第二章:悪い夢
僕の生活は、白と灰色の境界線上にあった。白は病院の壁、灰色は僕の未来。
死の淵から連れ戻された僕の肉体は、文字通り死ななかっただけで、かつてのような自由は失われていた。
「はい、佐藤さん。あと五分だけ頑張りましょうか」
理学療法士の励ましが、今の僕にはどんな罵倒よりも残酷に響く。リハビリ室での平行棒を掴み、一歩、また一歩と足を出す。それだけのことに、全身から汗が流れ、節々が痛む。
(あっちの世界なら、あんなに軽かったのに……)
心の中で毒づく。夜になれば、僕はアステリアの草原を風のように駆け抜け、巨大な魔獣を聖剣の一撃で両断する。たとえ怪我を負ったとしても、ルナの回復魔法で瞬時に癒やされる。
だが、朝が来れば、僕は看護師の介助なしではトイレにも行けない、ただの壊れかけの人間だ。
「佐藤、具合はどうだ」
ある日の昼下がり。病室のドアが乱暴に開けられ、一人の男が入ってきた。黒岩課長。僕の勤める工作機械メーカーの営業二課長であり、僕の直属の上司だ。
彼の顔を見た瞬間、僕の胃がキリリと痛んだ。
「お見舞いに来たわけじゃないぞ。お前が休んでいる間の穴を埋めるのがどれだけ大変か、分かってるのか?」
黒岩はパイプ椅子に腰掛け、不快そうに足を組んだ。彼から漂う強いタバコの匂いが、清潔な病室の空気を汚していく。
「申し訳ありません、課長。まさかあんな事故に……」
「事故だろうが何だろうが、会社にとっては損失だ。お前の担当していた町工場の社長から、納期の件で毎日催促が来てる。代わりの奴に行かせたが、お前じゃないと話が通じないと一点張りだ」
黒岩は手帳を叩き、僕を睨みつけた。
「一ヶ月後には職場復帰してもらうぞ。もう立てるようになったんだろう?復帰したら、その日のうちに
謝罪行脚だ。歩けないならタクシーを使え。経費は……まぁ、後で考えよう」
「一ヶ月……。ですが、主治医からはまだ自宅で安静に……」
「会社は学校じゃないんだ、佐藤。穴を開けた分は、働いて返してもらう。いいな?」
嵐のように去っていった黒岩の背中を見送りながら、僕はシーツを握りしめた。
現実。これが、僕の戻るべき場所。かろうじて繋ぎ止めた命の価値は、工作機械の納期より軽いらしい。
その夜。逃げるように眠りにつき、アステリアの地を踏んだ。そこは、昇り始めた碧い太陽が翡翠色の光を投げかける、美しい湖畔だった。
「……カイト様?何かあったのですか?お顔の色が優れません」
ルナが心配そうに僕の顔を覗き込む。現実のルナには一生手が届かないが、この世界のルナは、僕の心の機微を驚くほど敏感に察してくれる。
だが、僕は首を振った。こんな汚れきった現実世界の愚痴を、この清らかな世界に持ち込みたくはなかった。
「……大丈夫だよ、ルナ。少し、悪い夢を見ただけなんだ」
「悪い、夢……ですか?」
ルナは慈しむような眼差しで僕を見つめ、そっと僕の肩を抱き寄せた。
「それはおいたわしい……。夢は、目が覚めれば消えてしまう幻に過ぎません。今ここにいるあなたこそが真実で、私はいつだってあなたの味方です」
そうだ。あっちが夢で、こっちが現実なんだ。勇気が湧いてくる。あんな黒岩なんて、僕にとってはちっぽけな存在だ。だって、僕は世界を救う勇者なんだから。




