陸
〜一ヶ月後〜
「帰ったわよ!!」
自宅のドアを開いて、暗殺者は中にそう声をかけた。
暗殺者に出て行く前に与えられた袋に入っていたホワイトパズルのピースを唸りながらはめていた女がその声にびくりと肩を震わせ、唖然とした表情で部屋に入ってきた暗殺者の顔を見る。
「――え?」
「え、じゃないわよ、ただいま、でしょ、んもう」
そういって頰を膨らませながら、暗殺者は女に向かってズカズカと歩み寄る。
女ははめようとしていた白いパズルのピースをポロリと手から落として、完全に思考が停止した状態で暗殺者を見るしかなかった。
見た目はほぼ変わっていなかった、着ているのは陰鬱な黒装束のままだ。
だが口調と表情が激変していた。
ほとんど何も喋らなかった口は女のような口調でやかましく喋り続け、岩のようだった表情筋が柔軟に動く。
もう少し女の心が弱く儚いものだったらその時点で卒倒して気絶していたかもしれない。
現に女はズキズキと痛み始めた頭を片手で押さえ、お前どちら様だよ、ととても小さな声で呟いた。
「え? アタシよ、アタシ。スピネル。なあに一ヶ月顔見せなかったくらいでアタシの顔を忘れちゃったわけえ? フィーちゃんったらひっどーい」
なんという事だろう、元々は無口で無表情で死んだ魚のような目をしていた青年が、たった一ヶ月でオネエになった。
あまりにも悲惨な現実を女は受け入れられなかったのだろう、暗殺者に背を向けてどんよりと死んだ目のまま、床に落としたパズルのピースを手にとって再び唸り始めた。
「ここじゃない……これじゃない……違う……これちがう……」
「ちょっと、無視しないでちょうだいよ」
完全なる現実逃避を開始した女の首根っこを暗殺者は猫の子を持ち上げるように引っ掴んで立ち上がらせ自分の正面に身体を向けさせて、強く抱きしめた。
「フィーちゃん柔らかいけどかたーい。アタシがいない間にちゃんとごはん食べてたんでしょうね? パズルにかまけてごはん食べるの忘れてたとかだったら、スッピー怒っちゃう」
ぷんすこと頭上から降ってくる低い声に、女はとうとう目を回して気を失った。
女の最後の思考は、スッピーってなんだよ、だった。
女はベッドの上でハッと目を覚ました。
いつの間にベッドに入ったのだろうかと疑問に思いつつ起き上がって、何やら素っ頓狂で恐ろしい夢を見たなと考える。
一体何であんな夢を見たのだろうか、パズルのやりすぎで頭が疲れていたんだろうと結論付けた女の耳に、妙に猫撫で声な声が届く。
「あらぁ、もう起きたの?」
気付けばベッドの脇にいつからいたのか暗殺者が座り込んでいた。
「ぎゃああああ!!?」
夢じゃなかった、と女はパニック状態に陥り、絶叫しながら勢いよく毛布を頭からかぶって丸まった。
「ちょっと何よー、人を化物でも見るような目で見て」
「だ、だって、おまえ……一ヶ月前と……全然違……」
毛布を被った状態のままカタカタ震える女の背に暗殺者はそっと手を置いた。
びくりと彼女の背が跳ねる、跳ねた背中をゆっくりと撫でながら暗殺者は口元に浮かべた笑みを一層深めた。
「ほんっと、あんたって可愛いわよねえ……ちょくちょく様子は見にきてたけど、間近で見るとより一層可愛いわ」
「……は? お前、本当に何言って……?」
「ふふふ、長くても3日に一度は様子をみにきてたのよ? でもフィーちゃんったら鈍いから全然気付かなかったわねえ」
しみじみとした声で言いながら、暗殺者は彼女が被っている毛布に手をかけて、勢いよく剥がした。
あっさりと毛布を奪われた彼女は、首だけで振り返って暗殺者の顔を見上げる。
にこにこと上機嫌そうな笑顔で自分を見下ろす暗殺者の顔を見て、彼女の意識は遠のきかけたがどうにかして堪える。
「……お前……本当に、何があった? 仕事、だったんだろう?」
「仕事っていうか、アルバイトね。喫茶店のアルバイト、臨時で一ヶ月だけ」
「喫茶店? お前、暗殺者だったんじゃないのか? 足洗ったのか?」
「洗ってないわよ、ちょっと休業してただけ」
じゃあなんでそんな事してたんだよと喚く女に、ふふふふふ、と暗殺者は笑いながら女の身体を反転させて仰向けにして、その華奢な身体に覆い被さった。
「は、離せ!」
「嫌よ」
「うわやめろ耳元で喋るな気色悪い!!」
女はギャーギャーと騒ぎながら暴れるが、暗殺者は女の身体を離さなかった。
「バカねぇ……あんたごときが暴れたところで、アタシから逃げられるわけないじゃない」
耳元でクスクスと笑われて、女の肌にびっしりと鳥肌がたった。
「――あ、そうだ。最初にされた質問に答えないと」
暗殺者は女の耳元で囁くが、混乱しきっている彼女の耳に彼の言葉は届いていないようで、女は言葉にならない何かをわめきながらびくりびくりと身体を跳ねさせる。
暗殺者は少しだけ考えた後、何を思ったのか女の耳朶に歯を立てた。
「――っ!?」
「聞きなさい」
暗殺者が彼女を黙らせるために軽く殺意を込めて低く言うと、彼女は身体を硬直させて押し黙った。
その様子に暗殺者は思わず口元を緩めたが、真面目な話をしようとするのにそれでは格好がつかないからと口元を引き締めた。
「最初にあんたはアタシに聞いたわね。何故アタシがあんたをここに連れ込んだのか」
女は思わず息を飲んだ。
やっと答える気になったのか、と。
「端的に言うと、あんたが可愛かったからよ」
「…………はあ?」
それは答えになっていないのではないかと女は思った、それだけなら今まで聞かされてきた理由と大差ない。
「まあ、一目惚れってやつよ。あんまりにも可愛くて可愛くて仕方なかったから、そばにいて欲しくて連れてきた、それだけよ」
「……それだけ?」
「それだけよ」
本当にそれだけなのか、と言いたげな女の声に暗殺者はキッパリと答えた。
「ごめんなさいね、たったそれだけの言葉を伝えるだけに一ヶ月以上もかかってしまって。でも許してちょうだい、アタシはこんな簡単な感情を伝えるための言葉すら知らなかったから」
基本的に人殺しの方法しか知らなかったのよ、淡々という暗殺者の言葉に女は少しだけ黙り込んだ。
暗殺者が彼女を攫ったその時、暗殺者に圧倒的に足りていなかったのは語彙力だった。
自分の感情を表現するための言葉を知らなかったから、何もわからなかったのだ。
愛しいという感情も、可愛いという感想も。
それを表現する為の言葉を知らなかったから、何も伝えられず、何一つ自分の感情を説明できなかっただけだった。
その事を知ったのは、暗殺者があの喫茶店で働き始めた直後のことだった。
――あんた、言葉を知らなさ過ぎよ、だから言いたい事が言えないの。
あの喫茶店の店長は、暗殺者が短い言葉で人と話せるようになりたいからここで働きたいと伝えた時、そういった。
見るからに無愛想で接客業に向いていない暗殺者をそれでも店長が雇ったのは、猫の手を借りたいような状況だったからだった。
そして暗殺者は喫茶店でのバイトの片手間に言葉の勉強を始めた。
分厚い辞書を片手間に店長から勧められた恋愛小説を読み進めていくうちに、暗殺者は彼女に抱いていた感情を表現するための言葉を得ていった。
元々飲み込みが早い暗殺者は、すぐにそれらの言葉の意味を噛み砕き、自分の感情にあてはめて自分のものとすることができた。
話し方や仕草、表情は店長のものを模倣することになった、その時に最も身近にいたからだろう、暗殺者の言動は店長のそれに大きな影響を与えられた。
そして一ヶ月後、暗殺者のバイトが終わる頃に、暗殺者は立派なオネエと化していたのだった。
「――というわけでこうなったってわけ」
ことのあらましをざっと語った暗殺者に女は若干の呆れを見せた。
「お前……結構馬鹿だったんだな」
「ええ、そうね」
暗殺者は女の言葉を否定せずににっこりと笑った。
「――これで納得してもらえたかしら?」
暗殺者の言葉に女は少しだけ考え込んで、小さく口を開く。
「……私が……その……可愛いから好きになった、って言うけど……私のどこが可愛いんだ? 容姿はまあ……それなりな気はするけど……それだけか?」
女は自分の容姿がそれなりに良いものである事を自覚はしていたが、それ以外に自分自身に可愛げというものは一つもないと思っていた。
だから、可愛いから好きになったという暗殺者の言葉に違和感を持ったのだ。
「――見た目はもちろん好みよ、でもそんなものは二の次」
「……は?」
不思議そうな顔で暗殺者の顔を見上げる彼女の首筋に暗殺者は唐突に顔を近づけて噛み付いた。
痛みに悲鳴をあげ、バタバタと暴れる彼女の身体を暗殺者は難なく抑えて、薄く流れ出した彼女の血を美味しそうに舐めとった後、ゆっくりと顔を上げた。
「このクソ野郎!! いきなり何しやがるぶっ殺すぞてめえ!!」
暗殺者は怒りと混乱で真っ赤になった彼女の顔と、痛みと恐怖で潤んでいる眦を見て、大声で笑い始めた。
「そう! それよ!! その顔! その態度!! 弱いくせに見栄を張ってできもしない事を喚いて、叫んで、屈しないように虚勢を張り続けるその顔が、態度が、可愛くて愛しくてたまらないの!」
女の顔を見下ろす暗殺者の目はギラギラと輝いていた。
その暗い赤色の目で見つめられる女の顔が徐々に青褪めていく。
本能的な恐怖を感じていたのだろう、最早その恐怖を隠す余裕はないらしい。
そんな彼女の様子を見て暗殺者は恍惚とした。
「――そう、だから。一生いじめ抜いて、可愛がってあげる」
そう言って、暗殺者は彼女の眦に浮かぶ涙をべろりと舐めとる。
「……最悪、だ」
掠れた声でそう言った女の身体を暗殺者は笑顔で抱きしめた。