姉を好きな君を好き
「くっさ」
通りすがりに吐き捨てられた言葉には何の感情も込められておらず、ただ事実を事実として告げただけの冷淡さと無関心さが垣間見えていた。
教室ではどこかしこから笑い声が聞こえるが、その話題は昨日の噂話だったり、友人通しに共有される他者には知り得ぬ話題だったり、私が予想したような自意識過剰な話題は何一つとして話されていない。
それはこの教室だけの話ではなく、この校舎内すべてでもそうなんだろう。
誰もが私という人間に興味がなく、こんなにも人間がいるのに、私はただ孤独だった。
再び私は机の上の惨状に目を向ける。
存在していない私の机は時々親切な誰かが片付けてしまうことがあるので、私は常に教科書や鞄を持ち歩いていた。
机の上には生ごみがぶちまけられていた。
誰が持ってきたのかはわからないけど、わざわざ持ってきたのだろうか。
それを滑稽にも思うけど、笑える余裕はなく、これからの掃除と悪臭に憂鬱になった。
無関心な人々は、時々思い出したように、単なる気まぐれなのか、こうして細々とした嫌がらせをする。
教室の中にある、雑巾を手に取り、水に濡らそうと水道に向かおうとすると、私を透明人間のように扱う同級生がぶつかってくる。
私は透明人間なので、同級生の進路上に私がいるとそのままぶつかってくる。
私だって痛い思いはしたくない。
だから私は常日頃他の人々の移動に気を使っているけど、少しでも注意散漫になるとこういう事故を起こしてしまう。
友人たちの輪に何事もなかったかのように戻るのを見つめて、私も何事もなかったかのように水道へと向かう。
雑巾を水で濡らし、絞る。
「レイラちゃん」
溜息を無意識にこぼしてしまう。
聞き覚えのある声だ。
突然のことだったが私は既に背後にいるのが誰なのかを察していた。
肩を叩かれ、振り返る。
「…姉さん」
悲しげに私を見つめるのは一つ上の、血縁上の繋がりはないが、姉であった。
背中まで伸びた長い黒髪、視線を落とした時に気付くまつ毛の長さ、つまみたくなるような唇、触れるのを躊躇うような清廉さ、なのに真っ白な肌が少し赤く色づくと言い知れぬ色気がにじみ出る。
美しい女性だ。
そしてその女性を囲むのも美しい人々だった。
完成された楽園は、それを見守る他者にも異物の侵入を許さない。
異物。
そう、それが私だ。
「大丈夫よ、テオが新しい机を持ってきてくれるから」
いじめられている可哀想な妹を見守り、助けるのが姉の役割だと、彼女は信じているようだった。
外見だけでなく内面まで美しい女性だ。
全く、これが私の姉だというのだから、神様も残酷な真似をなさる。
もちろん、この残酷は私ではなく、姉に対してだ。
私さえいなければ、姉は美しい人々に守られて、優しいだけの世界で何も知らずに生きられたはずだ。
それが何の因果か、両親が再婚し、こんな私のようなお荷物を背負うはめになり、姉はこの世界がただただ美しいだけの世界ではないと気づかされた。
どこか知らない国の紛争で数えきれない人々が織りなす遠い悲劇の物語よりも、身近で起きる小さな疵が姉を傷付けた。
その落としきれない影が姉の美しさに深みを与えたのだが、私はそんな深みなどなくても十分に姉は美しかったと思う。
なので私という存在が、姉の美しさを増やしたのだという自負はこれっぽちも存在しない。
そういう存在理由など私は求めていない。
よく聞かれるのだが、こうしていじめのような真似をうけて、私が姉を恨まないかと人々は言う。
おいおい、逆に私は姉が私を恨まないかを心配しているくらいだぜ?
「ありがとう、姉さん」
掃除の手間が省けたのは単純にうれしい。
ただ、姉は知らないが、私がこうして思い出したようにいじめのような行為を受けるのは、大半があの美しい人々と関わるためだ。
関わるといっても、あの美しい人々は姉を思いやってのことで、私に対して関心などクラスメイト同様持っていない。
だがそれを周囲の人々は判断できないし、私が優しい姉に付け込んでいると思っているのだろう。
そして、その中には真実も含まれているから、あながち間違いとは言えないのだ。
「ソフィア」
美しい人々の中でも一等美しい人が姉に声をかけた。
夜に浮かぶ月のような彼と姉が並ぶと、一対の絵のような完成された美がそこにはあった。
「エド」
「そのような顔をするな。…妹も不安になるぞ」
はっとしたように私を見て、固い表情で笑みを作る。
「そう、だね。…そうだ、レイラ、お昼一緒に食べる?」
いつもは美しい人々と行動することを断る私だが、今のように言い逃れのできない状況で姉を無駄に不安がらせてしまった場合は、別である。
私は頷き、それを見て、憂いのなくなった笑みを見せる姉。
それを契機に私たちはとりあえず昼休みまでの間の別れを口にして、それぞれの教室に戻った。
私が教室に再び戻ると、机は真新しいものと変わっていた。
先ほどとは違って、静まり返っていた教室が私の登場で、悪意の満ちた空間に変わる。
美しい人々の手を煩わせた私を詰る言葉ばかりだ。
だけれど、私は周囲の人々から受ける悪意を些細なものだと認識している。
人々は私に直接的な暴力に訴えることはない。
その発想すらないのだから、本来であれば善良な人々なのだ。
誰かを恨むことを知らずに、そして罪悪感などにも苦しまずに済んだのだ。
そう、私さえいなければ。
クラスメイトも担任すらも、加害者でもあり、被害者でもあった。
たった一粒の異物が楽園を壊すこともあるのだ。
私は新しくなった机にうつ伏せた。
人々の幸福を犠牲にしてでも、私は手に入れたいものがあった。
姉と美しい人々は大所帯なので、そのような集団でランチを楽しめる場所というのは限られてくる。
だから、晴れた日は大抵屋上にいる。
他の生徒たちもそれを知っているので、暗黙の了解のように屋上には誰も近づかない。
「レイラ」
手招きされて私は彼の隣に座った。
美しい人々の中でも、特に私に声をかけ、気を使ってくれるのが、さっき私の机を替えてくれたテオだ。
お節介焼きだと美しい人々の間で称される彼は、誰にでも優しく、特に私のようなコミュ障には殊更気をつかう。
「ちゃんと食べててる?お弁当は?ほら、ボクのと交換しよう」
そうして手渡されたお弁当。
いつもながら、プロ並みの腕前だ。
稀に昼を共にすると、こうしてテオが栄養に偏りのある私を心配してお弁当を交換してくれる。
それを拒否しても姉を味方につけて押し問答をするはめになり、その結果姉を含めて昼を食べられないという悲惨な結果を招くため、私は早々に抗議を諦めて、好意に甘えることにしている。
「家でもちゃんと食べてなきゃだめだよ?もう、レイラは目を離すと食べるのをサボっちゃうから心配だな」
せっせと肉を口に運ぶ私に話しかけるテオに、姉は少し笑う。
いや、肉、なのか?…にしては小洒落てる。
料理を作らない私にはわからないが、テオは私には名前もわからないような料理を持ってくる。
「テオ、お母さんみたいだね」
「そうかな?でも、レイラって、心配になるんだよね」
うそつき。
一瞬止まる箸に気付き、首を振る。
違う違うそうじゃない。
あれは勘違いした私が悪いし、それでも許されると甘えていた子どもの私が馬鹿だったんだ。
思い上がりもいい加減にしろよ!
私のようなクズが、存在するだけの悪が、まるで裸の王様のように慢心し、傲慢さで人々を傷付けておきながら、それに気付きもしない過去の私の愚かさが、クソが…ッ!
あの頃の黒歴史を思い出すと、胸やけがして、呼吸が苦しくなる。
だから私はテオが一番苦手だった。
思い出したくもないことを、彼はふとした瞬間蘇らせてしまうから。
それも彼が悪いわけじゃないのに、そんなことを思ってしまう私の醜さと対面してしまうから。
「本当、テオはそいつがお気に入りだな」
退屈そうな、何の興味もなさそうな声だった。
私はお弁当から顔を上げ、声の主を見つめた。
美しい人々はクライブと呼ぶので、私も心の中ではいつも彼をクライブと呼んでいる。
ただ、声に出してそう呼ぶ勇気は私にはなかった。
大半の人々は私と同じで、彼をミュラーと呼ぶ。
許されるのは、彼が心を許す人だけ。
そして、私が他人を不幸にしてまでも、傍にいたい理由が彼だった。
私は彼に恋していた。
「不思議だな。時々ソフィアよりもそいつが」
「クライヴ」
鋭く、咎めるような響きに、クライヴは両手を上げて、悪かったと言った。
「そんな目で俺を見るなよ、失言だった」
「ボクはただ、レイラが心配なだけで、誰が上だとか下だとかじゃないんだよ」
「そうだな。お前はそういう奴だな」
残酷な奴だ、と呟いたクライヴは明らかに勘違いをしていたが、私はそれを正すことをしなければ、テオはそれに気付きもしていなかった。
そういいながらもクライヴは私に同情の一欠けらもしなかったから、私はそういう彼が好きだった。
彼にとっての世界は単純で、彼の身内と他人のどちらか二つしか存在していない。
そして、彼は姉を愛していた。
姉の周囲を身内だけで固めるほど、妄執なまでに愛していた。
美しい人々はそのほとんどが身内だけの籠った世界に生きていて、他者を意識的にも無意識的にも排除している。
その中でもコミュ力のある彼は、対外的には他者と交流を持ち、時にはコミュ障とも言える美しい人々と世間とを取り持つ役割をしていた。
それは結果的に、姉を世間から隔離するはめになった。
それが彼の思惑通りであり、愛だった。
排除する対象でありながら、姉の家族であるただそれだけで下手に手をだすこともできない私も、時間をかけて徐々に彼は私を姉と美しい人々から引き離すのだろう。
姉を優しい世界だけで満たそうとする、美しいまでの愛だ。
他の人たちとは違う。
コミュニケーションをとれないから姉に縋るしかない人とは違う。
姉以外とも親しくしている人とは違う。
姉以外をも認めた人とは違う。
姉以外を愛した人とは違う。
彼は、姉以外を愛さない。
他者と交流を持ちながら、彼は頑なまでにその心を受け渡すことはない。
人好きのする笑みの裏では計略を、老獪なまでに人々を騙し、利用し、捨てる。
歪んだ一途さ、それこそが、私の望んだ愛だった。
姉を裏切ることのない、他の人間になびくことのない、年月によってほだされることのない、頑なな愛情。
美しい人の、美しくもない愛。
私は、世界を信じちゃいないが、彼の愛だけは信じられた。
信じられるものもいない世界で、彼の愛だけが私の指針であった。
私を絶対に愛さないからこそ、私は彼を愛していた。
「もう、エドったら、また零してる」
「ああ、悪いな」
なのに、どうして。
姉は私たちのやり取りすらも見ていない。
姉はぽろぽろとご飯粒を零した美しい男の世話を焼きながら、笑っていた。
そんな様を見せつける彼らを、美しい人々は諦観の元にそれでも守ろうとしていた。
クライヴもその一人であった。
姉は彼を選ばなかった。
だけど、選ばれないからって、諦めれるのか?
美しい人々の中には姉以外の人を愛した人もいた。
それでいいの?そんなものが愛と呼べるの?
…そんな愛など、愛じゃない!!
彼だけは違う。
彼だけは
「レイラ」
テオの声に我に返る。
止まっていた箸を動かし、お弁当の中身をかき込むが、せっかくの美味しい料理のはずなのに味がしない。
クライヴはもう私たちに興味がないらしく、彼もお弁当を咀嚼していた。
「明日もこうして君と一緒に食べたいな」
そう寂しげにぽつりとつぶやくテオを、口にたくさんものを詰め込むことで無視した。
もう傷付くのも傷付けるのも嫌だった。
裏切られたなんて思う被害者じみた自分の傲慢さも嫌だった。
自分の醜さも弱さも、因果応報のような過去の結末も…もう思い出したくない。
クライヴは、姉以外誰も愛さない。
ぶれることなく、姉だけを愛している。
だから、私を傷付けることもない。
私はいつだって、自分のためでしか生きれない醜い生き物だった。
私は思いあがった子どもだった。
テオの優しさに甘えていたことも気付かない愚かな子どもだった。
誰もが私に無関心で、だからこそ私は、そんな私を見てくれるテオを身内だと思っていた。
思い上がりもいい加減にしろ!
私みたいな存在するだけの悪意の塊がそんなことに気付かずにのうのうと生きていたなんて反吐がでる!
あの日私は、鞄を部屋に置き、テオの家へと向かっていた。
再婚する前も後も、父は私を自分を裏切った女の子どもとしか見てなかった。
だから再婚してからも父の態度は変わらず無関心で、再婚先の母は私の扱いに悩み、父に合わせるようにいつの間にか関心を寄せないようになった。
ただ一つの例外が姉と、姉の周囲にいた美しい人びとだった。
優しく、美しい姉と、姉を愛する美しい人びと。
悲劇なのはその優しさのせいで思いあがった私は、まるで私自身もその人たちと身内なのだと傲慢にもそう思い込んでしまったことだった。
私は美しい人々にまとわりつき、その中でも一等構ってくれたテオに懐いた。
クライヴは初対面から私を「退屈な存在」と言い放ち、一貫として無関心を貫いた。
だからその頃の私はクライヴを好きでもなんでもなかった。
私には、愛がわからなかった。
テオの家は私の家の近所で、私はよくテオを驚かそうと玄関からではなく、庭から入り込み、二階のテオの自室へと垂れ下がる大木をつたって、常日頃からそのために開けてある窓から入っていくのが習慣だった。
私はその日もテオの部屋に入り込み、勝手にベットに横たわって、驚くだろうテオを想像しては笑っていた。
階段から音がしたのは、それから少したってからだ。
私は、テオだ!と喜び、テオが扉を開けるのを待っていた。
テオは誰かと話しているようだった。
男の声だった。
美しい人びとの誰かだということに気付き、私は一瞬怯む。
その頃には私は、美しい人びとは私がまとわりつくことを許していたが、それは姉が許したからで、私自身に対して何の関心もないということに気付かされていたからだ。
テオだけが違っていた。
無関心さに慣れ切っていた私にとって、テオは特別な存在だった。
だから、部屋の前でなされた会話を、最初は理解できなかった。
「…可哀想でしょ」
「なんだ、そんなことを気にしてるのか?あまり深入りすぎては駄目だぞ。だから最近テオに対する態度も図図しくなってきたじゃないか」
「でも、だって、ソフィアが泣くんだよ?誰も相手にしないから、ソフィアだって心を痛めてる」
「だからといって、何もお前じゃなくてもいいだろう?無理して構わなくたって。大体あれもあれだ。察してもいいじゃないか。お前の気持ちを」
「ボクの気持ちなんてどうだっていいでしょ」
聞いたことのない固くて、冷たい声音。
「ソフィアにはエドがいるんだから」
私は、気付かれることも無視して、窓を開け、部屋から飛び出た。
後ろを振り向くことなく、無心で木をつたい、自室へと逃げ帰る。
窓から夕日が差し込み、廊下も壁もオレンジ色に染め上げる。
なぜかその光景が胸を刺し、知らずに私は嗚咽を零していた。
美しい光景に不釣り合いな醜い私が、その醜さを露わに泣きじゃくった。
彼は、追いかけてはこなかった。
私はその時も愚かに、彼の優しさの上に胡坐をかき、彼を心の内で罵倒し、被害者ぶって泣いていた。
彼が犠牲にしていた、姉への恋心も知らずに。
私とテオは、その後しばらく会うことはなかった。
当然だと思ったし、姉の傍にいないテオを不思議に思うこともなかった。
それがテオの優しさだと知らなかった。
気付けたのは、年月のせいだ。
私は繰り返し、そのことを思い出しては悲しみにふけり、元通りになった周囲の無関心さに慣れ切った頃、私は唐突に気付いたのだった。
姉とテオが私を気遣って、会わないようにしていることを。
偶然二人が出会っても、私を見かけると示し合わせたように離れていく。
あの時発したテオの言葉には姉への確かな愛情があったというのに、テオは私の目を気にするかのように、姉を避けていた。
気付けば、全てが繋がった。
同じ学校にいるのにテオを見かけない理由。
姉がテオの話題を出さなくなった理由。
愛した人に避けられる気持ち、無関心さを示される気持ち、そんなことわかっていたはずなのに。
愚かな私は、テオの優しさと恋心を踏みにじり!
それも原因は私の思い上がりのせいだという!
どうしようない理由で!
私は、テオを傷付けていたのだ!
哀れみでも何でも、優しくしてくれたのは事実だったというのに!
私を見てくれたのは、テオだけだったというのに!
他の誰もが無視したゴミを救い上げたテオを、私は私自身で踏みにじって、捨てたのだ。
そのことに気付いたって、もう遅い。
私は、姉にテオと仲直りする旨を話した。
涙ぐんで喜んでくれた姉と、久しぶりに再会したテオは、あの頃と同じだった。
なのに、あの頃とは何もかも同じようにはいかない。
私は理由も言わずテオに謝罪し、仲直りしてほしい旨を話した。
テオも同じように謝り、私の提案を受け入れた。
だけれど、私はあの頃のようにテオの家に行くことはなくなったし、テオも昔のように私に構うことも少なくなった。
全ては終わったのだ。
「終わらせてるつもりになってるだけでしょ」
歌うようにテオが言った。
「ボクは終わらせたつもりはないよ」
彼は笑っているようだった。
突然のことに私は彼が何を言っているのかわからなかった。
「ねえ、ボクは君を好きだよ。
だから二度も逃がす気はない。
同じ轍は踏まない。
君の友人、家族、担任、級友…あの時とは違う、もう逃げ場所はない。
君には、もうボクしかいないんだ」
違う、最初から私には彼しか…いや、違う、昔は姉さんが…
「…ボクがあの日終わらせたのは君の姉への依存だよ」
囁くテオは美しかった。




