犯罪者と小説家は似たような存在
さっきはあんな風に書いたけれども、ギャンブル中毒になる人の気持ちも、わからないではない。それよりも、もっと共感できるのは、犯罪者の方だ。
たとえば、人生が上手くいかなくて、「親の育て方が悪かったせいだ!」とかなんとかわめきながら、コミケを爆破してやるといったような犯罪予告をしてしまう。あるいは、池袋か秋葉原あたりで、自動車を暴走させ、アーミーナイフを取り出して、次から次へと人を刺し殺す。
そんな風な空想をする瞬間はある。そうしたくなってしまう衝動に駆られる時だってあるだろう。僕の人生だって、1歩間違えば、そうなっていたかも知れないのだ。
でも、そうはしない。なぜか?僕には、小説があるから。小説を書き続けなければならないから。その為には、犯罪など起こしている暇はない。刑務所に入っている場合ではない。まして、死刑になどなってしまったら、それ以上1枚も原稿を書き進めることはできなくなってしまうではないか!
そこにあるのは、微妙な差なのだ。まさに、紙一重と言っていいだろう。けれども、その紙1枚分の差が大きな違いとなってくる。
ある意味で、これは“方向性の差”でもある。目指したのが犯罪者か、小説家か。それだけの違い。そこにある破壊衝動は全くと言っていいほど、同じなのだ。
あのオウム真理教の麻原彰晃だって、道が違えば、全然違う人生を歩んでいたかも知れない。宗教団体の教祖なのではなく、マンガ家や小説家を目指すべきだったのだ。そうすれば、少なくとも作品だけは残っていただろう。
自作の曲を聞く限りでは、いいセンスを持っていたと思う。シンガーソングライターにでもなれば、それなりにその世界で名を成せたかも知れない。もし仮に、世間の人々に理解されなかったとしても、評価されなかったとしても、作品だけは世に残り続けただろう。犯罪者という道を歩まずとも。それでも…




