5.二日目の朝
「………………ん?」
不意に意識が戻ってきた。
まず眼に入ったのは空だった。空は白み、日が昇り始めている。一瞬自分がどうなっているのか分からなかったが、肌に感る風、背後から聞こえる息遣いに、自分が埴輪になり、フィリーというエルフの少女によって森の中央へと移送されていることを思い出す。
「ん、起きました?」
「あ、ああ。寝てたおかげでちょっとましになった」
乗り物酔いで意識を失う直前、視界の中の景色を見ると、気を失った時に右側に見えていた大樹は、今では左側に見えている。心なしか始めに見た時より距離も近づいてきているように感じた。
「結構走ったのか?」
空に見えていた二つの月はもう見えない。もしも地球と同じ自転周期だとすると、六時間は経過している。
「まだ樹を七周程度です。そろそろ四回目の休憩地点なのですが、体調は大丈夫です?」
「ああ、酔いは割とましになった」
「それはよかったです」
樹まではまだ直線距離で三キロメートルほどはありそうだが、それでもはじめ五キロメートルほどあったことをを思うと明らかに近づいている。
『まだ七周』と事もなげにフィリーは言っていたが、実際は百キロメートル単位で移動しているのではないだろうか。
「疲れないか?」
「ふふ、疲れますよ。ですからもうすぐ休憩です」
そうは言うが、声は弾んでいる。疲れの色も見えない。舗装されたアスファルトではなく、悪路や樹の上といった場所を走っているのにもかかわらず、速度を維持している。
エルフの身体能力と体力は、人間のそれを確実に、そしてはるかに超えているということを思い知らされ、決定的に種族が違うのだなと改めて感心する。
「休憩はあと何回くらいとる予定なんだ?」
「全部で十回です。ですから次の次で折り返しですね」
「思ったより早く着くんじゃないか? 俺の魂も問題なさそうだな」
冗談めかして明るい声でできるだけ明るく言うが、その後に続くフィリーの言葉は真剣なものだった。
「まあ、急いでますから。それだけ喋れているならしばらくは大丈夫とは思うのですが、喋りにくくなったり、なんとなく元気が出ないなって思ったら言ってください」
「それ、言ったらどうにかなるのか?」
「……頑張って走ります」
その声にはさっきまでの余裕は見えない。見えるのは、俺に対する気遣いであった。実際に俺が変調を訴えれば頑張って走ってくれるのだろうが、多分フィリーは既に最大限頑張っていて、もはやそうなったら手遅れなのではないのだろうかという不安がよぎる。
そんな事を考えていた折、フィリーが蔦を振り払う際に一瞬、俺の視界にフィリーの横顔が入った。
フィリーは、ただまっすぐに前を向いて走り続けていた。今はフィリーを信じるしかない。
と、思った直後にフィリーは走っていた樹から飛び降り、地面に降り立つ。
「さて、休憩です」
「ほんとうに間に合うのか? 俺、まだ死にたくないぜ?」
タイミングがタイミングなだけに、俺はついつい軽口を吐いてしまう。
「あなた、起きたら起きたで軽口ばかりですね……。私も不安ではあるのですが、多少は休憩を挟まないと私が走れなくなってしまうのです、少しだけでいいので時間をください」
「む……、いや、急がせるつもりはないんだ。すまん」
喋りながらでも呼吸を一切乱すことなく走り続けるフィリーだが、どこかに限界はあるのだろう。なにより、どんな理由にせよ走っているのは俺自身のためなのである。それを忘れてはならないと自分を戒める。
フィリーは川のほとりの広場で立ち止まり、身体を横たえた。
「では少しだけ眠ります、また……」
「わかっ……たぁ!?」
そういうや否や、フィリーは俺を抱き枕にして眠り始める。
突然のことに、存在しないはずの心臓が高鳴る。
幸い俺はフィリーの方と逆方向を向いていて、目の前三センチメートル先にはフィリーの顔、ということはないので多少は平静を装える。
「ふぃ、フィリー……?」
「すう……」
まだ十秒も経っていないが、もう眠ってしまっているらしい。規則正しい息遣いが聞こえる。
俺としてはどうすることもできないので、フィリーに抱きつかれ続けることしかできない。
「景色を見よう、そうしよう……」
顔はフィリーと逆の方を向いているので、周囲の景色をある程度見渡すことが出来た。
見渡す限りの大草原というわけではないが、そこそこの広さを持つ、丈の短い草が生えた草原のようだ。近くにはものすごく透明な水が流れる小川が流れているのも見える。
そんな風に周囲を観察していると、俺を抱くフィリーの腕の力が強くなった。
「リア……、ごめん……なさい……」
「フィリー?」
聞こえてくるのは贖罪の言葉。
それの言葉の主はフィリーである。何事かと思って聞き返すが、どうやら寝言らしい。どうやら悪い夢を見ているようで、身体は小さく震えている。俺はいったいどうすればいいのかわからない。
「大丈夫か?」
「…………」
とりあえず尋ねてみる。俺の問いかけには返事こそなかったが、しばらくするとフィリーの震えは止まり、再び規則正しく小さな寝息を立て始める。
それ以降は特に何かが起こるわけでもなく、景色を見るしかすることのない俺は、三十分ほどぼーっとしていた。
「ん……、んー!」
フィリーが目を覚まし、俺を持ったまま立ち上がりぐっと伸びをする。一緒に俺も持ち上げられ、天頂に向かって高々と掲げられている状態である。
「お、おお!? もういいのか?」
フィリーの突然の覚醒に驚いていると、フィリーが再び俺を胸のあたりで抱きかかえ、頭の上から話しかけてくる。
「ふあ……。おはようございます」
「もういいのか……?」
俺が再び尋ねると、フィリーはいつもの調子で返事をする。
「え? あ、はい、もう大丈夫です。急ぎましょう」
そして何事もなかったかのように、フィリーは再び走り始めた。
いったいどんな夢を見ていたのか気になったが、フィリーに変わった様子はない。それにうなされていたし、もしかしたらあまり聞くべきではない事かもしれないと考え、フィリーに別の質問をする。
「休憩はあと六回って言ってたっけ? そんなに遠く見えないんだけどなぁ」
流石にこの状況にも慣れて酔わなくなってきたので、俺はなんとなくフィリーに話しかける。
「見た目の上ではそうなのですが、夜にも言ったとおり樹の周りを囲むように、迷路のように結界が張り巡らされているのです。移動するための魔法を使えたらいいのですが、私はそういう魔法はからっきしで……」
言葉の最後は尻すぼみになっていた。このまま黙っていると俺まで申し訳なくなってくるので、俺はさらに質問を重ねる。
「近道とかはないのか? 毎回毎回こんなに走るとなると、他のエルフも不便だろ」
「なくはないですが、私の権限では近道を開けません。それに他のエルフはもっと樹に近いところに住んでいますからあまり関係ないですね」
「権限とかあるのか。ていうかじゃあフィリーももっと樹の近くに住めばいいんじゃないか?」
もしかしてイジメにでもあっているのか? などと考えるが、フィリーは特に言い淀んだりすることなく、俺に説明を続けてくれる。
「そうしたい気持ちもあるのですが、私はあそこでやらないといけないことがありまして」
「"運命"探し?」
「うーん……、それもあるのですが……」
"運命"とは、エルフにとって大切なパートナーと昨日聞いた。それを探していたのかと俺は口を出す。
それに対してフィリーは言葉に詰まる、どうやら少し違うらしい。
「一言で言うと『任務』のため、ですね。私も一応自警団員には所属しているので、侵入者がいないか見張りをしているのです。あとはこの結界の維持にも多少関わっていて、そのためにあそこに住んでいます」
確かに見張りならば外側に近いところにいなければ出来ない。毎日丸一日かけて持ち場に行くわけにはいかないだろう。
「じゃあしょうがないな。ちなみにその『結界を開く権限』っていうのは誰が持ってるんだ?」
「族長様ですね。とはいえ、結界を開くのはリスクがあるので、本当の緊急時しか開かれません」
「なるほど」
確かにそういう近道が誰にでも開けたら、それはそれでセキュリティ上問題があるなと考える。
俺自身、フィリーにとっては俺は”運命”候補なのかもしれないが、他のエルフにとってはよくわからない土人形なのである。
「それ以外に結界に切れ目が生まれる可能性ですと、何らかの要因で結界自体に綻びが生まれている時ですね。まあそんなものそうそう都合よくあるはずがありません。私や他のエルフが守っているはずですので」
「大切な結界がそう簡単にほころんだら困るしな……」
そういうことなら仕方ないだろう。どうしようもないことに期待しても仕方ない。
「まあそうなのです――あれ?」
不意にフィリーは立ち止まり、振り返る。そして、元来た道をゆっくりと戻りだした。
「どうした?」
俺が尋ねると、十数メートル戻ったところで立ち止まる。立ち止まった場所は何の変哲もない草むらの中。そこでフィリーは右手を翳して言う。
「ここに結界の綻びがありますね。結界が破れてます」
「ええ……、大丈夫なのかそれ」
今までの会話から、結界の管理状況というものが心配になって尋ねる。
「いや……まあ……、たまにあることなのです。結界の外にはそれを維持するための要石が配置されているのですが、普通の岩などに擬態させているので、付近の村に暮らす人が森に入ったときに偶然ずらしてしまうことがありまして」
「ずらしたぐらいで簡単に破れるのか……」
「ええ。ですが結界は一つ二つ綻びができた程度なら大丈夫な作りになっているので、長期間でなければ大丈夫です。先程の綻びも、エルフじゃなければ見つけられないくらいの隙間です」
「そうなのか? で、どうするんだ?」
俺の問に、しばらく何かを考えると、フィリーはゆっくりと歩を進める。
「通らせてもらいましょう。これで休憩一回分の距離は省けます」
そういってフィリーはさらに数歩、歩みを進める。五歩ほど進んだ時、弱い静電気が飛んだときのような、パチパチとした感覚があったが、それが結界の綻びを抜けたということなのだろう。
「ちなみに結界が綻んでも大丈夫って、どういうことだ?」
さっきフィリーが言っていたことを尋ねてみる。
「えっと、結界の要石の数は三十二個で、それぞれの要石が独立して結界を作成・維持して巨大な迷路を作っています。ですから一つ二つ綻びができる程度なら、今のように多少抜け道ができるくらいで、迷路全体の順路を知らなければ大した影響はありません」
「迷路なのか。結構迷いなく走ってるから一本道なのかと思ってた」
「はい。私たちエルフにしか分からない目印のようなものがあるのです。万が一、大半の要石が機能を失うなんてことになれば大ごとですが、まずあることではないですね」
実際に滅多にあることではないのだろう。だが、俺は経験から知っている。大体起きてほしくないなと思ったことは起こるのである。
「それ、フラグじゃねーか……?」
「ふらぐ……とは?」
「別の言葉で言うとマーフィーの法則ってやつだな」
「んん……?」
フィリーは疑問符を俺に返してくる。なんとなくそんな気はしていたが、どうやら何でもかんでも言葉が通じるというわけではないらしい。
それはさておき死亡フラグは立てまくれば逆に折れるという話もある。何も言わないよりも意味があると思いたい。
一抹の不安を抱えた俺を胸に抱きつつ、フィリーは再び走り出したのだった。