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僭王記(旧)  作者: 玉兎
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第一章 緋色の凶賊(一)

僭王記 第一章 緋色の凶賊



 暖かい陽射しが木立の隙間をぬって森の中に差し込んでくる。初夏の風は萌える緑の息吹を含んで心地よく、風に揺れる葉のさざめきが涼やかな旋律となって草木の上を駆け回った。

 森の一画では鹿の群れが夢中で下草を食み、梢では鳥たちが競い合うようにさえずっている。

 におい立つような生命の息吹に包まれた森は、穏やかな時の移ろいに身をゆだね、その平穏は中天に輝く太陽が西の彼方に沈むまで、ついに途切れることなく続いていくように思われた。



 ――だが、そんな平穏を歯牙にもかけない者たちもいる。

 木立の陰にひそみ、街道を見張る彼らの数はちょうど十人。年齢はまちまちであったが、概して若く、全員が武装しており、間違っても森にベリーの実を摘みに来たという格好ではない。

 持っている武器は剣、槍、戦斧に棍棒とバラバラであり、それは防具の方も同様だった。大半は動きやすさを重視した皮革の装備を身につけていたが、中には頭からつま先まで鋼鉄製の甲冑で身を包んだ重装備の者もいる。また、それとは対照的に防具らしい防具を身につけていない者もいた。

 装備の統一性などかけらも気にかけていない有様は正規軍ではありえない。この集団に共通しているものがあるとすれば、それは武器防具ではなく外見にあった。



 彼らの多くは眉を深紅色――緋色に染めている。

 これは襲撃の際、敵味方の区別をつけやすくするためにはじめた行いであり、それ以上の意味を持っていなかったのだが、いつからか、この集団それ自体を指し示す名称へと変じていた。

 各地の街道を騒がせ、隊商のみならず巡回の正規兵や戦場帰りの傭兵たちさえ標的とする緋色の凶賊。

 緋賊。

 それがこの集団に冠せられた名前である。




 この緋賊を率いるのは、年の頃二十歳前後とおぼしき黒髪の青年だった。

 指の先にべったりと張り付いた赤い液体を丁寧に眉に塗りつけながら、街道に獲物があらわれるのを今や遅しと待ち構えている青年の名はイン・アストラ。

 悪相の持ち主だった。

 二目と見られない醜い顔つき、というわけではない。醜いどころか、目鼻立ちの整った容貌は端整ですらある。にもかかわらず、インの顔には凶猛さがまとわりついて離れない。

 油膜が張ったようにギラつく瞳、研ぎたての刃物を思わせる眼光。危険な襲撃を前にした顔には、だが一片の緊張も浮かんでおらず、唇は笑みの形に歪んでいる。

 その表情は、いっそ清々しいほどに悪辣だった。



 しばし後、インの表情に変化があらわれる。遠方から響いてくる馬車の物音を耳ざとく聞きつけたのだ。

「さて、今日も絶好の襲撃日和。願わくば、この好天に相応しい、うまい獲物であってほしいもんだが」

 愉しげな口調で物騒なことを口走りながら、インは手についた染料の残りを近くの木になすりつけると、遠方から近づいてくる一団に視線を向けた。



 その一団は一台の馬車と数人の騎兵、さらに二十人ほどの歩兵で構成されていた。馬車はかなり大きく、引いている馬の数は片手で数えられない。

 両者の距離が縮まるにつれて、馬車の全容が明らかになってきた。やがて判明したのは、馬車の荷台に乗せられているのが物ではなく人である、ということだった。それも一人二人ではなく、十人以上。いずれも手足や首に枷がはめられており、これを見るかぎり「馬車」よりも「檻車」と記す方が実態に即しているかもしれない。



 ここから北に向かえば自由都市ドレイクがある。ドレイクは交易都市とも呼ばれ、大陸中から様々な品物が集められるのだが、その主要な交易品のひとつに奴隷が挙げられる。

 檻車に囚われている人々は、他所の都市で買われてきたのか、あるいは奴隷狩りに遭って捕らえられたのか、いずれにせよ商品としてドレイクに運ばれていく途中なのだろう。

 護衛を務める者たちは油断なく周囲に目を光らせており、いかにも手練といった雰囲気を漂わせている。二束三文で雇った形だけの護衛でないのは火を見るより明らかであった。





 と、それまで黙ってインの傍らに立っていた人物が、ここでおもむろに口を開いた。

「……イン、皆殺しでいい?」

 ぼんやりとした口調とは対照的な、物騒きわまりない問いかけ。

 その問いかけを口にしたのは十二、三歳と思われる少女であった。

 小首をかしげながらインを見上げる瞳の色は、湖水を思わせる淡い青。うなじの後ろで切りそろえた髪は、木漏れ日に照らされて蜂蜜色に輝いている。

 細かな刺繍が施された赤いケープが良く似合っており、わずかにそばかすの浮いた顔は、笑みを浮かべればさぞ可愛らしく映えることだろう。



 だが、今、何の表情も浮かべずに殲滅の可否を問う少女から、可愛らしさや、年頃の子供らしい溌剌さを感じ取ることは難しいに違いない。

 小首をかしげる仕草こそ年相応だが、平坦な口調からは感情の起伏が感じられず、視線も焦点が定まっていない。さらに、この少女はみずからの異常性を際立たせるモノを持っていた。

 それは一本の剣。

 子供でも扱える護身用の短剣、あるいは刺突用の軽量な細剣ではない。大剣、それも大のおとなが、振り回すことはもちろん持ちあげることさえ難しいのでは、と思われるほど巨大な業物であった。



 少女は決して巨躯の持ち主ではない。

 頭の位置はインの胸にかろうじて届く程度。袖から伸びた腕は細く、白く、柄を握る手も小さい。にもかかわらず、少女は重量のある大剣を苦もなく扱うことができた。

 今も、とくに力を振り絞る様子も見せずに軽々と大剣を肩に担ぎ上げている。このことからも、少女が性別や体格にそぐわない膂力の持ち主であることは明らかであった――それこそ化け物と畏怖されてもおかしくないほどに。



 もっとも、インはそんなことを気にかける繊細な神経の持ち主ではない。年端もいかない女の子を戦場に駆り立てることに罪悪感をおぼえることもない。

 少女の問いかけに対して、緋賊の頭目はあっさりとうなずいた。

「ああ」

「ん」

 確認を終えた少女は、なおも何かいいたげにインの顔を見上げる。それに気づいたインが怪訝そうな顔をして少女の名を呼んだ。



「キル、どうした?」

「……インを殺すのはキルだから」

「む?」

「キル以外の人間に殺されたら、ダメ」

 唐突の感をぬぐえないキルの言動であったが、インは少女――キルが言わんとすることを正確に汲み取ったようで、口元に浮かぶ笑みがほんの少しだけ質をかえたように思われた。

「心しよう」

「ん」

 その返答で満足したのだろう、キルはインから視線を外すと、再びどこを見ているかわからない茫洋とした眼差しに戻る。




 そんな二人の様子を、後方の赤眉の男たちは、ある者はにやにやと笑いながら、ある者は不思議そうに首をひねりながら、またある者は気味悪そうに眉をひそめながら眺めていた。味方から見ても、この二人の為人や関係はつかみにくいのだろう。

 特に、板金鎧で全身を包んだ、この一団の中ではキルと並んで異彩を放っている人物は、鉄兜ごしに物言いたげな眼差しをインたちへと向けていた。

 もっとも、それは二人の為人や関係に関する問いや疑念ではない。先にキルが放った「皆殺し」に対して、再考を願いたかったのである。




「皆殺しは駄目だ。そう言いたげだな、アト?」

 振り返ったインが、鉄兜に隠された相手の表情さえ見通したように甲冑兵に問いかける。

 アトと呼ばれた兵は一瞬驚いたように沈黙したが、ごまかすことではないと判断したのか、すぐに相手の問いを肯定した。

「……は。無益な殺生は避けるべき、と考えます」

 低く、通りの良い声だった。鉄兜に遮られているため、わずかにこもって聞こえたが、聞き取りに苦労することはまったくない。ただ、どこか強いて声をおさえつけている印象を受けたが、インはそれについては言及しなかった。



「敵に情けをかけるつもりはない」

 そう言うと、インは持っていた棍棒を肩に担ぎなおして、再び街道に視線を戻す。その姿はこの件で問答する意思がないことを明確に告げており、そうと悟ったアトの口から歎ずるような吐息がこぼれおちた。

 アトが手に持っていた朱柄の槍が、主の内心を伝えるようにわずかに傾く。

 この槍は先端部分に斧状の刃がつけられたハルバードと呼ばれるもので、なまじの兜や鎧であれば一撃で叩き壊す破砕力を秘めている。

 重装甲冑を身にまとい、ハルバードをふるって愚直に突進するアトの力は、縦横に大剣を振るうキルと並んで緋賊の武の要であるのだが、両者の性格はかなり異なっているようであった。




 すでに街道の一団は目と鼻の先にまで迫っている。

 アトは気を取り直したようにハルバードを構えなおし、他の兵もそれぞれに得物の握りを確かめながら頭目の号令を待った。数にして倍をこえる相手と戦うことに対して反対を唱える者はおらず、逃げ出そうとする者もいない。

 配下の視線を一身に浴びるインの目に緊張はなく、気負いもなく、ただ滾るような熱だけがある。瞳の奥、灼熱の炉の炎がひときわ強く燃え盛ったと見えた瞬間、インの口から鋭い号令が迸った。



「続けッ!」

 真っ先に街道に躍り出たのはイン自身。間髪いれずにキルが動き、アトも続いた。

 街道の一団が、襲撃、という警告の叫びを発し、あたりはたちまち騒然とした雰囲気に包まれていく。

 戦闘が始まった。




◆◆




 統一暦六三〇年現在、クイーンフィア大陸は七覇と称される列強による争覇戦の舞台となっている。中でも最も強大と目されているのが、大陸中央部に盤踞する『鋼の帝国』シュタールであった。

 自由都市ドレイクは、このシュタール帝国の南部国境に位置する自治都市のひとつであった。

 自治都市とは、ようするに帝国に多額の税金を納めることで内政自治権を買い取った都市のことだが、ドレイクに関していえば独自の外交を行うこと、独自の軍事力を保有すること、この二つも認められており、実質的に一つの都市国家として認知されている。



 帝国の頚木に悩む他の地方都市から見れば破格ともいえるこの待遇は、多額の献金とドレイク評議会の奔走によって実現したものだが、むろんというべきか、裏側には帝国の思惑もたっぷりと含まれていた。

 ドレイクの南に位置する大陸七覇の一 アルセイス王国。この王国に対する種々の謀略を、ドレイクを間にはさんで行おうとしたのである。

 いわば傀儡に仕立てあげようとしたわけだが、これを察知したアルセイス側の介入もあり、現在のドレイク評議会は帝国派、王国派、さらにはいずれにもくみさず、あくまでドレイク独自の利益を追求すべしとする独立派が入り乱れて権力を競っている状況であった。



 そんな状況下で活動するインたち緋賊は、当然のように三派いずれからも目の仇にされている。どの派閥に属する者であっても、ドレイクの繁栄は自分たちが存続する大前提であり、その繁栄を突き崩す賊徒の跳梁を放置しておく理由はない。

 したがって、こと対緋賊に関するかぎり、評議会の足並みは一致していた。緋賊の首級に多額の懸賞金をかけると共に交易路の警戒を強め、賊内部の疑心暗鬼を誘うべく「緋賊を裏切り、内情を知らせた者にはドレイクの市民権と邸宅を与える」とも布告した。



 この日、奴隷商人の護衛をつとめていたベノワ傭兵団もそのことは承知していた。というより、彼らが吝嗇な商人の護衛を引き受けた理由の大半は、奴隷商目当てにあらわれる緋賊を返り討ちにすることにあった。

 緋賊退治に成功した者に払われる褒賞の総額は新帝国金貨三百枚。二十人規模の傭兵団であれば、数年は王侯貴族のような生活ができる上に、ドレイクや周辺都市に名前を売ることもできる。

 傭兵ギルドに所属して活動すること数年、それなりの信頼と武功を積み上げてはきたものの、一流、上級と目されるクラスには到底達していないベノワ傭兵団から見れば、緋賊は願ってもない獲物であると映ったのである……





 眉を赤く染めた襲撃者の姿を認めた傭兵団の団長は、思惑どおりと言いたげに、牙のような犬歯をむき出しにして笑った。

「やはり来たか、狂犬どもめ!」

 遠からず手に入るであろう大金に思いを馳せつつ、それでも団長の目は冷静に緋賊の動きを捉えている。

 その口から矢継ぎ早に指示が下された。

「皆、敵の数は少ない。一対一で戦うな。一人に対して必ず二人でかかれ! 首を取るのは戦い終わってからでよい。自分の相手を片付けた者は他の仲間の援護にまわるのだ。街道を荒らす狂犬どもに、ベノワ傭兵団の勇猛を思い知らせてやれィッ!!」

「おお!!」

 団長の命令に配下の傭兵たちが喊声で応じた。

 次々に剣が鞘から抜き放たれ、鞘走りの音がけたたましく街道にこだまする。形としては奇襲を受けたことになるが、あらかじめ予測も覚悟もしていた彼らの顔に動揺はない。



 そうして、いざ緋賊を斬り伏せんとベノワ傭兵団は突進に移った。否、移ろうとした。

 ところが、ここで最前列に位置していた数名の動きがぴたりと止まってしまう。大剣をひきずるように走り寄ってくる少女の姿をとらえたからである。



 傭兵たちは怪訝そうに眉をひそめた。野盗に連れまわされている哀れな少女――にしては様子がおかしい。

 賊の盾にされているにしては、顔に悲哀の色がない。

 賊の手から逃れてきたにしては、助けを求める様子がない。

 野盗との戦いの最中、十を幾つも出ていないと思われる女の子が、背丈ほどもある大剣を抱えて駆け寄ってくる。眼前の光景をどのように判断したらよいのか、戦慣れした傭兵たちの心にも迷いが生じていた。



 一方のキルは、ことさら意図してその迷いを引き出したわけではなかった。自分の年齢、容姿を利用するという思考をキルは持っていない。

 キルはただ敵と戦うためにこの場にいるのであり、傭兵たちの迷いを隙と見て取って、そこに好機を見出した。

 キルの足が地面を蹴る。

 その音はいかにも軽く、鹿が跳ねたようにしか聞こえなかったが、実際のキルの動きは獲物を狙う狼のそれであった。大剣を担いでいるとは信じがたいほどに速く、鋭く、キルは先頭の敵に肉薄する。



 大剣を大上段に構えたキルが軽やかな跳躍音と共に宙に舞う。その視線の先では剣を構えた傭兵が驚いたように目を瞠っていた。

 相手は明らかにキルの動きに驚愕していたが、それでも咄嗟に剣を掲げて斬撃を防ごうとしたのは戦い慣れた傭兵ならではであっただろう。

 が、キルは委細かまわず大剣を振り下ろした。降り落ちる鉄塊はいとも容易く剣の守りを粉砕し、そのまま兜に守られた傭兵の頭部に襲い掛かる。



 ――ごしゃり、と。

 重いはずなのに、どこか軽さを感じさせる異音が周囲に響きわたった。かたい胡桃の殻を力任せに踏み潰せば、これに近い音を聞けるかもしれない。



 大剣は傭兵の頭部を文字通りに叩き潰していた。断ち割られた兜が乾いた音をたてて地面に転がり、一拍遅れて返り血が驟雨のように降り注ぐ。

 その血は着地したキルの身にも降りかかり、キルの身体が顔といわず髪といわず紅色に染められていく。少しの間を置いて、頭部を失った傭兵の身体が、キルの傍らにどうと倒れこんだ。



 頭から血を浴びて紅色に染まる少女。その足元に転がる仲間の死体。

 周囲の傭兵は、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。

 戦場であれば、人の死に直面する機会は多くある。敵の刃に蹂躙され、あるいは馬蹄にかけられて人の形を保っていない戦死者を目にするのはめずらしいことではない。

 だが、年端もいかない少女によってそれが為されたとき、平静を保つのは簡単なことではなかった。たとえ戦慣れした傭兵であっても例外ではない。

 時が止まったような沈黙を、しかし、キルはまったく意に介することはなかった。髪にへばりついた、血塊とも脳漿ともつかない物体を指ですくい、無表情のまま地面に投げ捨てる。

 次の瞬間、その足裏は激しく地面を蹴りつけていた。そうして、立ち尽くす敵の只中に突っ込んでいく。



 怒号と叫喚が交錯した。

 キルの大剣が宙を裂く都度、街道には必ず傭兵が倒れ、あるいは傭兵の身体の一部が飛散した。大剣はたちまち柄もとまで血に染まり、蜂蜜色の髪は毒々しい赤色に変じていく。

 腹を割かれた死者の臓腑が発する悪臭と、敵味方の血の臭いが混ざり合って、あたりにはたちまち吐気を催す激臭が広がっていった。

 刃の切れ味ではなく、剣そのものの重さによって敵を打ち砕く大剣は、刃にどれだけの血肉、脂がこびりつこうと戦闘力を失わない。その分、この剣は扱う者に尋常ならざる膂力と体力を要求するのだが、その双方を併せ持ったキルにとっては扱いやすい武器でしかなく、少女の形をした紅色の颱風は、どれだけ時間が経とうとも勢力を衰えさせる気配を見せなかった。




 ただ、キルの戦いぶりに問題がないわけではない。

 キルは周囲との連携を考慮しておらず、その戦い方は目につく者を片端からなぎはらっていくという単純なもの。ともすれば孤立の危険に晒されており、そして当人はそのことに気がついていなかったのである。

 そんなキルの背後を守ったのが、鋼鉄に身を包んだアトであった。

 重装備のアトにはキルのような身軽な戦い方はできない。ゆえにアトは、自分に向けられた攻撃は甲冑が弾くにまかせ、自身はひたすら長大なハルバードを振るって、キルの背後をつこうとする敵の排除に専念している。

 その視線はキル以外の味方にも注がれており、ハルバードの刃はもっぱら味方を生かすために振るわれていた。




 この頃にはすでに他の敵味方も剣撃を交えており、周囲には雄叫び、苦悶、絶叫が渦をまき、意味のある言葉を拾い上げるのは困難になりつつある。さらに、人間たちの声に混じって、脚を斬られた荷馬の悲痛ないななきも重なり、乱戦はさらに混迷の度を増していく。

 その混迷をかきわけるように、インは敵の団長に向けて歩を進めていた。

 手に持つ棍棒はひのきをけずってつくったものであり、一見すれば杖のように見える。実際、インは杖代わりにこれを使ってもいたが、むろん、ただの杖であるはずもなく、くりぬかれた内部には鉄の芯がはめ込まれていて、頑丈に強化されている。

 これで敵兵の腕や足を殴打すれば、骨の一本二本はたやすく砕き折ることができる。兜ごしに頭蓋を叩き割ることも不可能ではなく、ある意味、剣や槍よりもよほど凶悪な武器といえた。



 剣で人を斬れば刃の部分に血肉や脂がこびりついて切れ味が鈍るものだが、棒を扱う分にはそのことを気にかける必要はない。敵と斬り結んで刃こぼれすることはなく、甲冑に斬りつけて刀身が折れてしまうなどということも起こり得ない。

 頑丈さと扱いやすさが取柄のこの武器を、インは好んでよく用いているのだった。




 この棒を手に団長へ挑みかかろうとしたインの前に、馬に乗った傭兵のひとりが立ちはだかった。おそらく幹部の一人なのだろう、傭兵とは思えない立派な甲冑をまとっており、手綱さばきも達者なものだ。

「賊めッ!」

 怒号と共に繰り出された穂先は、正確にインの頭部を捉えている。

 インは足を止めず、上体を伏せて相手の攻撃に虚空を突かせると、続く馬蹄の攻撃もあぶなげなくかわしてのけた。そして、敵兵とすれ違いざま反撃を叩き込む。鞍上の兵に向けたものではない。狙いは馬の後脚であった。



 人馬の悲鳴が重なった。

 避けようもない一撃を被った軍馬は、甲高いいななきと共にくずれおち、乗っていた傭兵はたまらず地面に投げ出されてしまう。

「ぐ、この、馬を狙うとは卑劣なッ!」

 倒れこんだ傭兵は咄嗟に起き上がろうとするが、怒りと焦り、なによりも重装備のせいで思うにまかせない。傭兵には似つかわしくない甲冑といい、今しがたの台詞といい、もしかしたらこの傭兵、どこかの国の騎士だったのかもしれない。



 が、インにとっては敵の素性などどうでもいいことであった。

「やれ」

 その命令に応じて、倒れた傭兵に数名の緋賊が殺到する。群がり寄った男たちは、暴れ騒ぐ傭兵を組み伏せると、易々とその首をかききってしまった。

 こと騎兵と戦うにおいて、緋賊の戦い方は単純であり、明確である。

 馬上の敵相手に、地面に立ったまま勝負を挑んだところで勝ち目は薄い。ゆえに狙うのは人ではなく馬。剣で、棒で、槍で、矢で、とにかく馬を狙い続け、鞍上の敵を地面に引きずりおろす。一度地面に引きずり倒した後は、複数で押しつつんでこれを討ち取ってしまうのである。



 眼前で幹部を討たれた傭兵たちの顔が憤激に彩られた。

「おのれッ!!」

 団長を守っていた兵のひとりが突っ込んでくる。声からしてまだ若く、振り下ろされた剣撃も感情ばかりが先行した稚拙なものであった。

 かわすまでもない。そう判断したインは、持っていた棒を鋭く繰り出した。

「がぎゅぐッ!?」

 向かってきた傭兵の口から、どこか滑稽な濁声と、少量の血が吐き出される。その咽喉には突き出された棒の先端が深々とめりこんでいた。



 相手が地面に倒れ伏した時には、インはすでに次の相手と向かい合っている。

 殴打する、叩き伏せる、打ち据える、薙ぎ払う。

 インが縦横無尽に棒を閃かせるたびに、あたりには必ず人馬の絶叫が響き渡った。キルのそれに比べれば飛び散る血の量はわずかであったが、生み出される苦痛と憎悪の念は優るとも劣らない。

 ベノワ傭兵団は、インとキル、この二人によってほとんど一方的に斬り立てられていった。二人のすぐ後ろを支えるアトの働きにより、緋賊の側には犠牲らしい犠牲も出ていない。

 今や戦力比は明らかに緋賊の側が勝っていた。





「なんという無様な戦いだッ! 貴様ら、それでもベノワ傭兵団の一員か!?」

 憤怒の叫びと共に団長が躍り出てくる。苦戦する部下とインの間に馬を割り込ませると、馬上から憎々しげに言い放った。

「ベノワ傭兵団の長ボルツ・ベノワだ。狂犬ども、貴様らに地面を這いずる油虫程度でも誇りがあるのであれば名乗れ。すでに死は免れぬが、墓に名を刻む程度の情けは――」

 ボルツと名乗った団長は最後まで言い切ることができなかった。

 インが相手の言葉に聞く耳をもたず、馬の脚を狙って棒を一閃させたからである。



 しかし、ボルツはこの攻撃を予測していたのか、咄嗟に馬をさおだたせてインの一撃に空を切らせると、間髪いれずに反撃を繰り出してきた。

 短槍の一突きが唸りをあげてインの眼前に迫る。

 だが、ボルツが槍を引き戻したとき、穂先についていたのは血痕ではなく数本の黒髪のみ。インがほんのわずかに首を傾けることで、短槍の一撃をかわしたのである。



 そして。

 相手の攻撃をかわすと同時に、インは何も持っていない左手を霞むような速さで動かした。

「なッ!?」

 インの左腕から鈍色の鎖が伸びていく。鎖はまるで蛇のように宙に伸び、鞍上のボルツの首にからみついた。

「おの、れ……ッ!」

 右手に短槍を、左手に手綱を握っていたボルツは、咄嗟に手綱を放して首に巻きついた鎖を外そうとする。

 瞬間、鎖に加わる力が倍加した。手綱を放してしまったボルツに堪える術はなく、あえなく地面に引きずりおろされてしまう。



 地面にたたきつけられたボルツを、息が詰まるような衝撃が襲った。

 しかし、ボルツはその衝撃を飲み下して素早く立ち上がる。先に討たれた部下と異なり、ボルツの鎧は金属ではなく、動物の皮革をなめしたもので出来ている。この程度の動きは容易なことであった。

「名乗りを返すこともせず、狙うのは馬のみか。恥を知れと言いたいところだが、無意味だろうな。鉄鎖を繰るのは奴隷の技。薄汚い奴隷ごときが、恥を知っているはずがない」

 首に巻きついた鎖を握りながら、ボルツは軽蔑をあらわにインを睨みすえる。

 インは楽しげに唇を曲げて応じた。

「俺が奴隷なら、お前らはさしずめ家畜といったところか。雇い主に尻尾を振って生きるのは楽しいか?」

「ほざけ!」



 叫ぶや、ボルツは持っていた短槍を捨てると、インに向かって身体をぶつけていった。

 鎖で首を縛られたボルツは動きを制限されていたが、後ろに避けるのはともかく、前に向かって進む分には問題はない。インの側も左手が使えず、普段どおりの体さばきができる状態ではないため、組み伏せてしまえば勝機がある、と判断したのだろう。

 ボルツは上背こそインに及ばないが、手足の太さをはじめとした屈強さは明らかにインに勝っている。組み打ちの経験も豊富に持っており、ボルツの判断は決して間違ってはいなかった。



 実際、ボルツの目論見は成功する。意表をつかれたのか、インはボルツの身体を避けることができず、組み付かれてしまう。しかも、組み付かれた際に右手に持っていた棒を取り落としてしまった。空になったインの右手が、あがくようにボルツの顔に伸ばされたが、その程度で怯むボルツではない。

 このまま一気に地面に押し倒し、そのまま首の骨を砕いてやる――ボルツがそう考えた、まさにその瞬間だった。

 右の目に、かつて経験したことのない異様な感触がはしる。それは次の瞬間、脳髄を貫くような激痛に変じた。



「が、ぐガあああアアァァァァッ!?」



 ボルツの口から獣じみた絶叫が迸る。

 その右目には、インの指が深々と突き刺さっていた。

「グガ、ゴアアアッ!? きさ、きさま、貴様あああッ!?」

「吼えるな、家畜」

 相手の目から指を引き抜いたインは、そのままボルツの髪をわし掴みにすると、容赦なく地面に叩き付けた。絶叫が止んだのは、おそらく意識を失ったためであろう。それはボルツにとって幸いなことであった。



 地面に倒れ伏したボルツから一歩離れたインは、表情ひとつ変えずに右の鉄靴をあげ、ためらいなく踏み下ろした。全体重をかけて。 

 鈍く、重い音が響き、少し遅れておびただしい量の血が地面を赤く、赤く染めていく。

 その赤い色彩が、緋賊がその名を冠せられたもう一つの理由を言外に物語っていた。





勢力名    緋賊


本拠地    自由都市ドレイク(セーデ区)


主要構成員


イン・アストラ(頭目)  緋賊の頭目。ヒノキを削った棒を愛用する

キル(軽歩兵)      鉄塊のごとき大剣を扱う少女

アト(重歩兵)      全身を覆う板金鎧をまとう。緋賊に加わって間もない



戦力


軽歩兵(解放奴隷) 三〇人

雑役夫(解放奴隷) 一〇人

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