第五章:戻りたくない場所
一ヶ月の地獄のようなリハビリを終え、僕は不完全な身体のまま社会という名の戦場に放り出された。杖こそ手放せたものの、長く歩けば膝が笑い、雨の日には事故の傷跡が疼く。
「佐藤!今月の数字は何だ!事故で休んでた分をどう取り返すつもりだ!」
職場復帰初日の朝。僕を待っていたのは、歓迎の言葉ではなく、黒岩課長の怒声だった。
「申し訳ありません……。まだ復帰したばかりで……」
「言い訳を聞いてるんじゃない!お前が穴を開けたせいで、課全体のノルマが未達成なんだよ。今日中に死ぬ気で外回って、一軒一軒、契約を取ってこい!」
「ですが、まだ足の調子が……」
「黙れ!誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ!」
黒岩の怒鳴り声に、周囲の同僚たちは一斉に視線を逸らした。誰も助けてはくれない。僕がいない間に、僕の机には埃が被り、メールボックスには処理しきれないほどの未読と、他部署からの苦情が溢れていた。
足を引きずりながら外回りに出て、一軒一軒、嫌味を言われながら頭を下げる。冷たい雨が降り始めると、古傷が針で刺されたように痛み、僕は路地裏で思わず膝をついた。
(……早く、あっちに帰りたい)
夜が待ち遠しくて、気が狂いそうだった。現実世界の僕が擦り減れば擦り減るほど、アステリアでの僕が輝きを増していく。
その夜、アステリアで僕たちは、街道沿いの静かな農村『エルムの村』を訪れていた。しかし、かつて平和だった村の様子がどこかおかしい。
「……カイト、妙だと思わねえか?村人たちの顔が暗いぜ」
リクが眉をひそめて呟く。村の広場では、着古した服を着た老人たちが、重い年貢を台車に載せて運んでいた。かつての活気はなく、まるで何かに怯えているような静けさが支配している。
「話を聞いてみましょう」
僕は近くにいた若い村人に声をかけた。彼は僕が勇者だと気づくと、すがるような目で周囲を警戒しながら囁いた。
「勇者様、助けてください……。最近、この領地を治めることになった新しい代官様が、あまりにも横暴なのです」
「代官?この村は女神の直轄領だったはずだが」
「ええ、ですが……王都から派遣されてきたとかで。『ジン』という名だそうですが、ひどく冷酷な方で、まるで行軍の補給路を整えるように、私たちの生活をただの資源としてしか見ていないのです。昨日も、十分な蓄えがないからと、幼い子供を抱える家からも容赦なく小麦を奪っていきました」
『ジン』
その名を聞いたとき、僕は心臓の奥がざらりと撫でられたような、言いようのない不快感を覚えた。どこかで聞いたことがあるような、それでいて思い出そうとすると霧の向こうに消えてしまうような、もどかしい感覚。
「顔は……いつも厚い外套を深く被っていてよく見えませんが、声は低く、命令以外の言葉を一切受け付けないような、鋼のような威圧感があるそうです」
リクが大剣の柄を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「人を人とも思わねえ野郎か。カイト、こいつは放っておけねえな。この世界の平和を穢す奴は、俺たちが叩き潰してやろうぜ」
僕は静かに頷いた。
(……そうだ。この世界にまで、不条理を持ち込ませるわけにはいかない)
激しい使命感が胸の内で燃え上がる。この美しい世界を守るためなら、僕はどんな強敵も切り捨ててみせる。救世主としての誇りが、僕の指先に力を与えた。




