現代:日常変奏曲の悲劇
ピアノコンクール出場者名簿を見ながら思う。
この事件の始まりは一体どこなのか?
私が最初に目を止めたのは、斎藤寿々(すず)菜の事件だ。
彼女は駅のホームから突き落とされた。監視カメラにその時の映像が残っていた。
犯人は姿を隠すために男性ものの洋服に身を包み、帽子やサングラスで変装していたが、あれは女だ。動作でわかる。
なぜ警察しか見れないような監視カメラの映像を見ることができたかといえば、斎藤寿々菜が死ななかったからだ。
彼女がホームから落ちてすぐ、周りの人たちが彼女をホームに引き上げ、最悪の結果にならずに済んだのだ。
白昼堂々の犯行と、奇跡の連携プレイとして報道され、その名前が頭に引っかかったのだ。
どこかで見たことのある名前だと。
音楽雑誌のライターということで、和洋入り混じった様々な名前を目にする。
だが、名前を覚えるのが得意というわけではない。名前よりも、「あの作曲者」、「あの演奏者」という会話も珍しくない。
しかも最近はキラキラネームだとか、読めない名前が多すぎる。加えて性別不明な名前も多い。
「斎藤寿々菜」という名前は、これで「すずな」と読むのか。めでたい名前だと思った記憶が先行して甦ってきたので、確かにどこかで見たはずだ。しかも仕事で。
気になって、夕食の途中だったが、バッグから手帳を取り出してパラパラとめくった。
周りから、「いまどき紙のメモ帳なんて珍しい」と言われる。
そう口にする人たちはたいてい、タブレット端末にスケジュールなどを入力して、ネットワークを介し、パソコンと情報共有を行っている。
確かにタブレットは便利だと思うが、思考に適しているのは紙の上だと、紙の手帳を愛用している。
最近では、こういったアナログ日用品も趣味の領域になってしまい、製造中止や値段の高騰が目立つ。
値段の高騰は、「こだわりを持つ人間は金も持っている」という文具メーカー側の戦略もあるような気がする。
例にもれず、気に入った手帳は五年以上同じタイプのものを使い続けているし、製造中止が怖いので、ストック買いも日常化してしまっている。
「あった」
去年の学生ピアノコンクールの本選出場者一覧の走り書きのところにいた。
「斎」の文字が難しいほうか簡単なほうか、些細なことなのだが、この間違いは人名に関わるうえで案外重要な問題なのだ。
走り書きで、過去の自分が丁寧に「難しいほう」と注意書きを加えている。記憶に残っていたのはたぶん、名字のおかげでもある。
そして、犯行の様子をとらえた映像を思い出す。
男性を装った犯人は、手で寿々菜をホームに突き落としたのではなく、肩から肘、まさに体当たり、タックル状態で彼女を突き落とした。
指紋を残さないため?
いや、事故と見せかけるためか。通勤ラッシュでたまにタックルをかまされ、イラッとして振り向いた時に、あんなポーズをしている人を見かける時がある。事故を装ったのか?
だとしたら、これに端を発した日学ピアノコンクール出場者が遭遇した事故も、そう装った犯行ということになる。
場所は人ごみだったり、人通りの少ないところで行われている。
やっぱり、道で突き飛ばされたとか、歩道橋の階段から落ちそうになったとか。
とりあえず、音楽雑誌記者という職権を乱用して足の届く範囲で地道に聞き込みをした。
自分が把握しているのは三人。
六月、初夏に起きたのが斎藤寿々菜の事件、それから八月後半、地区予選が始まる直前に二件。
日学ピアノコンクールは出場者が多い。
まず、各県、もしくは地方で行われる予選があり、次に本選。それを突破することが全国大会への出場条件となる。
高校部門となれば、音楽科のある高校が都内に集中しているためだろう、都内在住の出場者数は跳ね上がる。
母数が多い分、そう言った不幸――偶然に見舞われる可能性も高くなる。
――本当にそうだろうか?
数千人の中の三人。これだけでは誰だって「偶然」で済ませるだろう。
だが、寿々菜の例をとると、彼女は小学生から全国規模のピアノコンクールに出場し、数回、海外のピアノコンクールにも出場している。
学生コンクールの取材を多く担当している同僚に聞いたところ、彼女はファイナリストとして有名で、他のファイナリストからはっきり「斎藤さんを越えられれば入賞は狙える」という言葉を聞いているそうだ。
同僚は「記事には書けないけど」というついでに教えてくれた。
他社のライターのところに寿々菜の件で警察が来たと。
どうやら、監視カメラの映像から警察側が事故ではなく、事件と判断したのか。家族のほうが傷害事件としたのか、どちらなのかはわからない。
ただ、斎藤寿々菜はコンクールを辞退した。
手を負傷したわけではない。脚の怪我も大したものではなかった。
精神的にやられてしまったらしい。
彼女は音大付属高校の音楽科に通っていて、放課後、大学の教員のレッスンを受けるための移動中、ホームから落ちたという。
いつも利用する駅のホームが恐怖の現場になってしまった。
――通学が怖い。
日常はたった一度のアクシデントで簡単に崩れ去り、恐怖に変わる。
平穏だったのは、テレビで見る不幸が「自分じゃなかった」から。
九十九パーセントの日常から一パーセント、いや、それ以下の確立の非日常を引き当ててしまっただけなのだ。
ただし、それは事故だった場合に限る。
事件だとしたら、「また狙われるかもしれない」という恐怖は持続する。
たぶん、犯人が捕まったとしても、ホームに落ちた時の恐怖が簡単に消えないだろう。
又聞きの情報だが、ピアノを弾くどころの話ではないらしい。
高校にも通えず、家にこもっていてもピアノを弾くわけでもない。
ただ、心を落ち着かせるため、日常を取り戻すために精神系の病院に通う日々が続いているそうだ。
ホームから落ちた時、命は助かっても、ピアニストとしての彼女は重症を負ってしまったのだ。
週刊誌はこの不幸に飛びついた。
白昼堂々の惨劇。被害者はプロを目指していたピアニストの卵。
その記事を、歯を食いしばりながら読んだ。
すぐに復帰できなくても、いつかまたピアノを弾き始めるかもしれない。練習を再開するかもしれない。
なのに、彼女は「被害者」として有名になってしまった。
全国ニュースで報道され、今度は全国誌に掲載され、寿々菜が復活した際、この週刊誌の記者は、出版社はもう一度彼女を追いかけるだろう。
そして、今の不幸を美談として語るのだ。
復活して欲しいと思う。諦めずに、もう一度立ち上がってほしいと思う。
だが、こんなふうに「怨恨説」など書かれて、彼女はまたピアノに、音楽に正面から向き合うことができるのだろうか?
弾き続ける限り、誰かに恨まれる。またホームに突き落とされるかもしれない。今度は死ぬかもしれない。
プロとは――プロになりたいのならばそれを乗り越えなければならない。それくらいの覚悟が必要だと語る人もいるだろう。自分もそう思う。
せっかく与えられた才能なのだから。
寿々菜が中学生の時の演奏を聞かせてもらった。
中学三年生の時の日学ピアノコンクール全国大会課題曲。
ショパンの「華麗なる変奏曲」変ロ長調十二番。
ショパンはその生涯において、ピアノの曲しか書かなかった。
彼の死後、型を取られた手は「ピアニストは手が大きい」という常識を覆すくらい小さく、華奢なものだった。
なぜピアノだったのだろうかと思う。
ショパンが生きた時代には様々な楽器がすでに存在していたのに、なぜピアノにこだわったのだろうか?
変奏曲で有名なものといえば、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」が上げられるだろう。こちらは、チェンバロのために書かれた曲だが、今はピアノ曲として広まっている。
変奏曲というのは、主題となるメロディーを様々に変化させ、それを一つの曲としてまとめたものである。テレビで流れる流行の曲でも変奏ベースなものは多い。ただ、そうと知らない人が多いだけだ。
ショパンの曲の売りは幻想的であるところ。変奏曲ではそれを発揮できないと思ったのか、十代の時点で、変奏曲の作曲を投げ出したのだという。
「華麗なる」という名前の通り、とても華やかな曲だ。幻想的かどうかはさておき、ショパンらしい曲だ。
斎藤寿々菜の演奏もそうだ。
華やかさの中に幼さやあどけなさといった感情が見え隠れしている。
コンクールということで正確に弾くことに傾倒しすぎて、自由度や伸びやかさに欠けるように感じられるが、力強さもある。
途中で挫折した自分が言うのはなんだが、ピアニストとしての伸びしろは感じられる。
演奏が終わり、ヘッドホンを外して余韻に浸っていると、次第に犯人に対する怒りが込み上げてくる。
才能は育てるものだ。黙っていて成長するものではない。
ここまで弾きこなせるようになるまで、たくさんの努力を積み重ねてきたのだろう。
子供の場合、それは一人では無理だ。
まず、ピアノを買って、演奏できる環境があって、教えてくれる先生がいて、そこからスタートする。
どこまで到達できるかは教えてくれる人よりも、本人の頑張り次第になる。
努力の方向を見失わなければ、ある程度、行けるところまで行ける。
あとは、才能や運といった神の采配に任せるしかない。
斎藤寿々菜を襲った犯人と、他の二人を襲った犯人が同じだとしたら、「三人とも同じピアノコンクールにエントリーしていた」という偶然だろうか?
こうして、他の都内在住の出場者名簿を見ている時点で、自分の中で明確な回答は出ている。
日学ピアノコンクールを妨害したいのならば、脅迫文を主催側に送り付ければいい。
だが、犯人はそれをせず、学生向けのコンクール出場者として有名な人物ばかりを襲っている。
まだ予測でしかないが、犯人の狙いが透けて見えてくる。