第一章:雨の夜と碧い太陽
佐藤海斗、二十六歳。中堅工作機械メーカーに勤める僕の人生は、一言で言えば『平均点』だった。
学歴も年収も、そこそこの顔立ちも。特筆すべき才能があるわけでもなければ、かといって社会からつまはじきにされるほどの欠陥があるわけでもない。
汗の染み付いたスーツを着て、取引先の社長に頭を下げ、納期の遅れを平謝りし、夜は疲れ果てて駅前のコンビニ弁当を買い込む。たまの贅沢といえば、深夜に推しのアイドルのライブ映像を見ながら飲む、少し高いクラフトビールくらいのもの。そんな、数百万人はいるであろう平凡な群れの一人が、僕だった。
あの日も、そうだった。時刻は二十三時を回っていた。工場でのトラブル対応と、その報告書作成で削られた精神を引きずり、僕は重い足取りで駅からの家路を辿っていた。
季節外れの冷たい雨が、安物のスーツを容赦なく濡らす。
「……はぁ、明日も早いんだよな」
コンビニの袋の中で、明日の朝食になるはずの菓子パンが、雨音に混じってカサリと鳴った。その時だった。
濡れたアスファルトが、不自然なほど明るい白光に照らされた。暴力的なまでのエンジン音と、激しいタイヤの摩擦音。横断歩道の真ん中で立ち尽くす僕の視界いっぱいに、コントロールを失った大型トラックが迫っていた。
「あ――」
声にもならない吐息が漏れた瞬間。世界が、ひっくり返った。
凄まじい衝撃。身体のすべての骨が軋み、鈍い音が響く。放り出された視界の中で、雨粒がスローモーションのように空中に舞い、遠ざかっていくトラックの赤いテールランプが、歪んだ視界の端に滲んだ。
(死ぬのかな、僕)
周囲の喧騒は遠のき、ただアスファルトを叩く雨音だけがやけに大きく聞こえる。意識が急速に、深く、冷たい闇へと沈んでいく。
泥水に浸かった菓子パンの袋が、僕の人生の最後の一瞥になるはずだった。僕は、自分の死を確信していた。
だが、次に僕が目を開けたとき、そこは冷たいアスファルトの上ではなかった。
鼻をくすぐる朝露を孕んだ風の匂い。どこか遠くで鳴く、聞いたこともない鳥の声。身体から痛みが消えていた。それどころか、かつてないほどの力が全身に漲っているのを感じる。
僕はゆっくりと上体を起こした。
「……ここ、は?」
視界に飛び込んできたのは、見たこともない碧い太陽が、翡翠色に染まった朝の空気の中に昇っていく光景だった。藍色の夜の残滓が溶け出すように混ざり合い、草原が銀色に波打って、空気中には微かな光の粒が舞っている。
夢だ。そう思った。死にゆく脳が見せている、走馬灯か何かに違いない。
「……あ、あの……」
控えめな、だが透き通るような鈴の音に似た声が聞こえた。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
碧い陽光を反射する金髪、吸い込まれるような菫色の瞳。その顔を見て、僕は思わず息を呑んだ。
(……ルナ?)
それは、僕が現実世界でたった一つの心の拠り所にしていたアイドル――月城ルナと、驚くほど瓜二つの容姿をしていた。
もちろん、衣装は違う。彼女は繊細な刺繍が施された白い法衣を纏い、手には聖なる光を宿した杖を握っていた。だが、その少し困ったような眉の下げ方、柔らかそうな唇の形は、僕が毎晩画面越しに眺めていた彼女そのものだった。
「勇者様、お目覚めですか?良かった……女神様のお導きですね」
彼女は僕の手をそっと握った。掌の温もり、肌の柔らかさ。死に際に見る夢にしては、あまりにもリアルすぎる感覚だ。
困惑する僕に、彼女はこの世界『アステリア』が魔王の脅威にさらされていること、および僕の魂こそが、聖教が何十年もの間待ち望んでいた『聖剣に適合する器』であることを、慈しむような声で語り聞かせた。
「勇者……僕が?」
「はい。勇者様、あなたの魂には、邪悪を払う聖なる力が宿っています。今はまだ実感がわかないかもしれませんが……」
ルナは僕を近くの小さな神殿へと案内した。驚くほど体が軽い。
空の祭壇へ歩み寄ると、応えるように空間が輝き、一振りの剣が実体化した。柄に触れた瞬間、指先から熱い力が流れ込み、全身を心地よい全能感が突き抜けた。
「すごい……なんだ、これ」
「それが聖剣の力です。勇者様、あなたは一人ではありません。私が、命を懸けてあなたを支えます」
ルナの真っ直ぐな瞳が僕を射抜く。画面の向こう側でしか笑わなかったルナが、今、僕のためだけに微笑んでいる。
その日は、彼女に案内されて神殿の庭を歩き、見たこともないほど澄んだ水を口にした。碧い太陽の光を浴びながら、僕は聖剣の重みを確かめるように何度か素振りを繰り返した。不思議と疲れは感じず、むしろ動くほどに活力が湧いてくるのを感じた。
やけに高い空や、風に乗って運ばれてくる甘い花の香りに包まれていると、あの色褪せた日常とは切り離された、本物の楽園みたいに思えた。
翡翠色の空が深い藍色へと染め変えられた頃、僕は神殿の一角に用意された清潔な寝所へと案内された。白く柔らかなリネンの香りに包まれると、張り詰めていた精神が優しく解きほぐされていった。
「今夜はゆっくりお休みください、カイト様。明日の朝、またお会いしましょう」
ルナが僕の布団を整え、額に優しく手を当てた。そのひんやりとした感触が心地よく、僕は抗いがたい睡魔に誘われた。
こんなに幸福な眠りは、生まれて初めてだ。僕は彼女に見守られながら、深い安らぎの中に落ちていった。
不意に、鼻を突く消毒液の匂いで目が覚めた。
「……っ!」
身体が鉛のように重く、わずかに指先が震えただけだった。視界に映るのは、無機質な白い天井と、複雑な配線が繋がった医療用モニター。
「あ、佐藤さん!気が付いたのね!」
駆け寄ってきた看護師の驚いた顔を見て、僕は自分の手をまじまじと見つめた。そこにあるのは、聖剣を握った勇者の強靭な腕ではなく、点滴の針が刺さった、青白く細い僕の腕だった。
「僕……生きてるんですか?」
掠れた声で問いかけると、看護師さんは何度も頷き、安堵の吐息を漏らした。
「ええ、本当に奇跡よ。少しでも処置が遅れていたら危なかったわ」
日本の優れた救急医療。それが、僕をこの惨めな現実に繋ぎ止めた正体だった。
僕は安堵よりも、言いようのない喪失感に襲われていた。あの碧い太陽、聖剣の輝き、それからルナの温もり。あれは、事故で混乱した脳が見せた、ただの幻覚に過ぎなかったのだろうか。




