第十二章:魔王
魔王城の最上階。玉座に座る『それ』を視界に捉えた瞬間、僕の全身の細胞が、これまでにない激烈な警報を鳴らした。
「……勇者、か。久しいな、この感覚も」
魔王は立ち上がる必要さえ感じていないようだった。ただ、そこに存在しているだけで、空間が歪み、重力が何倍にも増したかのような感覚に陥る。
僕がこれまで倒してきた魔将軍たちが、まるで羽虫のように思えるほどの、圧倒的な格の違い。
「精一杯、足掻いてみせろ」
僕は恐怖を振り払うように、全力の斬撃を放った。アステリアでの僕の魔力は限界を超えて膨れ上がり、振り下ろした聖剣から放たれた銀光が、真空の刃となって空間そのものを引き裂いた。
だが。
「……その程度か」
魔王は指先一つで、僕の聖剣を受け止めた。轟音と共に床が弾け飛び、衝撃波が城を揺らす。だが、魔王の指先には傷一つついていない。
「が……はっ!?」
次の瞬間、僕の視界が上下に揺れた。衝撃を感じるよりも早く、身体が壁に叩きつけられていた。鎧は砕け、肺から空気がすべて押し出される。
「カイト様!」
ルナが悲鳴を上げ、回復魔法を唱える。だが、聖なる光が僕を包むよりも早く、魔王の放った漆黒の霧がその光を食い尽くした。
「無駄だ。この世界におけるお前の『全能感』など、所詮は砂上の楼閣に過ぎん」
魔王がゆっくりと歩み寄る。一歩ごとに、僕の精神が削り取られていく。
最強。救世主。神。僕がこの世界で手に入れたはずの、現実から逃避するための甘い肩書きが、音を立てて崩れていく。
「カイト、ルナ!ここは俺が食い止める。……行けぇっ!」
満身創痍のリクが、血塗れの大剣を杖代わりにして立ち上がった。その背中は、かつてないほど巨大で、揺るぎない覚悟に満ちていた。
「何を言ってるんだ、リク!君を置いていけるわけがないだろう!」
「カイト、お前はまだ、こんなところで終わっちゃいけねえ……。俺はこのために、お前の隣にいたんだ……。ルナ、カイトを頼んだぜ!」
リクは咆哮し、魔王に向かって突っ込んでいった。
「行けっ、振り向くな!」
その絶叫を背に、ルナは僕の腕を強く引き、城の崩落した壁から外へと飛び降りた。落下する視界の端で、リクの振るう大剣が、魔王の漆黒の光に飲み込まれて消えていくのが見えた。
現実。正午過ぎの強い光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。僕は床に這いつくばったまま、激しい喪失感で動けずにいた。
「……リク……」
アステリアで躊躇なく僕の盾となり、死んでいった男。彼の覚悟に報いるには魔王を倒すしかない。
「勝てない……。勝てるわけがない……」
睡眠薬の過剰摂取で、視界は二重にぼやけている。会社からは解雇通知の書類が届き、ガスも電気も止められる寸前だ。
アステリアでの敗北は、僕にとって死を意味する。タクミを殺し、リクを失い、現実のすべてを切り捨ててまで辿り着いた場所で、僕はただの『無力な勇者』になろうとしていた。
「何か……何か方法があるはずだ。魔王を殺し、僕がアステリアの真の勇者になるための方法が……」
僕は、靄のかかったように考えがまとまらない頭を必死に捻った。
レベル上げ?装備の強化?とてもじゃないがその程度で勝てる相手とは思えない。碌なアイデアもなく、よりによって黒岩課長の顔が浮かぶ。
「……あ」
脳裏に、一つの閃光が走った。それは、正気を保っている人間なら決して考えつかない、おぞましい解決策だった。
「……そうか。そうすればいいんだ。最初から、答えはここにあったんだ」
僕は暗い部屋の中で、枯れ果てた声で歪に笑った。
「待ってて、ルナ。リク。タクミ。……すぐに、すべてを終わらせてあげるから」
僕は最後の力を振り絞り、まだ半分以上残っている睡眠薬のボトルを手に取った。




