第3話 カフェーいなり
それから約一時間後。
目を覚ますと、恵美子は見知らぬ店にいた。
「うっ……。知らない天井……」
「おや、気がついたかい?」
膝枕をしてくれていた洋装の美女が、優しそうな微笑を浮かべて恵美子を見下ろす。恵美子はテーブルを並べて作った簡易ベッドに寝かされていた。
「ほへ? ……わ、わ、わ。ご迷惑をおかけしましたっ」
恵美子は慌てて上半身を起こし、周囲をぐるりと見回す。
店内では、女給たちがひらひらと蝶が舞うように厨房と客席を行き来し、にこやかな笑顔で接客している。美女や美少女ぞろいで、着物に純白のエプロンという服装がとても眩しい。
「ええと……。ここはカフェーでしょうか?」
「そうだよ。銀座で一番の美人が経営しているお店、『カフェーいなり』さ。あんた、頭を打って気絶したんだってね。大丈夫かい? 気絶する前の記憶はある?」
「私は……私は……ハッ⁉ 泥棒がスリで祠がどんがらがっしゃーん! 不思議な女の子がげろげろげろぉ~!」
「……どうやら頭の打ちどころが悪かったみたいだね。モチちゃん、お医者さんを呼んで来ておくれ」
二十代後半と思われる洋装の美女が姐御口調でそう言うと、コーヒーとサンドウィッチをお客さんの席へ運んでいる最中だった女給が「はぁ~い♪」と返事した。
甘ったるく、精神的な幼さが感じられる声。(何だか聞き覚えがあるような……)と恵美子は思って、「モチちゃん」と呼ばれた少女を見た。
「げーっ! 自称神様の嘔吐少女‼」
店内の客たちが一斉にコーヒーをブーッと吹いた。洋装の美女と女給たちは目が点になって固まっている。
「ち……ちょっと、ちょっと。飲食店でそんな汚い言葉を叫んだらダメですよぉ~」
モチちゃんがわたわたと慌てながら恵美子に駆け寄る。そして、恵美子の耳元に口を寄せ、小声で囁いた。
「いいですか? 私が神様だということはみんなには秘密です。ここでの私は、ちょっと泣き虫だけれど明るくて健気な勤労少女、明智望子ちゃんなのです。ただの人間として働いているので、私の正体は絶対に言い触らさないでください。
……あと、私は嘔吐なんてしていません。人聞きの悪いことを言わないでください。ちゃーんとアイスクリームを口から出したのに、あなたが驚いて気絶しちゃうから……」
「え……?」
そういえば、着物や袴がべとべとと汚れているし、自分の体から何だか甘い匂いがぽわぁ~んと……。
「もしかして……私がぶっかけられたのは吐瀉物ではなくアイスクリーム?」
「ふふ~ん。どうですか。これが神の奇跡!」
「何が奇跡ですか! 女学校時代の思い出の着物と袴が台無しになっただけです! 責任取って下さい!」
「え、ええ~……。もっとこう、他の反応とかないのですか? あなた、神の御業を目の当たりにしたのですよ?」
「神の御業か奇跡か知りませんが、着物をアイスクリームでべとべとにされたら迷惑でしかありません」
「くっ……。文明開化した近頃の日本人はこれだから嫌なのですぅ。神の奇跡を前にして、反応が冷たすぎますぅ~」
恵美子と明智望子(自称ではなく本物の神様らしい)がごにょごにょと話していると、「モチちゃん、どうしたんだい?」と洋装の美女が聞いてきた。
「い、いえいえ、何でもありませんですぅ。加奈子さん、この子とちょっとお話をしましたが、別に頭がおかしくはなっていないみたいですよ? 目を覚ましたばかりで、ちょーっと記憶に混乱があるだけみたいでぇ~」
「あら、そうかい。それは良かった」
洋装の美女は、加奈子という名前らしい。恵美子のことを真剣に心配してくれていたのか、ホッとため息をついた。口調はちょっと乱暴だが、優しい人のようだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私、スリに財布を盗まれてしまいまして……」
「ああ、話はモチちゃんからだいたい聞いているよ。あんた、可愛らしい見た目をしてなかなかの豪傑なんだねぇ。屈強な男ども五人を相手に大立ち回りをしたんだって?」
「あ、あうう……。女の子なのに、お恥ずかしいかぎりです。もっとおしとやかにしなくちゃといつも思っているのですが……。父に幼少より護身術を教わっていた影響か、激怒すると拳と足が勝手に動いちゃって」
「あははは。今は、女が社会に出て職業婦人として活躍する世の中だよ? 男よりも仕事ができる女がいれば、男よりも腕っ節が強い女がいてもいいじゃないのさ。まあ、最後の最後に油断して小石につまずき、頭をぶつけて気絶しちゃったのは少しおマヌケさんだけれど……」
どうやら、望子はそんなふうに加奈子に説明したらしい。ちなみに、加奈子の話によると、気絶した恵美子をおぶって神社からすぐ近くのこの店まで運んでくれたのは、たまたまその場にいあわせた(という設定の)望子だという。
「そういえば、モチちゃんはどうしてあんな路地裏にいたんだい?」
「加奈子さん! とーってもありがたい神様が祀られている豊代磐神社がある場所を『あんな路地裏』とか言ったらいけませんよぉー! 神罰が下りますよぉー! というか下しますよ⁉」
「ああ。モチちゃんはいつもあそこの神社におにぎりをお供えしていたんだったね。休憩時間のたびに。でも、信仰深いのはいいことだけれどさぁ……。あそこの縁結びの神様にあやかってうちの店名も『カフェーいなり』にしてはいるけれど、あんまりご利益がないっていう噂だよ?」
「むきーっ! ありますぅー! まだ本気を出していないだけで、そのうちたくさんの参拝客があの狭い路地に押し寄せるようになりますから!」
望子がキャンキャン吠えていると(迫力ゼロ)、傍らにいた恵美子が「あっ……。大事なことを忘れていました! 私の財布はどこですか⁉ あの泥棒たちは⁉」と望子の首根っこをつかんでそう聞いた。
「ぐえっ、ぐ……ぐるじい……。さ、財布ですかぁ? ああ~。そういえば、私があなたをお店まで運んだ後、もう一度様子を見に行ったのですが、あの悪党たちの姿は消えていましたね。たぶん、私たちがいない間に目を覚まして、慌てて逃げて行ったのでしょう」
「じ、じゃあ、私の財布は……」
「たぶん、韋駄天の六太とかいう盗人の懐の中でしょうね」
「ええーっ⁉ そ、そんなぁ~!」
恵美子はがっくりとうなだれ、膝をついた。
「ぐすん……ぐすん……。漱石先生曰く、とかくに人の世は住みにくい! 世の中は糞! 糞! 糞や! 神も仏もあらへん。有り金を使って遊んだ後、命を絶とうと思とったのに……」
「いや、神様はここにいますよ? ここに」
「うわぁぁぁん‼ 神様のアホーっ‼ お腹空いたぁー‼ 金がなーい‼ 生きる希望もなーい‼ 私の旦那さんになってくれる人もおらへーん‼ 丙午生まれの何が悪いんやぁーーーっ‼」
恵美子はワンワンと泣き出した。カフェー店の客たちがギョッと驚くほどの大声で。両手で耳を塞いでいる女給も数人いる。
「お、落ち着きなって。金がなくて困っているのなら、うちで働いたらどうだい? あたしはこの店のオーナーの稲藤加奈子。あんたが望むのなら女給として雇ってあげるよ?」
加奈子が子供をあやすようにそう言ったが、恵美子は赤ん坊みたいにおいおいと泣き続けるのであった。
「何だぁ、ありゃ。姉さんめ、また面倒くさそうな奴を雇おうとしているのかよ……」
厨房から店内の様子を見ていた一人の強面の青年がそうブツブツ言っていたが、大号泣中の恵美子には彼の呟きなど聞こえるはずもなかった。