第七章:鬼の不在
会社に着くと、フロアは不自然な静寂に包まれていた。営業二課の島。一番奥の、黒岩課長の席は空席のままだった。
普段なら始業三十分前には出社し、部下のデスクを睨み回しているはずの『数字の鬼』がいない。
「……黒岩さん、遅いな」
誰かが小声で囁く。周囲の同僚たちは、どこかそわそわとした様子で自分の画面に向かっていました。
午前十時。一斉送信の通知音がフロア中に響き渡った。全社員宛ての、電子化された社内通知。
「訃報:営業二課長 黒岩 仁殿におかれましては、昨夜、急性心不全により急逝されました。謹んでお知らせ申し上げます……」
フロアのあちこちから「嘘だろ……」「昨日まであんなにピンピンしてたのに」といった抑えた悲鳴と困惑の声が上がった。慌ただしく動き出す周囲の中で、僕は画面に表示されたその名から目を離せずにいた。
「黒岩 仁」
これまで僕は、彼を単に『黒岩課長』としか呼んでこなかった。下の名前など、意識したことすらなかった。
だが、今ここにある文字は、異世界アステリアで僕が斬り伏せた代官の名と、残酷なまでに一致している。
偶然にしては、出来すぎている。いや、偶然などという言葉で片付けられるはずがない。
僕が夢の中で『ジン』を斬った、その同じ夜。現実の『仁』もまた息を引き取った。それは、僕の深層心理が望んだ妄想の産物なのか。それとも、二つの世界が血の繋がった双子のように連動している証拠なのか。
得体の知れない恐怖が背筋を過ると同時に、認めたくはない微かな解放感が胸の内で静かに混ざり合っていた。
課長がいなくなっても、僕を縛る『仕事』という名の鎖は少しも軽くなっていない。むしろ、責任者がいなくなったことで、現場の負担は倍増していた。
(あっちへ行きたい……。早く、夜になればいいのに)
僕はオフィスビルの中の窓から、曇天の空を見上げた。アステリア。そこだけが、僕が英雄でいられる場所。
再びアステリアの地に降り立つと、そこには抜けるような青空と、村人たちの感謝の歌声があった。ジンの支配から解放された『エルムの村』は、一晩で驚くほど活気を取り戻していた。
「勇者様!本当に、本当にありがとうございました!」
村の出口。老若男女が集まり、僕たちに特製のパンや保存食を詰め込んだ袋を差し出してくる。
「礼には及ばねえよ。俺たちはやりたいようにやっただけだ」
リクが大剣を肩に担ぎ、照れ隠しに鼻を擦る。
「カイト様、皆さんがこれほど喜んでくださるなんて……。あなたの成したことは、この地に永遠に語り継がれるでしょう」
ルナが僕の隣に寄り添い、優しく微笑む。
だが、僕の心にはまだ、現実世界で聞いた黒岩課長の死が暗い影を落としていた。
「ルナ、ジンという男は……一体何者だったんだろう。彼のように、道理の通じない悪は他にもいるのかな」
僕の問いに、ルナは少しだけ真剣な表情を浮かべた。
「アステリアを蝕む闇は、ジンのような個人の悪意だけではありません。魔王の影が濃くなるにつれ、人々の心にある負の感情が実体化し、世界を歪めていくのです。……次の街『グラン・エトワール』なら、あるいはもっと多くのことが分かるかもしれません」
「グラン・エトワール……。王都へと続く、中継地点の大きな街だな」
リクが地図を広げて指を指す。
「ええ。そこには世界中の情報が集まるギルドの本部があります。アイテムを補充したり、さらなる装備を整えることもできるはずです」
僕たちは村の人々に別れを告げ、街道を歩き始めた。街道沿いには、色鮮やかな花々が咲き乱れ、風に乗って甘い香りが漂ってくる。
現実世界での足の痛みも、重苦しい電話対応も、ここにはない。あるのは頼れる相棒の背中と、僕を信じてくれる聖女の眼差しだけだ。
「カイト様、見てください。あの丘を越えれば、街が見えてきます」
ルナが指差した先には、夕焼けに照らされて黄金色に輝く巨大な城壁が見えた。不夜城とも呼ばれる交易の都、グラン・エトワール。
「さあ、行こう」
僕は聖剣の柄を強く握った。現実がどれほど混沌としていようと、この世界で僕が歩みを止めることはない。
むしろ、現実に絶望すればするほど、僕の魂はこの世界に深く根を下ろしていくのを感じていた。次の街には、どんな出会いが待っているのか。
僕は、黄金の門を目指して力強く一歩を踏み出した。




