第五話:魔法天使達が敗れるとき
第五話:魔法天使達が敗れるとき
「それが、魔法天使の姿なのね」
それは、とても優しい声でした。ここが戦いの場であることを一瞬、忘れてしまいそうなぐらいに温かな声でした。
それは、苦しんでいたわたしに救いの手を差し伸べてくれた人の声でした。彼女の人々を安らぎの夜に誘う夜のような声があったから、わたしは笑っていられる。
彼女は、わたしの恩人。なのに、今、彼女はわたしの前に立ちはだかっています。
わたしは目を見開き、彼女の姿を確認しました。
夕暮れを終え、濃い紫色のような空の下、わたしの友人はそこに立っておりました。
あの時、オリオンの攻撃が直撃する瞬間、まるで体を闇の粒子に変換したかのように霧散した小夜さんが、平然とした顔でそこに立っておりました。
「ええ、そうですわ。もしかして、小夜さんも……変身、できるのではないのですか?」 小夜さんの体からは、間違えようのない程の高密度な魔力を感じ取ることが出来ますし、先程の一件もあります。小夜さんが魔法を使えるのは確かです。ならば、わたし同様に魔法天使に変身することが出来ても不思議ではありません。半分、確信をもってわたしは問いかけましたが、小夜さんは小さく首を振り、さらに残酷な現実を突きつけてまいりました。
「変身ヒロインね。ちょっと憧れるけど、残念よね、わたしは魔法天使に変身することは出来ないのよ。だって、私は五聖天使に捧げられた、生け贄なんだもの」
その言葉が闇夜に溶けるように、またしても小夜さんの体が闇粒子となり霧散していきます。わたしは咄嗟に魔法防御壁を展開致しますが、なんと小夜さんであった闇の粒子はわたしの魔法防御壁をすり抜けてきたのです。
「あら、動揺してますよ、愛理子さん。想いが全然咲き乱れていないから、穴だらけになってるわよ」
闇の中から小夜さんの声が聞こえます。その声はとても、とても、優しかったのです。初めて出会った日ときと何ら変わりのない声でした。
普段と変わりない声が、私には耐えられないほどに怖かったのです。
わたしの中にある想いがひび割れていくかのように揺らいでいきます。
無理です。わたしは、わたしの大切な友人と戦うことなんて出来ません。
闇の粒子がわたしの背後で集結して、再びわたしの友人を形作りました。
「あまり溜めすぎるのは良くないわよ、愛理子さん。私は話を聞くだけで、助言はしない主義なんだけど、これはあなたの友人として助言しておくわ。あなたって、想いを秘めすぎてしまう所があるのよね。話ぐらいなら、私が何時でも美味しいお茶と一緒に聞いてあげるわよ」
それは毎日、執行部で他愛ない話をしているかのような声でした。こんな状況でなければ、わたしも笑いながら、冗談のひとつでも返していた事でしょう。
小夜さんの冷たい手がわたしの体を羽交い締めにしますが、わたしはもはや振りほどく気力も想いも残っておりませんでした。まるで十字架に張りつめられた聖少女のように為す術無く項垂れることしかできません。
「醜い想いは、顔に出てもまた醜い」
半壊した執行部室からオリオンが飛び降りてきました。わたしが魔法天使に変身して無事だったように、彼女も魔法を使ったのでしょう。重力を無理してゆっくりとした動作で地面に降り立ちます。わたしは何とか顔を上げて、彼女の姿を見ます。
戒律を信じる彼女は、その金髪碧眼と相まって煌めくほどに美しく見えました。それに対して今のわたしは彼女の言うようにどれだけ醜い顔をしているのでしょうか。自分で自分の顔を見ることが出来ませんから、分かりませんが、きっと見たくないほどに憔悴しきった顔をしていることでしょう。だって、わたしの中には、想いが咲き乱れていないのですから。
「お前は、自らが犯した罪が分かるか!」
怒声と共にオリオンの拳がわたしの頬を殴り飛ばします。小夜さんに後ろから羽交い締めにされていますから、殴られても倒れることすら出来ません。右に揺れた顔が、今度は返し手で左に揺れます。
「汚れた天使よ、自覚しているか、その罪を! 自覚しているのなら、述べてみよ、その口で、その想いで、その罪を!!」
オリオンの殴打は止まりません。わたしの顔は何度も何度もメトロノームよろしく左右への往復を繰り返します。揺れ続ける視界と振れ続ける思考の中、わたしは考えました。
何故、このような事になってしまったのでしょうか。
何故、小夜さんが生け贄に成らなければならなかったのでしょうか。
何故、昨日までは一緒に笑い合っていた小夜さんが、こんなにも変わってしまったのでしょうか。
わたしは自分に問いかけます。もちろん、わたしが答えを知っているわけではありません。ですが、わたしはずっと想っておりました。いつか、わたしが裁かれる日がやってくると予感しておりました。
これが裁きなのでしょう。罪を犯したわたしへの報いなのでしょう。
「わたしは………」
気がついた時には、わたしの口は勝手に言葉を紡いでおりました。
オリオンの殴打が止まり、わたしの顔は、垂れ下がったケーブルのように下を向き、オリオンの顔も小夜さんの顔も見ることが出来ません。
「わたしは……」
想いが勝手に口から言葉となって出て来てしまいます。
秘めた想いは言葉にしなければ無いのと同じです。それはつまり言葉にしてしまえば、自分の中の想いを認めてしまうことになります。
わたしは心の中で、叫びました。自分の中にある想いを認めたくはありませんでした。
今、わたしが手にしている幸せを壊したくありませんでした。わたしの想いが叫びます。でも、わたしの真摯な想いは言葉になりません。
「わたしは……」
わたしの口から言葉として出るのは、自責の想いです。定香ちゃんと精神が入れ替わったときからずっと心に秘めていた想いが、ついに咲き乱れてしまいます。
止めて、とわたしの想いが悲痛な想いを叫ぶ一方で、これで楽になれるともう一方のわたしの想いが弛緩します。
「わたしは………実の兄を愛して……しまいました」
想いが言葉となり、わたしは自ら罪を認めてしまいました。
「ふふふ。良いぞ、そうだ。お前は血の繋がった兄を愛した。ましてや、想いを他人の心に入替え、性欲に想いをはせていた。その卑猥で強欲な罪、われらが神の制裁によって、改められ、清められるべきなのだ!!」
オリオンがまたわたしの髪を引っ張り、無理矢理わたしの顔を上に上げます。見上げた先でオリオンの顔がぼやけてます。ああ、どうやらわたしは泣いているようですね。声を上げることなく、ただ言葉にならない想いが溢れるかのように涙となってこぼれ落ちていきます。でも、この涙に込められた想いは一体なんなのでしょうか。
いまや、わたしの想いは空っぽになってしまいました。
わたしの想いの中には、もはや何も秘められておらず、どんな想いも咲き乱れておりません。こんなわたしが一体どんな想いを涙に込めているというのでしょうか。
「涙か。それは、罪を清める美しい聖水だ」
涙に濡れるわたしの顔をオリオンは美しいと称しました。こんな言葉もわたしの心には響かず、わたしは声を上げることなく涙だけを流し続けていました。
「そうだ。泣け。その涙がお前を清らかにする。罪を認め、己の罪を悔い、天使の称号を捨てろ。五聖天使を前に、神に誓え。実の兄を愛した俺の罪深き業を断ち切ると!!」
オリオンの怒号の前に、わたしは赤子のように怯えるしか出来ませんでした。
空っぽの想いの中に僅かに芽生えた恐怖という感情。わたしはその僅かな想いに突き動かされるように想いのない言葉を紡ごうとします。
「わたしは、実の兄を、愛しました。これは罪です。……………ですから、わたしは………」
言葉は想いそのものです。もし、そこに想いが込められていないとしても言葉になった瞬間に想いもまた生まれてしまうのです。例え、これが偽りの言葉であって、偽りの想いであったとしても、”想い”は生まれてしまうのです。
「……わたしは……わたしは………」
そこから先を紡ぐことが出来ません。空っぽになったはずのわたしの想いが、想いを言葉にするのを拒んでいるのです。いや、違います。わたしの中にある想いが、偽りの想いを否定しているのです。
空っぽになってしまったはずのわたしの想いは、確かにここにありました。もうわたしでは見ることも感じるとも出来ない想いですが、どうやら、わたしの中には想いがまだ残っているようです。
「どうした、早く誓え。神のお許しで、その身を清めるのだ!!」
髪を引っ張れているため大きくは動かせませんが、わたしは静かに首を横へ振りました。わたしの中にあった想いに従ってオリオンの神を否定したのです。
「っぶっぐ」
その瞬間、オリオンの正拳がわたしの顔を正面から捉えました。顔を動かすことも出来ず、オリオンの想いがそのまま力になったかのような拳が、再びわたしの想いを断ち切ろうとします。なのに、どうしてなのでしょう。体も心も目の前の暴力に悲鳴を上げているというのに、胸の中の想いだけは頑固なまでに折れてはくれません。
瞳からは未だに涙が流れておりますし、先程の攻撃で鼻と口からは血が流れ落ちていますが、わたしはたった一つの想いにだけ支えられ、オリオンの信じる神に誓いをたて、堕ちるのを拒み続けています。
「愛理子さん。早く、堕ちてしまった方が、体も心も楽になれますよ。そして、また、みんなで楽しく生きていましょう」
小夜さんの声が甘い媚薬の様に体中に染み渡ってきます。既に折れてしまっていた心は今の一言で完全に崩れ落ちてしまった事でしょう。オリオンと名乗る魔法使いの下で、また小夜さんと美味しいお茶を飲む日々なんて空想がまるでミルクのように甘くわたしの頭を浸していきます。
甘くて、痛くもなくて、優しくて、気持ちいい世界がそこにあります。たった一言、偽りでも良いから一言。神に誓えば良いのです。
わたしは、わたしの犯した罪を断ち切ります。
その一言を言うだけです。簡単な事のはずです。子供にだって出来ることです。
「ごめん、なさい………。どうして、でしょう。わたし…は、いまえせん」
それなのに、やっぱり、わたしの奥底にある想いが、そんな甘い誘惑を拒み続けているのです。
「醜い。何故、お前の想いはそれ程までに醜いのだ。神は、お嘆きだ。神が、これほどまでに寛容な心で、お前の罪を許そうとしているのに、それさえもお前の腐り果てた想いには届かぬというのか! その想い、どこまで堕ちているというのだ!!」
再び、オリオンの正拳がわたしの顔を殴りつけます。もう何回目か分かりませんが、脳が揺れすぎてそろそろ本格的に意識が朦朧としてきました。歪んみ揺れ続けるビジョンの先に、いつもの四人で囲む食卓、執行部室での一時、定香ちゃんと一緒に変身する瞬間、お兄様と一緒に過ごした一夜がまるで走馬燈のように見えていきます。
「!?」
前触れもなく、顔への殴打が止まりました。涙だけのせいではなくぼやけた視界の先に見えたのは、大きくはないですけど、とても安心できる彼女の掌でした。
「オリオン様、お止め下さい。それ以上、やりますと、愛理子さんが死んでしまいますよ。オリオン様の目的は愛理子さんを殺すことでなく、清めることなのですよね。それとも、わたしに語って頂いた、あの想いは偽りだというのですか」
オリオンの拳を受け止めた小夜さんが、変わらず優しい声で問いかけます。朦朧とした意識の中ですが、小夜さんにしては珍しくその声には少なからずの怒気が含まれているようにも感じられてました。わたしを羽交い締めにしていた小夜さんの手が離れ、わたしは地面に倒れ伏せます。体も心もそして想いも傷だらけのわたしはもはや立ち続けることも出来ないのです。
口の中に血のと砂の味が拡がっていく中、わたしの上ではオリオンと小夜さんが未だににらみ合っております。
「貴様は生け贄だというのに、われに口答えをするというのか」
「生け贄だろうと関係ありません。わたしは永沢小夜よ。わたしの想いはいつもここにあるの」
張りつめた水面のような何処までも静かな空気がこの場を支配しますが、その空気を断ち切ったのはわたしのよく知る第三者の声でした。
「はい。スト~~プ。オリオン様も、小夜も、そんなににらみ合っていたら駄目だろう。僕たちの目的は、いがみ合う事じゃないんだからさ。僕たち三人、仲良くやっていこうぜ」
視界を上げるだけの気力はもう残っておりませんが、小夜さん同様に彼女の声もほぼ毎日聞いておりますから、この声だけで第三者が誰であるかを知るには十分でした。
「紅音さん。そうね。すみません、オリオン様。少々出過ぎたまねをしてしまいましたわ」
小夜さんが言ったようにこの場に現れた第三者の名前は、月嶋紅音さん。
でも、これは少し考えてみれば分かることでした。わたしはあの時、三つの道の魔力反応を捉えていたのです。
そして、紅音さんは小夜さんの大親友。小夜さんの身に何かが起きた場合もっとも早く行動を起こすのは、彼女だったのでしょう。あるいは、もしかしたら、小夜さんと一緒にいるときにオリオンと出会ってしまったのかも知れません。小夜さんが生け贄になっていた時点で、紅音さんも生け贄になっていたと考えなければなりませんでした。
怒りで我を忘れていたわたしは、目の前のことに一杯で冷静に考える事が出来ていませんでした。
そして、もう一つ。
紅音さんが遅れてこの場にやって来た理由です。オリオンと小夜さんはわたしに襲いかかってきたのに、紅音さんは遅れてやって来た。これが意味するのはもはや一つの可能性しか残っておりません。
「紅音。愛理子の汚れた想いはわれでも、清めることは出来なかった。そっちは首尾は?」
「あ~~、こっちも同じだったぜ。分かっていた事だけど、こいつは言って聞くような奴じゃないからな。清々しいまでの猪突猛進娘。頭より先に想いで動いてしまう奴だからな。魔法天使に変身できないというのに、生身で僕に向かってきた時は正直、ビックリしたね」
ここまで担いで運んできたのでしょうか。ドテという音と共にわたしの視界に定香ちゃんが現れます。ですが、その姿はわたしの知っている定香ちゃんとは違い、体中傷だらけでわたし同様に息も絶えてしまいそうなほどに小さなものでした。
「愛理子……」
定香ちゃんがゆっくりとわたしに向かい手を伸ばしてきます。わたしも縋る想いで手を伸ばしますが、わたしの手はオリオンによって踏みつけられてしまいます。
痛覚なんてもはや麻痺してしまっており、痛みは感じませんが、まるで煙草の火を消すかのように、足首を捻り、わたしの想いを踏みにじっていきます。
「愛欲に溺れし、二人の魔女よ。よくと聞くが良い。神がお前らふたりに与えた時間は残り24時間である。それまでに、己の罪を認め、その罪を自らの手で清めるが良い。さすれば、神は二人の罪をお許しになることだろう。もし、自らの手で清めが行われない場合、われが手にある二人の生け贄の想いは全て魔法へ変わり、われが忠実な武器へと生まれ変わるであろう。これは神への宣誓の儀である。残るは、審判の儀を残すのみ。神は、お前らに清らかな決断をお望みだ」
オリオンが一方的に宣誓を告げた。
わたしはそんな独善的とも言える宣告に何も言い返せませんでした。言い返す気力もありませんでしたし、何より自分の想いがわたしには信じられなくなっていたのです。
定香ちゃんは何かを言おうと口を動かしておりますが、呼吸がままならない状態では言葉が上手く出てくるはずもありません。
「では、醜き二人の魔女よ。審判の儀、またここで会おう」
その言葉を最後にして、オリオンと彼女に捧げられた二人の生け贄の気配が消えたのです。
襲撃者が居なくなったことで、わたしの張りつめていた何かが無くなっていきます。視界は闇に染まり、思考も、そして、想いまでも闇に染まっていきます。もうすぐ、全てを忘れて闇に逃げることが出来ると思った瞬間、わたしの手に確かな存在感を持った別の手が覆い被さってきました。
ああ、これでわたしは闇の中でも自分を見失わないで済みますわ。
心に安堵を秘め、わたしの全ては闇の中へと堕ちていきました。




