壱
至高の暗殺者と呼ばれていたその青年は、その暗い新月の夜、たまたまその貧民街を通り抜けようとしていた。
仕事を終えた帰路だった、そこを通り抜けるのが近道だったから通っただけ。
暗殺者である青年は闇夜に紛れ、誰にも気付かれぬままその貧民街を通り抜けるはずだった。
しかし、中程まで進んだところで、遠くから叫び声が聞こえてきた。
女の叫び声だった。
その声がただの悲鳴だったのなら、暗殺者は気にせず通り過ぎただろう。
しかし、その声は悲鳴ではなかった。
いや、短い悲鳴も混じってはいた。
しかし、その大半が誰かへの口汚い罵倒だった。
叫び声の内容から状況を察するに、声の主である女は複数の男に寄ってたかって襲われているらしい。
貧民街ならよくあることだ、こんな時間に1人で夜道を歩いていたその女が悪い。
と、そう思って普通なら通り過ぎていただろう。
だけど、暗殺者はその女の叫び声に何かを感じて、叫び声に引き寄せられるようにふらりと声の聞こえる方向へ姿を消した。
声が聞こえてくる方向に向かった青年がたどり着いたのは薄汚れた路地裏だった。
暗殺者は民家の屋根の上から、その路地裏を俯瞰する。
薄汚れた5人の男が、若い女を取り囲んで卑下た笑い声をあげていた。
その若い女はもうすでにボロボロだった。
顔には殴られたのか痣が鮮やかに浮かんでいる。
おそらく元から薄汚れていたのであろう粗末な服はぐちゃぐちゃに破られており、透き通るように白い肌と乳房が露わになっている。
その肌にも、殴られたのか赤と青の鮮やかな痣が浮かんでいる。
1人の男に背後から両腕を掴まれ身動きが取れなくなっている女はそれでもまだ罵倒の声を止めていなかった。
普通ならとっくに絶望して抵抗も何もできずに呆然と自らが穢されることを諦めてしまうような状況であるにもかかわらず、その女の目は怒りと憎悪によってギラギラと輝き、小さな薔薇色の唇は罵倒の言葉を吐き出し続ける。
その女の声に暗殺者の背筋がぞくりと震えた。
それは初めて味わう感覚だった、その感覚に暗殺者は少しだけ戸惑ったが、悪い感覚ではなかった。
暗殺者はその時、気丈に憎悪の声をあげる女の眦にうっすらと涙が滲んでいることに気付く。
それはそうだろう、怖いに決まっている、痛いに決まっている、恐ろしいに決まっている。
それでも女は涙を流すことを必死に耐えていた。
それに気付いた瞬間、暗殺者の思考を暴力的なまでに乱暴な欲求が支配した。
――アレが、欲しい。
自らが抱いた強い欲求に暗殺者は戸惑った。
生まれ落ちたその時から暗殺者としての教育を受け、ただ人を殺めるための道具であれと育てられてきた暗殺者には、今まで何かを欲したことはなかった。
それなのに、暗殺者はあの女が欲しくてたまらなくなった。
それはきっと欲を知らない人殺しの道具が初めて人としての欲を知った瞬間だった。