8.平穏は遠く
俺とフィリーは族長と呼ばれた女性に導かれ、樹の中に入る。
樹の中といっても、根本のウロに扉を付けただけのような場所である。広さは畳六畳分くらいはあるだろうか。広くはないが窮屈というわけでもない。
「ではフィリンシア、段取りは分かるな?」
「はい」
ウロの外側から、族長と呼ばれた女性に問いかけられ、フィリーは肯定の言葉を返す。
俺は、先ほどのことを思い出す。フィリーが襲撃された件だ。
「そういやフィリー、あのことは言わなくていいのか?」
「確かに……、そうですね。今伝えておきましょう」
フィリーはここに来る前に襲われ、魔力を使い果たし倒れてしまった。
その際のことを族長さんに報告すると言っていたのを俺は思い出したのである。その時であった、族長さんの後ろに、ゆらりと人影が現れた。
「こんにちはー。族長殿、いまいいですかぁ? 一つ報告があるんですけどー」
「む、なんだ?」
立ち去ろうとしていた族長が振り返り尋ねる。
気づくとそこにいたのは、族長と対象的に小柄なエルフだった。フィリーも長身とはいえないが、そのフィリーよりも頭一つ分は背が小さいのではないだろうか。
迷彩柄の貫頭衣を身に着け、目深に被った帽子の下に見える軽薄そうな笑みが特徴的だった。
「何者かが森に入り込んでいる可能性がありますねぇ。おそらく人間だと思います。結界にもいくつか綻びが見られますが、ここに報告は来ていますかぁ?」
「そんな報告は入ってきていないな。それは誠か?」
族長さんは険しい顔で、報告してきたエルフに向かい合う。
「私もさっきそれに襲われました。第三区画まで入り込まれています」
「む……、なるほど。シエルリーゼに連れてこられたのはそういう理由か……」
フィリーがそれを伝えると同時、長身の女性は目を細める。やはり報告は入ってきていないらしい。
「ってあれ、そちらにいるのは――」
族長に報告をした小柄なエルフは、こちらへと目を向ける。そしてこちらの存在を認識したのか、帽子を取るとパッと表情を変え声をかけてきた。
「あれ? もしやあなたはフィリンシアさんでは? お久しぶりですねぇ、お元気にしてますか?」
「はい、ありがとうございます。お久しぶりです、クルルクさん」
クルルクというのはこのエルフの名前だろう。一度名前を聞いたことがある気がする。その人物と話すフィリーの声色の変化はない、恐らくシエルリーゼ以外のエルフとはそれほど険悪というわけではないのだろう。
「挨拶はもういいか? まあクルルクの報告は恐らく正しいのだろう。第二から第四区画あたりの警戒を強めさせよう。契約が終わったらお前も手伝ってくれ」
「はい」
「おー、フィリンシアさんもようやく"運命"がみつかったのですね。おめでとうございます。お話したいのですが、ワタシにはやらなきゃならないことがあるんで、またお会いしましょう。ではでは」
短くフィリーが返事したのを確認し、クルルクと呼ばれたエルフもこちらに手を振り、来たときと同じようにフラフラとどこかへ歩いていってしまう。掴みどころのない人だな、と思った。
「では、閉めるぞ」
クルルクさんが行ったのを確認した後、族長さんによって扉は閉じられた。元々薄暗い場所ではあったが、部屋はさらに暗くなる。今では明かりと呼べるものは扉の上部にある小窓から入ってくるわずかな光だけとなった。
「さて……、では段取りを説明します」
その中で先に口を開いたのはフィリーだった。
既に地面には魔法陣が刻まれていて、俺はフィリーの対面へと配置される。フィリーのいる場所を時計の十二時とすると、俺はちょうど六時の場所にいる格好だ。そこで俺たちは再び向かい合う。
「この契約はエルフである私が主導します。受け手であるあなたは何もすることはありません。ただ、流れてくるであろう感覚を拒絶しないでください。少なくとも痛みや大きな不快感は伴わないはずです」
「ざっくりしてるな……、どんな感覚なんだ?」
「分かりません、何せそれは私の感覚の一部ですから。私自身のことは私にはあまりわからないです。と
はいえ、樹を経由する過程でかなり抽象化されるので、そこまで嫌悪感を受けるようなものではないと聞いたことはあります。というより嫌悪感を持たれたら結構悲しいです」
フィリーの思いをある程度知れる、ということだろうか。
この様子だとフィリーも詳しいことは知らないのだろう。多分、伝聞である程度知っているというところだろう。
「うーん、まあ分かった。じゃあいつでも始めてくれて構わない」
あまりピンとこない説明ではあったが、尻込みしていても仕方ない、内容は他のエルフにも伝わっているだろうし、そのエルフであるフィリーが大丈夫という以上それを信じる他ない。
「では、始めますね」
フィリーが魔法陣に手を当てると、魔法陣にふわりと紫色の光が灯る。
フィリーは何か呪文のようなものを唱え始める。どうも呪文には"ライン"とやらに対応していないようで、何を言っているの全く聞き取れない。
しばらくしていると魔法陣が輝き始め、呪文を唱えている時間に比例し、どんどん輝きを増していく。
そして室内にも関わらず、真昼かと思うほどに輝きを増す。薄暗かった室内は、真昼どころかストロボを焚いたのごとく白さに包まれている。だが、瞼が無い俺は目を閉じることが出来ない。明るすぎて周りが一切見えない。
だが、その白い世界の中に、ふわふわとしたシャボン玉のようなものが浮かび始める。
「(おお……)」
その珠はふわふわと俺の方へ近づいてきて、俺の中に吸い込まれていく。
それと同時、何かが俺の中に流れ込んでくるのを感じる。春の太陽のような暖かさ、梅雨のような延々に振り続ける雨、しんしんと降り続ける雪、ジリジリと焼け付くような太陽。そんなイメージが俺の中に入り込んでくる。
これが、抽象化されたフィリーの感覚、ということなのだろう。
一部であり、それがさらに抽象化されているというだけあって、詳細は全く分からない。ただ、全ての思いに不快感はなかった。天気という形で表されたフィリーの感情、その一つ一つに触れようとする。
「――……、――」
フィリーは呪文を唱え続けている。しばらく待っていると流れ込んでくる感情は薄くなってくるように思えた。
光は薄くなり、魔法陣の輝きは少しづつ失われているところであった。きっと儀式はもうすぐ終わる。そう考えた刹那だった。
(これは……?)
一つの黒い球体が近づいてくる。これもフィリーの感情なのだろうか。先程までのシャボン玉のような虹色の珠とは違ったが、その球体も俺に近づいてくる。
そしてそれは、俺に入ることなく目の前で弾けた。
その瞬間だった――
「(なんだ、これは……!?)」
流れ込んできたのは強烈な感情だった。
どす黒く、怨嗟が渦巻く衝動。見えたのは無数の真っ白な顔、顏、顏、顏、顏――。
そしてこちらに伸びてくる真っ白な腕。一瞬見えたその感情は、魔法陣の輝きが失われた瞬間、何事もなかったかのように見えなくなる。
だが、ほんの一瞬にも関わらず、その感情は、今の余韻をかき消すきするには十分であった。
「フィリー、今のは……?」
思わず声が出る。あんなものがフィリーの感情なのか? 信じることができず、俺はフィリーに尋ねる。
眼に入ったのは焦点が合わない眼で小さく震えるフィリーの姿だった。
「あ……え……? 最後のは……、なに……ですか?」
「フィリー……? 最後って、あの沢山の顔と手か!? フィリーにも見えたのか? あれはフィリーの感情じゃないのか?」
様子がおかしいフィリーに声をかける。
最後ということはフィリーもあれを見たのだろう。つまり、あれはフィリーの感情ではないのだろうか。
「あなたにも、見えたのですか……?」
俺のその言葉に、フィリーは揺れる瞳をこちらに向けてくる。
「ああ、最後だけ明らかに雰囲気が違った」
「あなたに見えたということは、あなたの感情ではないのですね……、私にも見えました……。あれは、なんなのでしょうか」
フィリーそう言って、ゆっくりと這うように俺の方へと近づいてきて、俺を抱き寄せる。
そして、ごろりと寝転がると、そのまま俺に話しかけてくる。
「あはは……腰が抜けちゃいました……。あなたは大丈夫ですか……? 例えば気分が悪いとか、めまいがするとか」
「いや、そういうのはないな……、逆に何もなさすぎて不安なくらいだ」
俺は変化を感じ取ろうとするが、やはり何かが変わったようには思えない。
「フィリー、契約は出来てるか? あんまり何かが変わった気がしないんだけど」
「えっと……先ほど言った通り強力な"ライン"を通すようなものなので、逆に言うとその程度のことなのです。あと今は感覚の共有はオフにしています。必要がない時はあえてオンにすることはないと思うので余計に何も感じないでしょうね」
"ライン"というのは俺とフィリーの意思疎通を可能にしていた魔法のことである。その魔法をかけられた時も、パチリという静電気のような感覚を感じた以外、特に何もなかった。
つまり、今回もさほど大差はないということだろう。
「うーん、"ライン"って魔法だろ? 魔法ってもっと派手なものだと思ってたんだけど、そうでもないんだな」
魔法という概念が存在する以上、こうやってフィリーと意思疎通を出来ているのもまた、魔法の力なのだろうとは理解できた。シエルリーゼの瞬間移動も魔法だろう。
とはいえ、手から火を出したり、何かを凍らせたりといった、見た目で分かるような魔法は存在しないのだろうかと疑問にも感じる。
「うーん、まあそう言うのもあります。私の魔法はなにか対象がないと見えませんので。その上"運命"もいませんでしたので大掛かりな魔法を使うのにも時間がかかりました。けれどあなたと契約した以上、これからはそれは解消されるので、もう少し派手な魔法も使えるとは思います」
「"運命"は魔法の補助の役割もあるんだっけ? 具体的に俺はなにかしないといけないのか?」
俺の問に、フィリーは小さく首を振る。
「いえ、特に何もしなくて大丈夫です。エルフは種族の特性として魔法を使うのが得意な割に、魔力を集める力が弱いのです。なので、"運命"に集めてもらった分を、契約で作った"ライン"を通して分けてもらうのです」
俺の前の座るフィリーは俺の問いにそのように解説してくれる。
「どうやって俺は魔力を集めればいいんだ?」
「魔力を蓄える器官は魂あり、空気中に魔力は常に存在します。つまり、生きているだけで魔力は勝手に集まります」
「ほう……」
つまりは俺は何もする必要がないということだ。楽ではあるがそうなるとますます契約したという実感がない。
そして質問のネタが尽きた。俺自信が全く知らない分野の話のため、分からないことが分からない、という状態なのである。
なんとか話題を作ろうと思案を巡らせる。その時に思い浮かんだ顔が、先ほどフィリーを運んでここまできた短髪の少女だった。
「ところで聞きそびれてたんだけど、さっきの……シエルリーゼだっけ。あれは誰なんだ?」
俺が尋ねるとフィリーの表情に影が落ちる。聞かないほうが良かったことだろうかとも思ったが、フィリーは答えてくれる。
「ああ……、シエルは私の友人です。私はそう思っています」
友人という割には向こうはフィリーに辛く当たっている気がする。
「"運命"となったあなたはもう無関係ではないですね……。知っておいて貰うのもいいかもしれません」
そうして俺にフィリーは口を開く。俺の目を見据え、ゆっくりとフィリーの過去を話し出す。
「シエルは友人だったんです。そしてもう一人、私たちには共通の友人がいました」
「いた……か」
過去形に、思わず口を出してしまう。その俺の言葉に、フィリーは一瞬俺から目をそらすが、再びこちらに視線を移し話を続ける。
こういう話で過去形なのは――。
「はい。死にました。シエルはその時別の場所にいました。私はその友人と行動を共にしていたのですが、助けることが出来ませんでした」
そう語るフィリーはただ無表情に、淡々と事実だけを語ろうとしているようだった。ただ、契約したからか、胸がチリチリと焼け付くような感覚になる。フィリーの感覚が僅かだが流れてきているのである。
「その後、私は様々な理由で、シエルを拒絶し続けてしまいました。シエルを信頼できなかったのです……。それがよくなかったと、今になって思います」
詳しく教えてくれ、とは言えなかった。フィリーにとっては辛い過去なのである。
むしろ、話を変えるためだけにそのような過去を聞きだしてしまった俺としても罪悪感が湧いてくる。
「結局、族長にお願いして中央――シエルから遠い場所での任務に就かせてもらいました。幸い私の魔法が役に立てられる場もありましたので」
「なるほどなぁ……」
そうして会話が終わる。次はどういったことを話そうか、この流れで何を言えばいいのか、俺が逡巡していると、口を開いたのはフィリーの方であった。
「ところで気になることがあるのですが、いいですか?」
「え? なんだ?」
不意に質問されて、俺はフィリーに視線を向ける。
「いえ、あなたの名前を教えてほしいなと。やはり"はにわ"ですか?」
「いや、違うな……。契約したし、名乗った方がいいんだよな」
フィリーは契約した時、名前を聞くといっていた。ならば確かに今がその時である。『あなた』と呼ばれ続けるのも味気ないし、何より『はにわ』などと呼ばれるのも嫌だ。
「俺の名前は――」
名乗ろうとした、その直後であった。周囲に轟音が鳴り響いたのである。
「がっ!? ――な、なんだ!?」
「わ、わかりません!!」
何かが近くで爆発し、地鳴りが響き、大樹が揺れる。それは断続的に続き、数十秒してやっと収まったのであった。
何かが起こった。
俺もフィリーも、即座にそれを直感した。