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僭王記(旧)  作者: 玉兎
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第一章 緋色の凶賊(八)


 ラーカルト・グリーベル子爵が自邸に到着したとき、そこにはかつて見たことのない光景が広がっていた。地面、壁面に飛び散った血しぶき、首を裂かれ、あるいは腹を貫かれて倒れこんでいる私兵たち。あたりに立ち込める空気は血と死の臭いを宿して重く淀み、知らずラーカルトの顔が不快をあらわにして醜く歪んだ。

 激しく舌打ちしたラーカルトは、邸宅の守りを委ねていた私兵の責任者を連れて来るよう命じる。

 すでに襲撃者たちは立ち去っているようで、剣戟の響きはどこからも聞こえてこない。邸内に足を踏み入れたラーカルトの周囲で慌しく人々が駆け回る。庭に植えられた芝に視線を向けていたラーカルトの前に、右腕を負傷した男性が姿を見せた。



 ラーカルトは自邸の警備を任せていたその男から話を聞き終えると、ひとつうなずいて、今聞いた報告を簡単にまとめてみせる。

「つまり、襲撃してきた者どもの数は百から二百。留守居の者だけではとても防ぎきれなかった、というのだな?」

「は、はい! 仰るとおりでございます、子爵閣下!」

「ふむ、それほどの差があったなら、わしの邸を守るという責務を果たせなかったことも責められぬか」

「まことに申し訳ございません! 死力を尽くしたのですが、敵の数の多さにいかんともしがたく……」

「頭をあげよ。わしとて戦場で戦った経験はある。二倍、三倍の敵と戦う難しさ、わからんわけではない」

 ラーカルトは部下や使用人の些細な失敗にも容赦しない。そのラーカルトから思わぬ温言をかけられ、責任者はわずかに口許をほころばせる。

 しかし、それは早計だった。



「恐れ入りま――」

「本当に敵がそれだけの数であったなら、の話だがのう」

 何気なく続いた言葉にうなずこうとして、責任者はとまどった。

「……は? 子爵閣下、それはどのような」

「わしとて戦場で戦った経験はある、と言ったであろうが。敵が百も二百も押し寄せたなら、芝の荒れはこの程度では済まん」

 そういって、あらためて周囲を見回すラーカルト。

 その眼前で這いつくばる責任者の額に冷や汗が滲む。

「多くても五十が精々であろう。実際はもうすこし少ないやも知れぬが、いずれにせよ、貴様にあずけた手勢で防げない数ではない。わしを欺こうとしたことも含めて、相応の罰をくれてやるゆえ覚悟しておけ」

 ラーカルトが指をならすと、心得た部下たちが責任者の男を乱暴に引っ立てていく。

「お、お待ちください、閣下! わたくしめの話を――」

 男はなおも何か口にしようとしていたが、その声はラーカルトの意識の端にも引っかからなかった。





 邸内に入ったラーカルトの目に映ったのは、広場に向かう前とさして変わらぬ光景だった。目だった略奪の跡はない。だが、むろんというべきか、被害がないわけではなかった。

 側近の一人が駆け寄り、とりいそぎまとめた被害状況を報告する。妻子の姿はなく、金と権力で集めた女たちも逃げ散っている。ラーカルトの自室には、金塊、真珠、宝石といった貴重品をいれた、人の身体ほどもある大きさの鋼鉄製の金庫が置かれていたのだが、その金庫も無残に破られていた。

 ラーカルトは激しく舌打ちする。

「あれの鍵は盗賊ギルドにつくらせた特注品だぞ。賊はどうやって破りおったのだ?」

「それが、ほとんど叩き割られているような有様で……何か巨大な剣のようなもので断ち割ったのでは、と」

「馬鹿を申せ。あの金庫を叩き割るような剣など、たとえあったところで振るえるものではないわ。しかし、あれが破られたとなると、証文の類も駄目か」

「は。残念ながら、中には二、三の鉄の破片が転がっているだけでございます」



 再び舌打ちの音が響く。しかし、ラーカルトの顔に不快はあっても絶望はなかった。

 財産はいざという時のために分割して保管している。それに、今回の被害は金貨に換算すればらくに万を越えるだろうが、日常的に数十万枚の金貨を動かすラーカルトにとっては十分に取り返しがつく額であった。

 ただそれでも、自邸を襲撃され、妻子を奪われたという不名誉は覆しようがない。王国派のフレデリクなどはここぞとばかりに付けこんで来るだろうし、善人面しているパルジャフとて黙ってはいまい。



 同じ帝国派の中でも妙な動きが起こる可能性がある。ラーカルトは能力と人望で彼らの上に立っているわけではなく、その権力のよってきたるところは一に金銭、二に帝国政府との繋がりだった。

 ことに帝国宰相たるダヤン侯爵との繋がりは、ラーカルトが他者の追随をよせつけない大きな力となっている。逆にいえば、この繋がりを断ち切ることができれば、ラーカルトを失脚させることができる、という意味でもある。

 評議員の中に目端のきく者がいれば、帝国貴族にあるまじきラーカルトの失態をダヤン侯に知らせようとするだろう。自分であれば必ずそうする、とラーカルトは思う。

 そんな事態を防ぐためにも、今回の一件は手早く片付ける必要がある。

 なにより、ラーカルト自身が与えられた屈辱に耐えかねていた。ラーカルトは黄色い両眼を光らせながら、必ず襲撃者たちに思い知らせてやる、と報復の念を滾らせる。




 それでも、報復の念で我を忘れることがないのがラーカルトという人物である。

 この邸宅には、ある意味で金品や証文よりも重要なものが置かれていた。その確認をとる。

「地下の囚人どもはどうなっておる?」

「は。どうやら侵入者が手引きしたようで、地下への扉は開かれておりました。詳しい状況は今、調べさせております」

「大方、妾どもが余計なことを言うたのであろう。確認を急がせろ」

「は!」



 続けてラーカルトは幾つかの指示を出していった。

 まず議長であるパルジャフに使いを出し、襲撃が緋賊によって為されたものであることを伝えた上で、ドレイクの正規兵を動かして市街を捜索させることにした。どこでも隠れられる場所がある都市外とは異なり、市街には必ずどこかに人の目がある。

 さらに、襲撃者に関する情報を提供した者には報奨金を出すと伝えさせる。無論、ドレイクの予算で。

 くわえて他の評議員にも使いを出し、彼らの私兵の力も借りて、賊徒を徹底的に追い詰めることにした。多少の私財を吐き出すことになるが、背に腹はかえられぬ。




 ラーカルトは当然のように自身の私兵も動かしたが、一部は邸内にとどめた。地下に閉じ込めた者の中には、ラーカルトにとって都合の悪い事実を知っている者もいる。逃げ出した者の中にそういった連中が混ざっているようであれば、真っ先に始末しなくてはならない。彼らの住居や家族の居場所は把握しているので、そこに向かわせるための私兵は残しておく必要があったのである。

 もし、ラーカルトにとって都合の悪い者たちが緋賊と行動を共にしているようであれば、その時はあらためて緋賊の摘発に注力すれば良い。

 そう考えを定めたラーカルトは、荒らされた自室ではなく、比較的被害の少ない客間に腰を据えて今後の対策を練っていった。




 懇意にしている評議員に使者を出し、評議会から差し向けられた使者を迎え入れるなど、精力的に働いていたラーカルトであったが、地下室の状況がいっかなもたらされず、眉をしかめて側近に問いかける。

「地下の様子はどうなっておる? 残った者を数えるだけのことに何時間かけるつもりじゃ?」

「は、はい。申し訳ございません」

 その側近も確認に向かった者が戻ってこないことに気がついていたらしく、眉目に困惑を漂わせている。ラーカルトの気性を良く知る側近は、これ以上時間をかければ主の機嫌が急角度で傾くことを承知しており、いたずらに他人を差し向けるよりは自分の目で確認した方が良い、と判断した。



「早急に私自身の目で確認してまいります。今しばらくお待ちくださいませ」

「うむ、急げよ。こうしている間にも、都市の外へ逃れ出ようとしている者がいるかもしれんのだ」

「はは!」

 深々とうなずいた側近は、急ぎ足でその場を離れる。



 そして、その側近も、いつまで経っても戻ってこなかった。







 しばし後。

 ラーカルトは私兵の中でも特に屈強な者たちを十人選抜し、地下室へ差し向けた。地下室におりた者たちが戻ってこないのは、一度は去ったと見せかけた緋賊が、実は地下に潜んでいるからではないか、と疑ったのだ。

 あるいはラーカルトにいたぶられていた者たちが篭城気取りでいるのか。いずれにせよ、兵をひとりひとり送り込んでいては、その都度たおされてしまうだけである。十人を送り込めば、少なくともすぐに始末されるということはない。最低でも何が起きているのかを確かめることはできるだろう。



 しかし、案に相違して地下に潜った兵たちには何の異変も襲いかからなかった。

 血臭と腐臭が漂ってくるのはいつものこと。幾つかの牢が開けられており、幾人かが逃げ出したのは間違いないようだが、日々の責め苦で傷を負った者、体力を失っていた者たちは大半が取り残されている。

「……どういうことか、いったい」

 自らも地下に降りたラーカルトが、足元に広がった血の染みに視線を落としてひとりごちた。地下の床に大量に流れ出た血は明らかに致死量に達していたが、血の乾き具合からして、ラーカルトが邸宅に戻る以前のものである。



 今日、ラーカルトが地下に降りたのはこれがはじめてのことだ。となれば、この血を流したのは襲撃してきた者たち、ということになるのだが。

 先にここに来たはずの配下の姿は影も形もない。いったい何が起こっているのか。ラーカルトはそれを知るはずの者たちに目を向ける。むろん、それはラーカルト自身が地下に閉じ込めた者たちであった。



 ラーカルトを恨む彼らが素直に喋るはずもないが、それを聞き出す術はいくらでもある。ラーカルトが足を向けたのは、ここのところ気に入って玩弄している女性の兄の牢だった。昼夜を問わぬ責め苦に遭い、もはや回復は望めない身体になっている。遠からず死ぬだろう人間が、外に逃げられるはずがない。そう考えたのだが、牢の中には誰の姿もなく、壁面には外された鉄枷が力なくぶらさがっていた。

「ふん、エルゼめが連れだしおったのか。いや、女の細腕で兄を担いで逃げ切れるはずがないのう。となると、これも緋賊どもの仕業か?」

 そう言ったラーカルトは、今日何度目のことか、大きな舌打ちの音をたてた。






 と、その時、ラーカルトがまったく予測していなかったことが起きる。

 舌打ちの響きが消えないうちに、自身の疑問の答えが返って来たのだ。もう少し正確にいえば、答えが降って来た。

 地下の壁際に並べられた燭台の明かり。その明かりが届かない、天井の暗がりから。



「――正解だ。緋賊の仕業、その点に関してだけは」

 そんな声と共に一人の青年が天井から床に降り立った。燭台の明かりに照らされた眉の色は深き紅。

 地下と地上を繋ぐ階段を塞ぐ位置に降り立った青年の正体は、ただその一事だけで知れていた。



 

 重量のあるヒノキ棒を片手に、天井の密な造りにあるわずかな手がかりを掴んで身を潜めていたインは、床に降り立つや間髪いれずにラーカルトの私兵に襲いかかった。

 突然のことに呆然と立ちすくむ兵の側頭部を棒で打ち据えると、インの手に確かな手ごたえが伝わってくる。一撃で頭蓋を砕かれた兵士は悲鳴をあげることもできず、壁にたたきつけられた。

 そのまま、ずるずると崩れ落ちる兵士には目もくれず、インは次の標的に向かった。ラーカルトに選ばれただけあり、その兵士はすでに驚愕から脱しており、腰の剣に手をかけていたが、それでもまだインの速さには及ばない。突き出された棒が、兵士の鼻と口の間、鍛えようもない人体の急所にたたき付けられる。

 苦痛の声をあげて二歩、三歩とあとずさる兵士の背後を壁が塞いだ。インが操る棒の先端が弧を描き、動きの止まった兵士の顎を下から上へ、強く強くはねあげる。

 鎧に包まれた身体が浮き上がるほどの強烈な打撃をうけ、その兵士は先の兵と同様、白目をむいて壁に崩れ落ちた。



 五十人近い人間を捕らえておける広さの地下空間が狭いはずはない。したがって、数の利を活かせばラーカルトの側にも勝ちの目はあっただろう。

 しかし、この時、インはまず最初に場所を選んだ。階段を塞ぐことで上との連絡を断ち、同時に背後を取られないように立ち回る。

 ラーカルトの私兵の任務は基本的に都市内のものであり、必然的に斬り合い、殺し合いの類は少ない。そんな兵の中から選ばれた者たちは、インにしてみればくみしやすい相手であった。



 鉄と皮革で強化された棒が翻るたび、薄暗い地下にくぐもった悲鳴が響きわたる。

 力任せに横なぎに振るったインの攻撃を私兵の鉄鎧が受け止める。が、衝撃のすべてを殺すことはできなかった。鎧を通して伝わる強烈な衝撃に、その私兵はたまらずたたらを踏む。その頸部をインの第二撃が襲いかかった。

 みしり、と骨が軋む音があたりに響く。

「か!? が……」

 おかしな角度で首をまげた私兵の口から、泡交じりの濁音がこぼれおちた。

 インは前蹴りを繰り出して、その私兵を後方へと蹴り飛ばす。たまらず吹っ飛んだ私兵は、そこにいた仲間を巻き込む形で地面に倒れこんだ。



 その時には、すでにインは次の相手へと向かっている。

 短くも激しい戦いの末、インの前に残ったのは、ラーカルトを除けば二人のみ。そのうち一人は鋭く振るわれた棒で足を払われ、立ち上がる暇もなく脳天を強打されて意識を失う。

 もう一人は、インが攻撃している隙を見計らって持っていた剣をたたきつけてきた。その攻撃は防具をつけていないインの左腕によって弾かれてしまう。これはインが左腕に巻きつけている鎖を利用した防御であったが、相手はそんなこととは知らない。篭手すらつけていない腕に刃を防がれ、動揺したところに棒の殴打を受けてしまった。うなるように一声あげた後、その兵士は床に倒れ伏す。




 残されたのはラーカルト・グリーベルただひとり。

 次々と打ち倒されていく配下を前にして、ラーカルトはうろたえたように周囲に視線を走らせる。しかし、逃げ道はなく、声を張り上げたところで上の邸宅にいる者たちには届かないだろう。拷問の悲鳴が万一にも外に漏れないよう、地下をそうやってつくりあげたのはラーカルト自身であった。

「ま、待て、待て! ここでわしを殺さば、貴様はすべてを敵にまわすことになるぞ! 評議会だけではない、シュタール帝国もそなたを許さぬだろう。帝国を敵にまわして生き延びられると思うほど阿呆ではあるまい!? そ、そもそも何故に緋賊がわしを狙う!? 貴様らが付けねらうなら、まず議長のパルジャフであろうが!」

 奇妙に色白の巨体を震わせながらラーカルトが言い募る。衣服につけられた銀細工や、頭部につけた金色の額冠が壁の明かりを反射して、まるで幻惑するようにインの視界の中で瞬いた。



「それとも、女どもや囚人から何か聞きおったか!? 所詮やつらは負け犬、わしに従わされた腹いせにあることないこと言い募っただけよ。その頼みを聞きうけて義賊を気取ったところで、銅貨一枚の得にもなるまい。そんなくだらぬことをするより、おとなしゅうわしにつけ。金でも地位でもいくらでもくれてやる。それとも女が欲しいか、よかろう、金で弱みを握り、力で押し倒して小生意気な女を屈服させる楽しみを教えてやろうではないか! まさか野盗の身で、それがけしからぬと言うつもりはあるまいッ」

 息もつかせぬ言葉の濁流に晒されながら、インはどこか楽しげにラーカルトの狂態を眺めていた。今も視界をちらつく装飾品の輝きを気にする素振りも見せていない。



 そんなインの様子を見て、一瞬、ラーカルトの目に粘つくような光が浮かび上がる。が、その光はすぐに掻き消え、ラーカルトはいかにも腹立たしいと言わんばかりの態度でインを怒鳴りつけた。

「何がおかしいのだ!? いや、わしがやってきたことの、何が悪いというのだ!? こんなものはどこの国の王も、貴族も、いくらでもやっていることであろうがッ!!」

「別に悪くはない」

 特に構える様子もなく、インは相手の怒声に応じた。のみならず、こうも続けた。

「いや、悪くないというより、俺もそういうのは嫌いじゃない」



 ラーカルトは意外そうに大きな両眼を瞬かせた。

「ほう? では――」

「お前の生き方などどうでもいいんだ。帝国に従っているというだけで、殺す理由には十分すぎる」

 そう言うと、インはラーカルトに棒の先端を突きつけた。

 子爵の位を有する帝国貴族は、額に玉のような冷や汗を浮かべながら、かすかに震える声で最後の問いを向けた。

「どうあっても、わしを殺すか?」

「ああ」

「そうか。であれば――」






 不意に、ラーカルトの態度がかわった。

 つい今の今まで細かく震えていた身体が落ち着きを取り戻し、その目から怯えの色が一掃される。

「殺される前に殺すだけよ、愚か者」

 贅肉に包まれた巨体が驚くほどに素早く踏み込んでくる。その右手には、いつの間にか一本の小剣が握られていた。

 インはすっと身体を引き、ラーカルトの一撃を棒の真ん中で受け止める。



 と、驚いたことに、小剣の刃が頑丈に補強された棒に易々と食い込んできた。

 間近で刃の部分を見たインは、ラーカルトの持つ小剣の刀身が水晶でつくられているかのように透けていることに気がついた。水晶の奥には鮮麗な赤い色彩が見て取れる。それは、あたかも炎を水晶で封じ込めたかのような刃であった。

 インがぽつりと呟いた。

「……ルチル鉱か」

「ほう、野盗ごときがよく知っておった。いかにも、かの湖上都市が滅びた今となっては、誰ひとりとして精錬することができなくなった幻の鉱石よ。これを手にいれるために金貨が万単位で吹き飛んだが、それだけの財貨を費やした価値はあった。ルチル鉱の剣の切れ味、その身で確かめい」

 ぐっと刃を押し込んでくるラーカルト。体格に比例した膂力と、恐るべき切れ味を秘めた小剣が、徐々に棒に食い込んでくる。仕込んだ鉄芯では防ぎきれない。このままでは棒を両断した刃がそのままインの身体を切り裂くだろう。




「わしを侮ったのが運のつき。わしはこんなところで死ぬ人間ではないのだ」

 悲鳴のような甲高い音をたてて、インが持つ棒が両断される。

 続いて、ラーカルトの小剣はインの身体をも引き裂くべく襲いかかったが、咄嗟に後ずさったことが功を奏したのか、刃はインの衣服を切り裂くに留まった。

「逃さぬわ!」

 ラーカルトの巨体が突進してくる。小剣が振るわれる都度、薄暗い地下の空間に紅い軌跡が描き出される。横に薙ぎ、ななめに払い、縦に斬りおろす。ラーカルトは小剣の扱いに熟達しているらしく、その動きは理にかない、容易につけいる隙がない。

 インは半分の長さになったヒノキ棒を手に、かろうじて相手の刃を避け続けた。しかし、それもラーカルトの思惑の内だったようで、すぐにインの背に硬い壁面が触れる。



「死ねィッ!!」



 雷光のごとく突き出される鋭利な刃。

 必殺を期したその刺突は、しかし、インを捉えることなく壁面を穿つにとどまった。

「ちィ!?」

 ラーカルトが舌打ちと共に小剣を引き抜き、身体を反転させる。そこには巧みな体さばきで双方の立ち位置をいれかえたインの姿があった。

 もはや言葉もなく、ラーカルトは再びインに襲いかかる。切りかかる帝国貴族、避ける緋賊。繰り返された光景はつい先刻のものとかわらない。むろん、ラーカルトは丁寧に同じ攻撃をなぞったわけではなく、フェイントを混ぜ、技を絡め、時には意表をつくために足払いを仕掛けるなど、インを切り裂くために様々な技能を駆使した。

 しかし。

 それでもインを捉えることはかなわなかった。衣服には届いている。あと一歩、否、半歩で賊徒を仕留めることができるのに。

 再び壁面に追い詰める。今度こそ、との決意を込めた一撃は、しかし、またしても届かなかった。相変わらず両手に棒を持ったまま、イン・アストラの姿はラーカルトの前に在り続けていた。





 ポタポタと流れ落ちる汗。今度は演技ではない。先刻とかわらぬ薄笑いを浮かべる緋賊を前に、ラーカルトはようやく何かがおかしいことに気づき始めていた。

 あと半歩で届く。ラーカルトがそう感じていた攻撃は、その実、半歩の差で敵に見切られていたのではないのか。そんな疑念が否応なしに湧き上がってくる。相手を翻弄していたつもりで、実は翻弄されていたのはラーカルトの側ではなかったのか。

 動きを止めたラーカルトを見て、インがわずかに首を傾げた。

 もう終わりか、と。

 そう訊ねるように。




「貴様、いったい何を……」

「暇つぶしだよ」

「なに?」

 予期せぬ言葉にラーカルトが眉をしかめる。対するインは、両手の棒を器用にまわしながら言った。

「もうすぐ二度目の襲撃の時間でな。時間が来るまでぼうっとしているのもつまらない。驕った貴族の道化の舞いに付き合うのも一興だ。どうせ――」




 殺そうと思えば、いつでも殺せるのだから。

 笑貌の奥。滾る両眼に凍るような殺意を乗せて、イン・アストラは言い放った。




 その瞬間、ラーカルトの全身で毛という毛が一斉に逆立った。総毛だった。背筋に氷塊が滑り落ち、額に、腋に、溢れるように冷や汗が湧き出でる。

 ラーカルトは脱兎のごとき勢いで階段へ駆け出した。

 違う。この相手は何か違う。自分は何か、何かおかしなモノの前に立っている。一秒でも早くこの場を立ち去らねば、取り返しのつかないことになる。そんな直感に背を蹴飛ばされた。



 階段にたどり着く。駆け上がる。扉を開け放つ。

 ラーカルトの視界に、驚いた顔をした配下が数名立っていた。

「閣下、いかがなさいました? そのように慌て……て?」

 不意に部下が言葉を途切れさせる。その理由がわからず、またわかる必要もおぼえず、ラーカルトは口を開き、兵を集めよと命じようとした。すぐさま地下の敵を討つために。

 しかし、その口から発されたのは言葉ではなく血であった。



「ぐが!? が、がァッ!!」

 大量の血を吐き出すラーカルト。その首には、背後から埋め込まれた短剣が深々と突き刺さっている。ほんの何時間か前、地下で一人の青年の命を奪った短剣だった。

 ラーカルトの耳に名も知らぬ青年の声が響く。

「襲撃を受けたとはいえ、自分の邸に評議会の兵は入れまい。政敵に弱みを握られることになりかねないからな。となれば、邸を残しておけば、相手にするのは貴様と、貴様の私兵のみ。その私兵も、雇い主の死を知れば大半が四散する。こうして目の前で殺せば、偽報だと疑われることもないだろうさ」

「き、きさ……がはッ!? ぐぼぉァ!?」

 二度、三度と繰り返される吐血。ラーカルトはたまらず、みずからがつくった血だまりに倒れ伏した。



「か、閣下!?」

「おのれ、貴様何を――!?」

 驚き騒ぐ配下の声がラーカルトの耳に届く。

 そして、それがラーカルト・グリーベル子爵がこの世で聞いた最後の言葉となった。直後に頭蓋を襲った重い衝撃が何によってもたらされたのかを知ることもできず、ラーカルトの意識は闇に落ちていった。


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