第一章 緋色の凶賊(五)
夜、アトはリッカと共にひとりの女の子の部屋を訪れていた。
緋賊の拠点の中でも五指に入る上等な部屋のひとつ。そこで起居する少女の名はツキノという。リッカの妹であり、およそ一月前、アトと共にセーデにやってきた。
寝台に身体を横たえるツキノの顔色は青白く、頬はこけ、目はくぼみ、手足は驚くほど細い。本来は姉と同じ紅茶色である髪は、極度の栄養不足のせいでくすんだ灰色へと変化しており、姉とアトを見上げる瞳は白濁していた。おそらく、アトたちの顔はほとんど見えていないだろう。
今のツキノは、誰の目にも等しく病人だと映る。
事実、ツキノは自分の足で歩くこともままならない状態であったが、実のところ、これでもかなり回復したのである。
一月前、ある盗賊団のアジトから救出された時のツキノは、過酷な労働と貧相な食事のせいで、片足を冥界に踏み入れているような状態だった。
以来、カイの尽力と、祖父と母、姉の献身的な介護の甲斐あって、ツキノは命の危険を脱することはできた。しかし、失われた身体機能はすぐには回復しない。最悪の場合、一生元に戻らない可能性も指摘されていた。
救いがあるとすれば、ツキノ当人が回復に強い意欲を持っていることだろう。逆に意欲がありすぎて、手足の筋力を戻す運動をする際、母のスズハやリッカが止めに入らないといけないことがあるほどだ。
アトとリッカを迎えた今も、顔色こそ悪かったが、ツキノの声に暗い影はない。かすれた声で、それでも嬉しげに二人の来訪を歓迎した。
「お姉ちゃん、アト姉様も、いらっしゃいませ」
そういって上体を起こそうとするツキノ。リッカは慌てて傍に駆け寄り、妹の身体を支えてあげた。本当なら横になっていて欲しいのだが、あまり周囲の人間が病人扱いするのはよくない、とカイに言われていたので、それを口にするのは思いとどまった。病人扱いしないという意味では、身体を支えるのもやめた方がいいのかもしれないが、さすがにそこまでは無理だった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
そういってリッカは自分の額をツキノのそれに軽く触れさせる。その口から安堵の声がもれた。
「うん、熱は大丈夫そうね」
「お姉ちゃんは心配性だね。大丈夫、最近は身体の調子もずいぶん良くなってきたんだから」
「そう言った翌日、無理して身体を動かして熱を出したのはどこのどなただったかしら?」
「あうう……ごめんなさい」
つい先日のことを引き合いに出され、ツキノは肩をすぼめる。
もちろんリッカも本気で怒っているわけではない。それを伝えるために、優しく妹の髪を撫でてやった。その際、ツキノに気づかれないように唇を引き結んだのは、指から伝わる髪の感触が、女の子のものとは思えないほど硬く乾いていたからである。
奴隷として酷使された影響がこんなところにも残っている。そのことにリッカは強い怒りを覚えた。
故郷を失った後、奴隷に身を落とした境遇はリッカも妹とかわらない。だが、リッカは母と離れ離れにならずに済んだ上に、引き取られた先の主人も、むやみに奴隷を虐待するような人ではなかった。
くわえて、リッカらを捜して帝国にやってきた祖父のセッシュウと早いうちに出会うことができたおかげで、妹のように深く健康を損なうことはなかった。ツキノや、もうひとりの妹でいまだ行方の知れないサクヤに比べ、あまりにも幸運だったといえる。
そのことにリッカが引け目をおぼえる必要などまったくない。ツキノが恨みごとを述べたわけでもないのだから尚更だ。
それでもリッカは自分に対して怒りを覚えていた。他の誰をも恨みようがないリッカにとって、責める相手は自分くらいしかいなかったのである。
ツキノの体調を考えれば、あまり長話をするわけにもいかない。くわえて、アトとリッカは三日後に行われる襲撃のためにやっておかねばならないことが幾つかあった。
おやすみの挨拶をしてツキノの部屋を出た二人は、そのまま一緒に廊下を歩いていく。 その途中、ふとリッカの足が止まったのは、いまださめやらぬ怒りの残り火が胸中でくすぶっていたせいだったかもしれない。
怪訝そうに振り返るアトに、リッカは面差しを伏せながら低い声で問いかけた。
「どうして……」
「え?」
「どうして、こんなことをしないといけないんでしょうか」
顔をあげたリッカの目に光るものを認めたアトは、咄嗟に返答に迷ってしまう。リッカが言わんとしていることに見当がつかなかったからではなく、反対に、見当がついていたからこそ安易な答えは返せないと思ったのである。
リッカの口から堰を切ったように言葉が溢れ出た。
「おじいちゃんにお母さん、ツキノ、それにあたしのことを助けてもらったのは感謝してます。でも、ここに来てからずっと、戦い、戦い、また戦い。そればっかり。戦いに出るたびにたくさん人が傷ついて、死んじゃった人もたくさんいるのに、それでもあの人は戦うのをやめようとしない」
あの人、というのがインを指しているのはアトならずともわかっただろう。
負傷者の治療は主にカイの役割であるが、時に何十人と出るけが人すべてをカイが診ることはできない。リッカはカイの手伝いをしながら、戦いのたびに負傷して苦しむ人たちを見続けてきた。治療の甲斐なく死んでいく人を看取ったこともある。
そういった人たちはセーデの一画に葬られることになっており、リッカは母親と共にときどき花を手向けにいく。そして、行くたびに増え続ける墓の数を見て、心を寒くしてきたのである。
「感謝してるんです。本当に、感謝してるんです。でも、でも、こんなに戦う必要があるんですか? 戦いをやめたって、ここに攻めて来る人たちなんていないじゃないですか。もしいたとしても、あの人やカイ先生、それにアト姉さんたちがいれば、やっつけることは出来るはずです」
リッカは怖かった。
このままセーデにいれば、イン・アストラの下にいれば、いつか周りの人たちすべてが死に絶えてしまうのではないか。いつか母から聞かされた物語が思い浮かぶ。道化師が奏でる笛の音に導かれて姿を消したという子供たちのように、インが吹く戦いの角笛は、いつか祖父を、母を、妹を、そしてリッカ自身を死の淵に突き落としてしまうのではないか。そう思えてならなかった。
不安を訴えるリッカに対し、アトは慰めの言葉ひとつかけることができない。
アトが緋賊に加わったのは、インの志を正しく理解し、その為人を信用したからではない。そうであれば、ここでリッカの不安と不審を解くこともできただろうが、それは今のアトには不可能なことだった。
事実はといえば、悪辣な盗賊団を退治するために向かった先でたまさかインと出会い、ツキノと出会い、紆余曲折を経て共闘することになった。そしてその戦いの最中、インに命を救われたアトは、恩に報いるべく緋賊への参加を決意したのである。
以来、一月あまり。
アトが襲撃に出た回数はすでに片手の指では数えられない。アトが出なかった出撃もあわせれば、緋賊の出撃数は二桁にのぼるだろう。
単純に計算しても、三日に一度は戦いに出ている計算になり、リッカが「戦ってばかり」と口にしたのはゆえ無きことではない。
アトにしても、緋賊は人を殺しすぎる、という不安ないし不満は抱いていた。
総数が少ない緋賊にとって情報の隠蔽は存亡に直結する。刃を交えた相手を生かして返さないことを、無慈悲だ残虐だと非難するつもりはない。そうした襲撃で得た食料や金銭でアトやリッカが腹を満たしているのは確かな事実なのである。
ただ、苛烈な襲撃は対価として激しい反撃を招いてしまう。武器を捨て、両手をあげても助からないとわかっていれば、相手も命懸けで立ち向かってくる。結果、死傷者が増えるのは避けられないことであった。
リッカは幼い身でそうした死傷者と向き合ってきた。それこそ日常的に。
そこにきて今度は都市内の評議員の邸宅を襲撃するという。リッカの心が悲鳴をあげたのは、むしろ当然のことであったかもしれない。
結局、アトは泣きじゃくるリッカに最後まで何も言えなかった。
なだめるようにリッカの肩に手をおき、母のスズハのもとまで連れて行く。スズハは器量よしのリッカがそのまま大人になったような女性で、この母娘が並ぶと時に姉妹のように映る。
娘とは対照的に物静かで控えめなスズハであったが、察しの良い賢婦人でもあり、アトの短い言葉で事態を正確に把握したらしい。アトに礼を言ってから、優しく娘を抱きしめる。
ひときわ高まるリッカの泣き声。その悲痛な声に耳を打たれながら、この時、アトはひとつの決意を固めていた。
◆◆
襲撃の日時が決められたからといって、その日まで静養するような余裕は緋賊にはない。やらねばならないことは山積しており、その中のひとつに地下水路の探索というものがある。
都市の内外に通じている地下水路の把握は、セーデに身を置く緋賊にとって生命線ともいえるもので、その探索は最優先事項のひとつであった。
探索といっても、決して気楽にできる簡単な仕事ではない。表向き、地下水路はドレイク評議会の管轄下にあり、地下におりるには相応の手続きを必要とする。これを破れば当然のように罰せられ、その罪はかなり重く定められていた。
これは地下水路を根城とする無法者たちに対処するためであり、探索の最中に評議会の兵に見つかれば容赦なく罰せられてしまうのだ。
くわえて、ここでいう水路の無法者たちも厄介な相手のひとつで、彼らは相手が官憲であれ、緋賊であれ、自分たちの縄張りがおかされることを許さない。水路の地理は彼らにとっても生命線であり、これを守るために手段を選ばない者も多いのである。
もっとも、無法者の方はひとつの勢力に統合されているわけではなく、数十人単位の集団が好き勝手に地下に巣食っているに過ぎない。広大な地下水路では、彼らと顔をあわせることの方がむしろまれであったし、向こうも緋賊の存在を把握して敵と見定めているわけではなく、仮に遭遇したとしても自分たちとは別の集団だと認識されることがほとんどだった。
それでも時には刃を向けてくる相手もいる。そのため、襲撃ほどではないが、水路の探索も命懸けの仕事ではあるのだった。
この水路探索で、アトはもっぱらインと行動を共にすることが多い。
というのも、インが探るのがいつも下水区画であるからだ。この時ばかりは、いつもインの傍を離れないキルも姿を見せないことが多く、大半の者たちもそれにならう。あえて同行を志願するのは命の恩に報いたいアトくらいで、結果として二人の作業となることが常なのである。
下水区画の探索はある意味で清掃作業に等しい。評議会の兵も水路の無法者も、下水区画に近づく者はほとんどおらず、ここを通れるようにしておけば都市の内外を比較的安全に行き来することができる。
アトたちは歩き回って周囲の構造を把握しつつ、通路に積み重なった、あるいはこびりついた汚物を取り除いていった。ここ専用に特注した頑丈なモップは、たちまち粘着質の汚れに包まれていく。
二人が全身のいたるところにクズ布を巻きつけているのは、身体への汚物の付着を阻止するためだ。しかし、残念なことにどうしたところで完全には阻止できない。くわえて、ここまでの汚濁だと、布や衣服を越えて臭いが髪や身体にこびりついてしまい、そのままにしていては数日間、悪臭に悩まされる羽目になってしまう。当然、その被害は周囲にも及ぶ。
そのため、探索を終えた後は、カイが香草を調合してつくった、特に匂いの強い香油を全身に塗りたくることになる。これはこれで匂いに悩まされることになるのだが、下水の悪臭を振りまくよりマシであるのは言うまでもないことであった。
圧倒的(?)な汚物と悪臭との戦いは、戦場の死臭に慣れたアトにとっても容易なものではない。というか、場所によってはけっこうな頻度で人や動物の屍が浮いているので、戦場よりもなおひどかったりする。
そんなところで長時間、ただただモップを動かしていると、ともすれば気が遠くなってきてしまう。しかし、こんなところで気を失えば間違いなく水路にドボンであり、ますます気が遠くなる状況におかれるのは目に見えていた。
それゆえ、アトは強く気を張って作業していた。おそらく、先刻から無言でモップを動かしているインも同様なのだろう。アトが口を開かないのは昨日のリッカの姿が脳裏にあるからだったが、たとえそれがなくても進んで口を開くことはなかったに違いない。ここで口を開くと、漂う激臭によって、ほとんど物理的に口内を舐め尽くされてしまうのである。
したがって、アトが口を開いたのは休憩のために拠点に戻った時であった。下水区画は空気が淀んでおり、中には腐っている場所さえある。水路に漂っていた屍の大半は上の街から流されてきたものだろうが、中には腐敗した空気にあてられた水路の住民も含まれていたと思われる。
いかにインやアトが衆に優れた体力の持ち主だろうと、そんなところで長時間動き回ることはできない。こまめに休憩を挟む必要があった。
アトがインに対して緋賊のあり方を問うたのはこの休憩の最中である。これほどまでに殺生を重ねる必要があるのか、というのがアトの疑問だった。
昨日のリッカのことをおくびにも出さなかったのは、これがインの逆鱗に触れかねない質問であることを理解していたからだった。まず最古参であるカイに話を聞いてみる、という手も考えないではなかったが、それをしなかったのは、アトなりのインに対する敬意である。こそこそと内心を探るようなことをせず、正面から訊いてみよう。そう考えたのだ。
インの返答は短く、そして断固たるものであった。
「あるからやっている」
そう言うと、インはじろりとアトを睨む。もしかしたら、睨んだのではなく、ただ視線を向けただけだったのかもしれないが、鋭すぎる眼差しは睨んでいるようにしか見えなかった。
「朝から何か言いたげにしていたのはそれか」
「……気づいておられましたか」
「隠しているつもりだったのならその方が驚きだが、まあいい。殺しを控えろという話なら聞く耳もたないぞ。従えないというなら、去れ」
アトが緋賊に加わったのはインが命を助けたからだが、その分の働きはもう十分に済んでいる、とインは考えている。アトが去るというなら止めることはできないし、止めるつもりもなかった。
一方、助けられた側のアトはまだ恩に報いたとは考えておらず、少なくとも今のところ緋賊を抜ける気はない。ただ、このまま戦い続けた先に待っているものが、恩人にとって良いものであるとはどうしても思えなかったのだ。
緋賊は今日まで勝利を続けている。これは主にインとキルの力によるものだが、この二人はあくまで特別であり、誰もが二人のように戦えるわけではない。昨晩、リッカが口にしたように、相次ぐ襲撃で緋賊側も少なくない数の被害を出していた。
アトはその事実を危惧している。
「今の私たちは、白刃の連なる場所を細い紐を伝って歩いているようなものです。イン様やキルちゃんにとっては容易い綱渡りかもしれませんが、他の人たちにとってはそうではないと思うのです」
「そこまでは知らない。奴隷の身から解放した後のことは、すべて自分たちで決めたことだろうが。別に兵に限った話じゃない。アト、お前も含めた女子供も同じことだ。俺についてくる奴は相応に遇してやるし、ついて来られない、ついて来たくない奴はさっさと去ればいい。強いて縛りつけた奴などひとりもいない」
インの言葉はまぎれもない事実である。事実であるが、それは強者の論理だとアトには思える。
吐息まじりにアトは言った。
「……誰もが、あなたのように強く生きられるわけではありません」
「それこそ知ったことか。弱いなら弱いなりに、強い者に従っていればいい」
そして、それは別に恥じることではない、とインは思う。インは戦えない者を軽蔑したことはなく、あざけったこともない。以前はともかく、今はもう。
『あなた一人でご飯がつくれますか!? 服を繕えますか!?』
いつかどこかで聞いた言葉が脳裏をよぎる。
インはそれを表情に出さず、胸裏に押し込めてからアトを見た。
インの敵意を刺激するのは相手の強弱ではなく、相手が自分の上に立とうとするか否かである。それが武力によるものであろうと、言葉によるものであろうと関わりない。
その点、今のアトはインにとって不快な存在になりつつあった。それでも、したり顔でインを教え諭そうとしているわけではなかったから、敵意の奔出はかろうじておさえられていたのだが。
その蓋は、アトが次の言葉を口にした途端、瞬きのうちに取り外されてしまった。
「イン様ほどの力があれば、ドレイクではなくとも、他の都市や国で重要な戦力になることもできるはずです」
緋賊の武力を欲する者たちはいくらでもいる。あえて賊に身を置かなくても、成り上がる手段はいくらでもあるだろう。
『誰に下にもつかない』というインの言葉は、権力への強い志向であるとアトは捉えており、その手段として既存の権力を利用することは当然考慮してしかるべきであると考えていた。
今こうして下水掃除を行っている――こんな苦しい作業を、必要なことだから、という理由だけで率先して行えるインにとって、目的のために一時、他者に頭を下げることが耐え難い屈辱である、とはアトには思えなかったのだ。
しかし。
突然、インの口から哄笑がほとばしった。
ひそやかなものではない。おそらく、拠点にいる者たちの耳にも残らず届くほど、高い高い哄笑であった。
「え……? あの、イン様?」
戸惑うアトを前に、なおしばらくインは笑い続けたが、唐突にその笑いをおさめるや、常の笑みを消した顔で冷たくアトを睨みすえた。先ほどとは違う。今度は疑いなく、敵意を込めてアトを睨みつけていた。
「くだらないことをほざくな。もう一度でも口にしたら殺す」
「……ッ」
苛烈な眼光を真っ向から浴びせられ、アトは喉が干上がるような圧迫感を覚えた。インの黒い双眸が、炉の熱に炙られたように重く鈍い輝きを放つ。次の瞬間、インが襲い掛かってきたとしても、アトはまったく不思議に思わなかっただろう。相対する者に正気を疑わせるほど、今のインは猛り狂っていた。
哄笑を聞きつけてきたのか、何人かが遠目から二人の様子をうかがっていたが、近づいて来る者は誰もいない。それが悪臭のみを理由としたものでないことは火を見るより明らかであった。
凍りついたような静寂が破ったのはインの方である。その口からひとつの問いが発され、アトを戸惑わせた。
「お前、今、楽しいか?」
「……え?」
「楽しいか、と訊いている。今この時でもいいし、ここに来てからの生活でもいい。戦っている最中でも、下水を徘徊している時でも、なんなら昨日の夕飯を食っている時でもかまわないが、とにかく楽しめているか?」
意図の掴めない問いに、アトは答えようがない。
もとより返答を期待して放った問いではなかったらしく、インはすぐに言葉を続けた。
「俺は楽しいぞ。人を殺す時も、飯を食う時も、糞を始末する時も、女を抱く時も。今、こうしている瞬間さえ楽しくて仕方ない。自分の行動を自分で決める。どこに行くか、何をするか、すべて自分で決める。それだけで、俺は楽しいんだよ」
「それは……」
それは自分の身を鎖で縛られたことのないアトには決して理解できない感情だった。否、その経験を持つ者だとて、インの感情を理解できる者が何人いることか。
「だからこそ、俺は俺の上に誰かが立つことを許さない。俺以外の誰かが、俺を決めることを許さない。俺の主は俺だけだ」
そう言うや、インは前触れなく踵を返す。インの眼光が自分から逸れた。そう認識した途端、アトはその場に座り込みたくなる衝動に襲われる。気がつけば全身が冷や汗にまみれていた。
そんなアトの耳に、モップを手に持ったインの言葉が飛び込んでくる。
「話は終わりだ。お前はもう戻れ」
アトは半ば呆然としながら、水路に戻っていくインの背を見送った。声は出ず、かろうじてへたり込むのを堪えている今のアトには、その背を見送る以外にできることは何もなかったのである。