第一話
目が醒めるとそこは暗闇だった。仰向けに寝転がっていた一人の男は暫くそのままぼうっとしていた。
内からか外からか、それとも両方なのか、少しずつではあるが思考力を取り戻しつつある頭の中がまるでハンマーにでも打たれているかのようにガンガンと響き、そして痛んだ。
次に暗闇に慣れてきた目も脳に異常を訴えかけていた。
どうにも焦点が合わないのだ。
頭、目ときて今度は鼻だった。今まで脳がまともに働いてなかったために気付かなかったのか、鼻を通り抜けた鉄錆のどこか生臭い猛烈な悪臭は吐き気を催した。
実際に吐いてみると、幾分か気が楽になった。
そして今思えば、それが良くなかった。そのまま、気持ちの悪いままぐったりと倒れていれば良かったのだ。
先程まで霞みがかっていた視界は今ではすっきりしており、さらには夜目も効いて良く見えた。異常に気付くことにそう時間はかからなかった。
見知らぬ男性が血を吐いて倒れていたのだ。
彼は驚きを隠せなかった。無理もない。彼にとって死体など初めて見るものだったからだ。そして状況も状況だったが、初めて見る死体に恐怖を感じたのは言うまでもないだろう。度を過ぎた恐怖は彼の頭を真っ白にしてしまった。けれど、遠くから聞こえた赤い回転灯を取り付けたパンダのような車を想起させるサイレンが彼の身体を突き動かす。
何故か土足だった彼はそのまま屋外へ出て、行く宛もなく、ただサイレンから逃げるように駆け出したのだった。
可能な限り人と出会いたくなかった彼の足はは自然に住宅街を離れて河川敷へとその身を運んでいた。
夕日が河にキラキラと乱反射し、遠くに架かる橋がなんとも言えない味を出している綺麗な絵のような風景が日常の中を歩いているという感覚を与えているのだろうか、彼は落ち着きを取り戻しつつあった。
彼は自分が目的もなく歩いていることに今更ながら気付いたが、不思議と足を止める気にはならなかった。むしろ足を止めてはならないような気がしたのだ。
幾ら人が少ないといえど、全くの無人ということはなく、暫く河川敷を歩いていると、散歩している人とすれ違ったり学校帰りの学生が自転車で追い抜いていったりした。そして次にすれ違うのはジョギングというよりはランニングといった方が良いようなペースで走っている若い男性だろう。しかしその男性は彼の姿を見るや否や速度を緩め、ついには彼の前で足を止めた。彼は当然、短く整えられた茶髪を風に揺らす頰に絆創膏がトレードマークの目の前の男性に見覚えはない。故に見るからに彼は動揺していたが、そんな彼を見て何を思ったか、男性は笑みを浮かべ、気さくに話しかけてきた。
「やぁ、芽守くん。久しぶりだね。まさかこんなところで会うとは思ってなかったよ」
たったこれだけで彼はパニックに陥った。彼にとって理解し難い内容だったのは勿論、それを理解して認めては自己を保てないと無意識に彼の脳が判断を下したからだろう。
「芽守くん、って誰ですか?」
パニックの末に紡いだ問いは、決して自分自身で認めることのできない自分の辿り着いた答えを客観的に否定してもらうためのもの。
「誰って。何を言ってるんだい?」
ここまで聞いて、嫌な予感が彼の頭の中を過ぎった。そして次の瞬間には耳を抑えてその場から全力で駆け逃げていた。
「君に決まってるだろうに」
後に残された男性は遠ざかっていく彼の背中にそう言って、これまで来た道を折り返した。
彼は記憶を失っていた。




