第三話:幸せのその先にあるもの
第三話:幸せのその先にあるもの
夜になり、いつもの四人で夕食を終えたあたしは、食器の後片付けを定香ちゃんにお任せして、蘭お兄様のお部屋にまいりました。
「蘭お兄様、いつも言っておりますけど、もう少し、お部屋を片付けにならないのですか」
蘭お兄さんの部屋は、またしてもマグニチュード5以上の地震が来た後の図書館であるかのように散らかっておりました。
「わりぃ。私は何処にどれがあるか分かるから、これで全然困らないんだがな。すまないが、いつものように直してくれると助かる」
「もう、お兄様は」
わたしは、両手を腰に当てため息を一つ漏らしますが、机に向かって脇目もふらずに勉強しているお兄様の姿を見ていると、それ以上は何も言えません。
勉強熱心なのはとても良いことなのですが、勉強に集中しすぎて参考書やらが自然と部屋中に散らばっていくのだけは止めて欲しい所です。
一週間前もわたしが所定の場所に戻したというのに、もう以前の状態に元通りです。わたしはため息をもう一つついて、部屋中に散らばった本を本棚へ戻していきます。
一週間に一度はこうして、司書さんのように本棚への返却作業をしていますから、何処にどの参考書を戻せばよいのか、体が勝手に覚えてしまっていましたわ。
30分ぐらい掛けて部屋中に散らばっていた本を所定の場所に戻したわたしは、そのままクローゼットを開けてお兄様のスポーツバックを取り出します。そして、四日分の着替えと、ちょっと恥ずかしいですけど下着と、歯磨きやら櫛にあぶらとり紙などのお泊まりセットをスポーツバックの中へ入れていきます。
「お兄様、生活用品はわたしで準備できますけど、持っていく参考書などはお兄様自身で準備してください」
しかし、私の呼びかけにお兄様は答えません。
きっと声が届かない程に今のお兄様は集中しているのでしょう。世界でただ一人だけであるかのように、お兄様は参考書と向かい合っております。
わたしの声に気づいてくれなかったのは、ちょっぴり悲しいですけど、それ以上に、一心不乱な姿のお兄様にわたしは心ときめいてしまいました。わたしは音を立てないように静かにお兄様のベットに腰掛け、わたしが世界で一番大好きな人の背中を見つめ続けます。
鉛筆が紙の上を走る音だけが静かに木霊する世界で、わたしとお兄様の二人っきり。
涙が出そうなぐらい、幸せな時間がゆっくりと流れ続けます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1時間程、わたしはお兄様の背中を眺め続けていたでしょうか。その間、魔法天使になってから、これまでの出来事を思い出しておりました。
お兄様が次元の闇に消え、お兄様を助け出すために魔法天使になり、お兄様を助け出すためには邪魔な存在であった誠流様に偽りの恋心を抱いて近づき、定香ちゃんと出会い、魔法天使同士譲れる想いを秘めて弾けさせ激突し、でも、定香ちゃんはわたしの想いを知って、わたしの想いを蘭さんに届けてくれて、わたしの定香ちゃんの体が入れ替わって、今、わたしは幸せな時を過ごしている。
あの一連の出来事の先に、今の幸せな時があるのです。
『これより五聖天使の名の元に制裁が行われる。神はお怒りだ。その罪、己らだけで清められるとは常々思わぬ事だ』
オリオンと名乗った女性の声が思い出されます。彼女の目的は一体なんなのでしょうか。彼女の戦いの先に待ち受けているのは、また幸せなハッピー・エンドなのでしょうか?
わたしは、一人、不安な想いを秘め続けます。
「愛理子。どうした、そんなに辛そうな顔して?」
お兄様の声にはっとしたわたしは自分の視線が下を向いていたことにやっと気がつきました。慌てて視線を上げると、お兄様が優しく微笑んでおりました。
「いえ、何でもありませんわ。それよりもお兄様、本日はもう終わりなのですか?」
「ああ、明日は始発だからな。わりぃな、準備してくれて。助かるわ」
そう言って、お兄様はわたしの方へ歩み寄ってきます。
べ、別に今朝のお兄様の発言をい、意識しているわけではないのですが、わたしの胸が自然と高鳴ってきます。ああ、今朝の定香ちゃんの声が、何度も、頭の中に渦巻いてしまいます。
確かに、最近ご無沙汰でしけど、明日は、お兄様も早いのですから、あまり無理強いは、出来ません。
でも、やっぱり、わたしも女の子なのですから、それは、ですね。
「愛理子」
お兄様の甘い声がわたしの想いを溶かします。お兄様と視線が絡み合い、わたしは静かに瞼を閉じました。視界が無くなった分、聴覚が敏感になったのでしょうか。恥ずかしいぐらいに胸の動悸が体中に響いております。
蘭お兄様。
わたしの想いがお兄様の事で一杯になった瞬間、唇を通じて二人の想いが重なり合います。
静かに、お互いの想いを舐め取るかのような甘いキス。わたしはまるで桃源郷に飛ばされたかのようにこの幸せに酔いしれておりました。
やがて、お兄様の唇が離れます。はしたないとお想いになるかもしれませんが、わたしはその次を期待しておりました。ですが、お兄様の唇も手も一向にわたしに触れてきません。
ほんの少しだけ不信に思いましたわたしは、静かに瞼を上げます。
「お兄……様?」
わたしの視界に入ってきたのは、何故だか悲しそうに自嘲的な笑みを浮かべたお兄様でした。
つい先程まで、あれほど甘いキスをしていたというのに、何故、お兄様はそのような顔をしているのでしょうか?
しかし、わたしの疑問は口から出て言葉に成ることはありませんでした。
「愛理子。君は、最近、いつもそうだ。何故、キスをするとそうも、辛そうな顔をしているのだ?」
何故なら、お兄様の方からわたしに全く同じ質問をしてきたからです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夜空には三日月が浮かんでおります。
わたしは一人ベランダに出て、煌めく夜空を眺めております。
『何故、キスをするとそうも、辛そうな顔をしているのだ?』
お兄様の質問にわたしは答えられませんでした。自分でも自覚はありませんでしたが、改めて考えてみると、自分の想いの中に思い当たる節はいつくかあるのです。
ただ、わたしはその想いを言葉にする勇気と持っておりませんでした。
秘めた想いは言葉にしなければ無いのと同じです。これはつまり言葉にしてしまえば、自分の中の想いを認めてしまうことになります。
その事がわたしには非常に怖くて、「ごめんなさい」とだけ呟いて、逃げ出すように自分の部屋へと戻ってきたのです。
「お兄様、わたしは辛いのではないのですわ。きっと怖いのだと想います」
夜空に浮かぶ三日月に言葉をぶつけます。
お兄様と愛し合える幸せ、定香ちゃんや誠流様も含めた生活、小夜さんや紅音さんとの執行部活動、そして、わたしと定香ちゃんの前に現れたオリオンと名乗る五聖天使。
そんな今に、わたしは確かに怯えています。
「愛理子さん!!」
「っひゃ!?」
イリルさんが突如として庭から浮き上がってきました。前触れもなくまるでからかさ小僧の如く出現した彼を見て、わたしはつい悲鳴を上げてしまいました。
「あれ? もしかして自分、愛理子さんを驚かせてしまいましたか?」
「真夜中にいきなり、喋る杖が浮かび上がってきたら、誰だって驚きますわよ」
お兄様とキスをした時とは明らかに違うリズムで高鳴っている胸に手を当てて平穏を装います。定香ちゃんが常々、イリルさんは空気の読めない相棒と言っておりますが、その点に関してはわたしも同意です。
人が悩んでいる時に、こんなドッキリにも似た事をしてくるなんて。しかも、彼にはまったくその気がないというのがさらに問題な所でしょう。
「あ、それはすみません。愛理子さんの事ですから、てっきり自分の魔力に気がついてくれるとおもったのですけど」
確かに、普段のわたしなら浮かび上がってくるイリルさんに気がついたかも知れません。
「わたしだって、気を抜きたくなる時はありますよ。それよりも、また勝手に定香ちゃんの所を抜け出して、後でしかられますよ」
自分で言っておいてなんですが、こう言ってしまいますと、イリルさんが定香ちゃんのペットのような気分がしてきます。魔法少女と魔法の杖って元来もっと対等な関係だと思っていたのですが、現実とは厳しいものですね。
「いえいえ。その点についてはご心配なく。さんざん、怒られましたけど、誠流さんのお助けもあり、なんとか外泊の許可を得たところなのですよ。後は、定香さんの気が変わる前に、本部に戻るだけですから」
「本部へ戻る……のですか? ついに定香ちゃんの扱いに不満が溜まりに溜まって家出ですか?」
思わず、本気で尋ね返してしまいます。
「あはは、そうなんですよ。もう、愛理子さんも毎日見てたら分かりますよね。定香さんが魔法天使に変身できるのは、自分がいるからだって言うのに、あの人は自分を物でも扱うみたいに…………って、違いますよ!! そうじゃなくて、ちゃんと外泊許可をいただいたと言いましたでしょう。自分は今日現れた、あの五聖天使について調べるために、本部へ戻るのですよ」
「あら、そうなのですか」
とは言うものの最初の方は間違えなく本心なのでしょう。わたしが色々と悩んでいるようにイリルさんもイリルさんなりに苦労やら悩みを抱えているのですね。
今度、それとなく定香ちゃんには注意しておこうと思いますけど、注意して良くなるぐらいなら、イリルさんもこんなに悩むことはありませんでしょうね。
「はい。どうにかして、明日には戻ってくるつもりですが、それまでの間、定香さんはパラレル・ティーカに変身する事が出来ません。昨日の今日で敵が襲ってこないとは言い切れない状況ですが、敵は相当な魔力を持ち、愛理子さんと定香さんが魔法天使であることを知っています」
「それに対して、わたし達は彼女の事、五聖天使の事については何も知らない。このままでは不利な戦いですね」
「ですから、少しでも五聖天使についての情報を得ようと自分は本部へ戻ります。繰り返しますが、明日一日、定香さんは魔法天使に変身できません。もし、敵が強襲してきた場合、戦えるのは愛理子さん、あなた一人だけなのです」
夜風が想いを乗せ重くなったような気がしました。そんな重圧を紛らわすようにわたしは呟きます。
「それは、賭ですね」
「はい。ですが、守りに入っても状況は改善されません。定香さんが言ってましたよ、当たって砕けろ、想いは弾けてなんぼのものだよってね。だから、ここは危険な橋を渡ろうと思います。明日、敵が襲ってこなければ、状況はいくらか改善されるはずです」
「砕けては駄目でしょう」
ついツッコミを入れてしまいますが、イリルさんの想いは変わりませんでした。
「いえいえ、砕けて弾けて、想いは伝わる物なんですよ。ふふ、定香さんの相棒やってると、嫌でもこんな風に思うようになりますよ」
まんざらでもなく、むしろ少しだけ誇らしげな声が闇夜の中に木霊しました。
相手のことを信頼し、共感しているからこその想いが今、わたしの目の前にあります。
「やっぱり、あなたと定香ちゃんは、最高のコンビですね。わかりましたわ。明日一日を、わたし、シリアル・アリスが、一人で乗り切って見せますわ」
「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します。その変わりに、必ず、自分の達の有利となる情報を持って帰ってきますから。っと言うか、アレだけ大見得切ったのですから、これで成果がなかったら、定香さんが…………ああああ、恐ろしい」
格好いいシーンのはずなのに、イリルさんは何かトラウマでも思い出したかのように、震え上がりました。
本当に、空気の読めない魔法の杖さんですこと。
でも、おかげでほんの少しだけ心が晴れましたわ。
わたしの中にある、今に対するこの恐怖は消えませんが、多分また明日も幸せな日々を過ごしていけそうな気がします。あの涙が出るぐらいに幸福な日々を、笑顔で過ごせると思いますわ。
幸せを、恐れることなく、ね。




