだろうか。
「ええと……こほん。そろそろ身支度をして、朝ご飯にしましょうか。居候の身ですし、私が朝食を作りますね」
「あっ、だったら私も手伝いましょう。美馬が作る料理は具にニンジンしか入っていないので、私たちが作ったほうがいいでしょうから」
(具がニンジンだけの料理……。ここの弁当屋、経営は大丈夫なんやろか?)
いや、たぶん大丈夫じゃない。
* * *
朝食を食べた恵美子と望子は、竹川町のカフェーいなりで働くため、彦馬の店を出た。恵美子にとっては初出勤である。ちょっと……いや、かなり緊張していた。
「む、むむむ……。私、見知らぬ殿方にちゃんと接客できるでしょうか」
「……恵美子さん。いちおう言っておきますが、酔っ払いにお尻を触られても得意の『護身術』でぶっ飛ばしたりしたらダメですからね? それに、お客さんは男の人ばかりではありませんから、そんなに身構えなくてもいいですよ。銀座にたくさんあるカフェーにもお店によってそれぞれの客層というものがあって、カフェーいなりは若い女性やたまに親子連れも来店しますから。まあ、夜になったら女給目当てのスケベどもが来て、そいつらの扱いが面倒ですが」
「そ、そうなのですか……。あっ、ちなみに、ウケモチノカミ様みたいに貧相な体でも酔っ払いにお尻を触られることがあるのですか?」
「貧相言うなーっ‼ そう言うあなたは牛女じゃありませんか! 昨日は気づきませんでしたが、何ですかこの五穀豊穣なお胸様は‼」
望子は半ば発狂しながら恵美子の豊満な胸をわしづかみしようとした。護身術を身につけている恵美子はひらりとかわしたが、頬は紅潮して恥じらっているみたいである。
「や……やめてください。出産を経験した人妻でもないのにこんな大きな胸……恥ずかしいです。洋服だと胸の大きさがはっきりと分かってしまって困りますね……」
昨日、望子にアイスクリームをぶっかけられたせいで着物が汚れてしまった。東京で自殺するつもりで上京した恵美子は、たった一着しか服を持って来ていなかったため、
「私の洋服を一着貸してあげるよ。明日はこれを着てお店においで」
加奈子がそう言って木綿のワンピースを貸してくれたのである。白地の服にヒマワリの大輪が咲いているのが眩しく、ゆったりとしていて着心地も良くて素敵な洋服だった。この夏服の半袖ワンピースは、「アッパッパ(簡単服)」と呼ばれて、値段が安いことも手伝って今年の夏に流行していたのだ。
しかし、洋服は胸の大きさが強調されてしまって、胸の発育が良すぎる恵美子はすれ違う男性たちの視線が気になって仕方がなかった。
カフェーいなりを取り仕切っている姐御肌の加奈子だが、しっかりしているように見えて実はちょっと抜けているところがあり、恵美子に西洋の下着を貸すのをすっかり忘れていた。だから、乳房バンドで胸の形を整えることができず、恵美子は、
(着物の時にいつもやっているように、さらしを巻いて来ればよかった……)
と後悔していた。
ちなみに、もちろんズロースも履いていないのだが、そっちのほうはあまり気にしてはいない。
この頃はまだ西洋下着があまり浸透しておらず、着物がめくれても陰部を隠せないような頼りない腰巻を多くの女性が着用していたのである。だから、風が吹いてめくれないよう、自分で気をつけるしかないと思っていた。
この時代の女性は陰部を守ってくれるパンツのありがたみを、男性はパンチラの喜びをまだ知らなかったのだった。……まあ、着物がめくれたらパンチラどころではないんですけれどね。
「あなたと同じくらい胸が大きな子がお店に一人いるので、なるべくその子と一緒にいたらどうですか? そうしたら、スケベな客の視線が分散されるでしょうし」
「え? そんな子、昨日、お店にいましたか?」
「昨日はたまたまお休みだったからいませんでしたが、今日は早番で出勤しているはずですよ。……異国の娘というのは、なぜあんなにも発育がよいのでしょうか。まだ十五歳なのにスイカみたいな胸……くそっ! くそっ! どうせ私は貧相な体ですよぉ~!」
「え? 異国の娘? その子、外国人なのですか?」
「他の食物の女神たちは豊満な胸をしているのに、私はなぜこんなちんちくりなのですか? なぜ⁉ どうして⁉ ホワーイ⁉」
(あかんわ。ぜんぜん話を聞いとらへん……)
恵美子はすぐに発狂する望子に呆れつつ、異国の少女がどうして銀座で女給なんてやっているのだろう……と疑問に思うのであった。