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僭王記(旧)  作者: 玉兎
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第一章 緋色の凶賊(六)


 太陽が西の稜線に隠れ、ドレイクの市街を夜の帳が覆っていく。ルテラト区などの一部の街区を除けば、夜の訪れは一日の終わりを告げる無音の鐘である。交易で栄えるドレイクは、近隣の都市に比べて比較的裕福な住人が多いが、それでも夜中に灯火をともし続けていられる家は一握りしかない。大半の者たちは夜の訪れと共に寝入ってしまい、街区はしんと静まり返る。

 それはセーデ区も例外ではなかった。北の山脈から吹き降ろす風が、人気のなくなった街路を駆け抜け、時折どこか遠くから猫の鳴き声が響いてくる。以前は、夜ともなれば昼間以上に殺伐とした空気があたりを覆ったものだったが、今のセーデの夜は、そんな記憶が疑わしくなるほど静かで穏やかなものであった。



 緋賊の拠点でも、少数の見張りを除き、すでに大半の者が眠りについている。

 静まり返った廊下を、一人、こつこつと響く自分の足音を聞きながら歩いていたアトは、やがて目的にしていた部屋の前で足を止めた。

 すこしためらった末、目の前の扉を控えめに叩く。部屋の主は起きていたようで、返事はすぐに返って来た。




 部屋に入ったアトの目に真っ先に飛び込んできたのは、部屋中、ところせましと置かれた本の山であった。壁際に置かれた棚に入りきらないようで、床の上にもうずたかく本が積まれている。

 また、本以外に気になるものを挙げるとすれば、部屋に満ちる薬草の匂いであろう。机の上には何種類もの草木が置かれており、どうやら部屋の主――カイは薬を煎じている最中だったらしい。

 杖を手に椅子から立ち上がったカイに対し、アトはまずはじめに詫びの言葉を口にした。

「夜分遅くに申しわけありません、カイさん」

「かまいませんよ、アト殿。いつも起きている時間です」

 優しく微笑んだ後、カイは自室を見回して頬をかいた。

「客人を迎えるには少々ちらかっていますが」

 その言葉に、アトは小さくかぶりを振った。夜中に約束もなしに押しかけた挙句、部屋の汚さに文句を言うほどアトは厚顔ではない。それに、カイの部屋は確かに整頓されているとは言いがたかったが、床も机もきちんと掃除の手が行き届いているので、不潔な感じはまったく受けなかった。




 アトに椅子を勧めたカイは、自身も腰を下ろして話を聞く体勢をとる。

 女性が男性の部屋を訪れるのに適した時間ではない。他者をはばかる話があるのだろう、とはカイならずとも察することができただろう。

 くわえていえば、昼間の騒ぎはカイの耳にも届いており、この訪問もある程度予測の範疇にあったのである。



「インのこと、ですね?」

 やってきたものの、なんと切り出せば良いのかと言いよどんでいるアトに対し、カイは助け舟を出す。

 案の定、アトは戸惑ったように小さく、しかしはっきりと首を縦に振った。

 迷いを帯びた菫色の瞳がカイに向けられる。

「……カイ殿は、どうしてあの人に力を貸しているのでしょうか?」

 それを聞いたカイは、アトの様子からして、それが本当に訊きたい質問ではないことを察したが、余計なことは口にせず、素直に相手の問いに答えた。



「そうですね。命を救われたから、というのが最も大きな理由です。インがいなければ、私の命は四年前に尽きていました」

 カールハインツ・フォン・ベルンシュタイン。それがカイの本当の名前である。

 帝国貴族の家にうまれたカイは、後継者をめぐる騒動に巻き込まれた末、重傷を負って貧民窟へと逃げこんだ。もちろん、セーデではなく、別の街の別の貧民窟である。

 かろうじて逃げのびたものの、脚に負った傷は深く、しかも斬りつけてきた刃には毒が塗られていた。あの時、たまさかインがその場に通りかかっていなかったら、カイは間違いなく死んでいたに違いない。

 生きたいか、と。

 ともすれば消えてしまいそうな意識の向こうから聞こえて来た声を、カイは今でも鮮明に覚えている。



 当時のことを思い起こし、カイは楽しげに笑った。

「なにしろ、ものすごい面倒そうな声でしたから。たぶん、あと少しでも返答が遅れていたら、そのまま通り過ぎていたんじゃないかな、と思います」

「……なんだか、その時の情景がものすごく克明に想像できますね」

 汚泥に塗れて倒れるカイを、いかにも面倒くさげに見下ろすイン。

 その構図を想像するのはアトにとって容易なことであった。



 ただ、問いかけこそ面倒を厭う響きが込められていたが、その後の対応は助けられたカイが戸惑うほど懇切なものだった。

 カイの右足は膝から下が義足である。これは、この時に受けた傷によるものなのだが、これを治療し(つまりは容赦なく切断し)、なおかつその後の面倒を見てくれたのもインだった、とカイは言う。

「インがどうしてそこまでしてくれたのかは知りません。ベルンの街にいたのは、エンフィル草の動きを追っていたとのことです」

「エンフィル草、ですか?」

 アトが首をかしげる。

「幻覚草のひとつです。いえ、最悪の幻覚草のひとつ、といった方が正確ですね。これを用いてつくった薬は、人を人ならざるものに変えるといいます」

 人の身体から痛みという痛みをとりのぞき、同時に膂力、脚力、その他の身体の力を限界を超えて引き出す薬。むろん表立って出回る薬ではなく、暗殺者ギルドなど、ごく限られた者たちの間でのみ流通しているという。

 もっとも、あまりに効果が激烈で、しかも調整がほぼ不可能であるため、闇のギルドでも忌避する者は多い。

 エンフィル草は、そんな薬の元となる草であった。



 容易には信じられない話であったが、薬師でもあるカイの言葉を疑う根拠はない。

 アトは青ざめた顔で訊ねた。

「あの方は、イン様は、なぜその草を?」

 訊ねたアトが見たのは、首を左右に振るカイの姿だった。

「それも知りません。私と出会う以前のインについて、私が知ることはそれほど多くないのです。ですから、私がアト殿にお伝えできるのは、私の理由だけです。それでもよろしいですか?」

「あ……はい、もちろんです」

 アトは硬い表情でうなずいた。





 その後、カイはアトの凝った感情をときほぐすために茶を淹れた。やや香りが強いが、人の心を落ち着かせる働きがある香草茶である。

 それを口に含んだアトの顔に和らぎを見て取ったカイは、おもむろに口を開いた。

「先にも申し上げましたが、私がインに従うと決めた理由は、命を救われた恩に報いるためです。ただ、そこに私自身の思惑がないわけではありません」



 誰であれ、他者に従う気がないインにとって、既存の権力はことごとく敵になる。ドレイク評議会、シュタール帝国、アルセイス王国、その他の中小の国々、大陸全土に散らばる他の七覇。いずれは三大神の教会や、主要なギルドとの間にも軋轢が生じるようになるだろう。

 それらすべてを敵にまわして、みずからを王とする。

 言葉にすればはっきりわかる。インの目指すものは理想とは呼ばず、野望とも言わぬ。それは狂人の妄想だった。



 ――しかし。

 だからこそ、それが成ればクイーンフィア大陸は大きく揺らぐ。インの想いは、七覇時代を突き崩す魁になりえるのである。

 帝国貴族であったカイは知っている。

 七覇の中で最も強大と謳われ、繁栄と栄華の極みにあると思われているシュタール帝国も、その内実は爛熟を通り越して腐敗の域に達していることを。

「そのことはアト殿もよくご存知のはずです」

 その言葉にアトは否とも応とも応えなかった。カイは気にせず先を続ける。



「いずれ大陸は戦乱に呑まれます。その徴候はすでに各地にあらわれつつある。他ならぬ私たちもその一つです。インは私の助力など関わりなく、その争乱に加わるでしょう。そして、大きな爪跡を残すことになる」

 インは敵に容赦しない。そして、敵に従う者にも容赦はしない。そんなインが兵を率いて大規模な戦いに関与すれば、何年、ヘタをすれば何十年と消えない惨禍が撒き散らされる恐れがあった。

 それを聞いたアトが、思わずというように問いかける。 

「それを止めたい、とお考えですか?」

 その問いに対し、カイはしずかにかぶりを振った。

「それをしようとすれば、インは私に刃を向ける。このことも、もうご存知のはずです」

 否応なしに昼間のインの言動が思い出され、アトは硬い表情でうなずいた。



「止めることはできません。けれど、飾ることはできる。インの為してきたこと、これから為していくことを、爪跡ではなく、戦果にかえることはできるのです」

 己のために一人を殺せば殺人者、十人を殺せば殺人鬼。けれど、それが万人を越えたなら。

 古の吟遊詩人は、そんな人物を指して英雄と呼んだ。

 それは皮肉の一つの形。けれど、万人を殺した者をただの咎人とみなす者がいなくなるという意味で、真実の一端に触れた言葉でもある。



 それを踏まえた上で、カイが目論んでいるのは、インの行いに正義と大義の飾りをつけることだった。

 そうすれば、同じ行為でも世人の見る目は大きくかわる。

 すでにカイはそれを指針として動いていた。インが襲撃を繰り返すのは、金と糧、それに兵を得るためであるが、ここに奴隷解放という名分を加えることで、残虐な賊徒は志ある義賊へと変じていく。

 評議会が緋賊を無視できなくなった理由のひとつに、このことが挙げられた。




 アトが首をかしげる。

「それは、あの人の怒りに触れないのですか?」

「たぶんですが、インはあなたにこう言ったはずです。自分の主は自分だけだ、と。踏み込んでいけないのはその一点。インが行くと決めた道をまげるのではなく、彩るのであれば、何の問題もありません」

 ある意味、イン・アストラはとてもわかりやすい人物なのだ、とカイはいう。触れてはならないところ、まげてはならないところがはっきりしている分、それをわきまえているかぎり、こちらに害が及ぶことはないのだから。



 それを聞いたアトは、なお表情に迷いを残しながら、呟くように問いを重ねた。

「もし、イン様の行く道が、どうしても認められないものであったなら……」

「ここから去るか、戦うか。どちらかを選ぶことになるでしょう」

 カイはインに従うと決めていたが、何も考えず、奴隷のように盲従しているわけではない。インもまた、そんなことは望んでいないとカイは良くわかっていた。



 語り終えたカイは、じっとアトの顔を見つめる。

 インにはインの考えがあるように、アトにはアトの考えがある。おそらく、緋賊の中でただひとり、アトが抱えているものを察しているカイは、この二人の関係が後々大きな影響を及ぼすことになる、と半ば確信している。

 だからこそ、カイが過度に関わるわけにはいかない。アトがどのような決断を下すにせよ、それはアト自身が考えて導き出したものでなければならないのだ。



 そんなカイの思いが伝わったはずもないが、やがて顔をあげたアトの目には小さな光がともっていた。

 今の会話でなにがしかの答えを得たわけではないだろう。だが、それでも何か思うところはあったようだ。

 アトの瞳に宿る光は、部屋を訪れたときよりも力強いものになっていた。




◆◆




 カイとアトが真剣な顔で語り合っていた、同じ頃。

 インはゴズと共に一軒の酒場に赴いていた。ルテラト区にあるこの店は、このあたりではめずらしいことに女性の影がない。商売女をはべらせて高歌放吟するのではなく、純粋に酒と料理を楽しみたい客が集まる、そういう店であった。

 ――と、このように記すと、いかにも隠れた名店の雰囲気を漂わせているが、主人の旅道楽のせいで店が開いていないことがしばしばあり、おまけに料理も酒も絶品とは言いがたい。安酒場よりマシという程度のもので、はっきりいって緋賊の拠点で出される食事の方がはるかにうまかった。にもかかわらず、どれも妙に高い値段が設定されている。

 当然というべきか、客の入りは非常に悪く、インなどはよく潰れないものだとおかしな感心をしているくらいだった。



 二人がこの店に来たのは偶然ではない。

 そして、望んでこのような店に来るからには、もちろん相応の理由があった。



 カウンターの一角。傾けていたグラスをおろしたインは、思わずというように感嘆の吐息をもらしていた。

「……相変わらずうまいな、この店の水は」

 その言葉どおり、インが飲んでいたのは酒ではなく水である。別に何かの隠語であるわけではない、正真正銘の水。

 ただし、ただの水とは一味も二味も違っていた。



 小柄な店の主人は、ふんと鼻息あらく胸をそらした。

「当然じゃい。白の霊峰ヒルスを登ること二日、わししか知らぬ秘蔵の湧き水地点から汲んできた水よ。そこらの井戸や川の水とは比較にならん」

「ああ、素晴らしいの一言だ。できるなら、樽ごと買い上げたいところだが」

「ふん。たとえ金に糸目をつけぬと言われても売れんわい。そもそも樽で売ったら、わしの分がなくなってしまうではないか」

 白の霊峰ヒルスとは、その名のとおり一年を通して雪をいただく高山のことで、この霊峰の名はそのままドレイク北方の山脈にも用いられている。

 樽を担いでヒルスに登り、湧出地点に行くのも一苦労だが、そこから水の詰まった樽を背負って帰ってくるのはさらに大変な作業なのだ、と主人はいう。道も険しく、よほど山に慣れた者でなければ崖下にまっさかさまらしい。必然的に一回の往復で得られるのは一樽分。そうそう売れるものではなかった。美味しい水集めが趣味の主人にとっては尚更である。



 主人がじろりとゴズを睨んだ。

「ようやく役に立つようになった奴は、とっとと辞めてしまったしのう」

 視線の先では、ゴズが身を縮め、困ったように禿頭を掻いている。短身痩躯の主人と、熊のごとき巨体のゴズでは、それこそ大人と子供ほどに体格が異なるのだが、どうやら力関係は主人の方が上らしかった。

 胡乱げな視線はインの方にも向けられる。

「この大喰らいを養う物好きなどわしの他にはおらんと思っておったのだがな。どうやって日銭を稼いでおるのか聞きたいところだ」

「代わりに湧出場所を教えてくれるなら、答えないでもないが」

「ふん、そんなに聞きたければ隣の大喰らいに訊けば良いではないか」

「前の勤め場所の秘密を教えろと迫るほど恥知らずじゃない」

 それを聞いた主人は、もう一度「ふん」と鼻息を吐き出すと、店の奥に引っ込んでしまう。愛想も何もないが、湧水目当てでこの店にやってきたインにとっては大した問題ではない。



「むしろあの主人に愛想よく接客される方がおそろしいな」

「そうなれば、この街に槍の雨が降り注ぐでしょうな」

 主人が奥に引っ込んだことに安堵の息を吐きながら、ゴズが小声で応じた。別段、ゴズはこの店で不義理を働いたわけではないのだが、世話になった恩義を十分に返せなかったという思いがあるらしく、主人の前ではどうしても萎縮してしまうらしい。

 もしかしたら、主人が奥に引っ込んだのは、それと悟ってのことであるのかもしれない。



 残った水を一息で飲み干したインの杯に、ゴズがブドウ酒を注ぐ。焼いたじゃがいもにチーズ、豚肉の腸詰といった品を酒と共に飲み下しながら、インは静かに言った。

「で、だ。わざわざ主人が戻ってきたと俺に知らせてくれたのは、何か言いたいことがあってのことか?」

「他意はござらん。このところ、息つく間もなかったことですし、気を休める助けになればと思ってのこと。余計な気遣いでしたかな」

「そんなことはない。礼を言っておく――それはともかく、あいかわらず、なんというか味気ないな、ここの料理は」

 腸詰をかじりながら、インがつまらなそうに言う。それを見て、ゴズが申し訳なさそうに頭を掻いた。



「材料は主人みずから吟味してきたもので素晴らしいのです。しかし、惜しむらくはそれを調理する腕が――」 

「つりあっていない、というわけか。けれど材料は良いものを使っているから値段は高くなる、と」

「は、仰るとおりで」

 インはがらがらの店内を見回して、軽く肩をすくめた。

「こうなるのもいたし方なし、というところか」

「そうなりますなあ」

 苦笑するインと、申し訳なさそうにしながら、それでも同意を示すゴズ。

 もし主人がこの場にいれば、他日はともかく、少なくとも今日客が入らない理由のひとつは、カウンター席に居座る柄の悪い二人連れのせいだと言ったに違いないが、もちろん当の二人はその事実にまったく気がついていなかった。

 

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