過去:百合の香りがする
「でもさ」
一生がスマホを操作しながら言う。
「誰もいなかったんだよね? 音楽室」
「うん」
あの時、音楽室の中に入ろうとしてためらいが生じた。
会ってどうするのか?
急に会うのが恥ずかしくなったのだ。
突然会って、知らない人から話しかけられるなんて、相手も驚くだろうし、迷惑だろうと気後れしたのだ。
スマホにダウンロードしていつも聞いている曲の演奏者に向かって「上手いですね」って言うようなものだ。芸人でないにしたって芸がなさすぎる。
手に力をこめさせたのは好奇心だ。
純粋な「誰?」という気持ちが戸を少しだけ動かした。
音楽室の扉は重くて、比例するかのように重くて低い音を立てて開いた。
校内案内の時に先生が言っていた。特別教室には普段鍵がかかっているから、授業で使う場合は、教科係が鍵を職員室に借りに行くこと。
本来鍵がかかっているはずの教室の戸が開いたということは、誰かがこの教室を使っていたということ。そして、鍵がかけられていないということは、まだ誰かが残っている。まだ使う用事があるということ。
一歩、二歩と、音楽室内に敷かれた絨毯を踏む。
足音は絨毯に吸収される。
室内を見渡すが、誰もいない。
「吹奏楽部の誰かで、練習に戻ったとか」
スマホをポケットに戻しながら一生が言う。
「考えられなくはないけど」
「じゃあ、ピアノの中に隠れてたとか?」
「それは無理。絶対ありえない」
「なんで?」
「あの中に人が入ったら弦がめちゃくちゃになるし、人が隠れられるようなスペースはないよ」
「蓋が開いてると広く見えるのに」
あの中に人が入るなんて、ピアノを海に落とすようなものだ。使い物にならなくなる。
古い映画でそういうシーンがあったけれども。小説でも似たようなものを読んだ気がする。
「部屋の鍵は開いてたから、帰ったわけではないと思うんだけど」
「荷物とかはなかったの? バッグとか」
そういえば、整列された机の上にも、ピアノの足元にもバッグの類はなかった。
「……トイレ休憩の線は消えたかも」
貴重品が入っていたのなら話は別だけれども、トイレで用を足すために荷物をすべて持っていくのは少し違和感がある。
その場合、一生がさっき言った「吹奏楽部の誰か」の可能性が濃厚になる。
荷物は練習用の教室か、第二音楽室に置いてて、ピアノを弾いていた。
「君さ、肝心な部分見落としてるよね? その話聞いてから自分、すぐに思いついたけど」
「え?」
「第一音楽室も第二音楽室も、入ってすぐ隣に備品置き場っていうの? 小さい部屋あるよね」
「ああ、」
それは入って右手にある。
音楽室の扉と同じ色、同じく引き戸で区切られた小さな部屋だ。
たぶん、四階の第二音楽室に入りきらない楽器を置いているんだと思う。
様々な楽器の黒いハードケースなどが並んでいた。
「そこはチェックしたの?」
「してない」
「ザルだなあ」
「ザルって、……そこまで気が回らなかったというか、会う勇気がなかったっていうか」
気まずさに、ポケットに手を入れてスマホに触れる。
「そんなに知りたいならさ、淑子先生に聞けば一発だよ」
淑子先生というのは、音楽の先生だ。
この高校の芸術科目は選択で、音楽、美術、書道の三科目の中から一科目選ぶことになっている。
芸術科目は一年生だけで、二、三年生になればなくなる。
吹奏楽部の顧問でもある淑子ちゃん――佐藤淑子が基本的に第一、第二音楽室の鍵の管理をしている。
一生が言いたいのはこういうことだ。
その日、誰が第一音楽室の鍵を借りたのか聞けば、ピアノを弾いていた人が誰かすぐにわかる。
「わかるけどさ」
駐輪所に向かう足が止まる。
知ってどうしたいんだろう? 会いに行く? もう一度弾いてほしいって言う? もっと他の曲が聞きたいってリクエストする?
一生が大げさなため息をついて言う。
「はー、百合の香りがするね!」
「そんなんじゃない!」
ヒットエンドラン、すぐさま反論する。
そんなんじゃない、そういうわけじゃない、たぶん……。
この高校は女子高だから、もし、この気持ちが一生が言うようなことなら、そういうことになってしまう。
今までだって、まわりに女子はいたのに、たった一度ピアノの音色を聴いただけで、その相手を好きになるなんてありえない、と思う。
はっきりしているのは、あの音色に一目と言わず、聞き惚れたということだ。
飯塚君花、十六歳の春。