第十一章:勇者と亡霊
朝、目覚まし時計のアラームが鳴る。以前なら、胃をキリリと焼くような不快感と共に這い起きていた。だが今の僕は、ただ無表情にアラームを止め、再び目を閉じる。
出勤の準備をする必要はない。会社にはもう、数日前から連絡も入れずに出社していない。
鏡に映った自分の顔を見る。頬はこけ、目は血走り、肌は土気色。まるで、生きた亡霊のようだ。
「……あと、十四時間か」
次に眠りにつくまでの時間を計算する。現実の時間は、もはや異世界へ行くための待機時間でしかなかった。
僕は戸棚から、個人輸入で手に入れた強力な睡眠薬を取り出す。
「これがあれば、もっと早く、もっと長く……あっちにいられる」
震える手で錠剤を水で流し込む。意識が急速に遠のき、現実という名の牢獄が溶けていく。ああ、ようやく『僕』に戻れる。
アステリアの地に降り立った瞬間、僕の五感は鮮やかな色彩と生命力を取り戻す。
「カイト様、お目覚めですか?顔色が優れませんね。……また、悪い夢を見ていたのですか?」
ルナが心配そうに僕の頬を撫でる。
「……ああ。向こう側にある、不条理に満ちた世界にいたんだ。そこにはただ僕を削り取っていくだけの時間が流れているんだ。ルナ、君のいるこの輝きとは正反対の場所だよ」
「ふじょうり……?それは、魔王よりも恐ろしいものなのですか?」
ルナは不思議そうに小首を傾げた。その瞳はどこまでも純粋で、僕が向こう側で背負っている泥沼のような罪悪感も、社会のしがらみも、一欠片も理解していない。
「……そうだよ。君には一生、理解できなくていいものだ。この美しくて清らかな世界に、あんな汚らわしいものは持ち込ませたくない」
「ふふ、よく分かりませんが……カイト様がそう仰るなら、きっとそうなのでしょうね。でも、大丈夫ですよ。ここには私たちがいます。カイト様がこの世界を守ってくださる限り、私はずっと、あなたのそばにいますから」
ルナの屈託のない笑顔。彼女の『無知』が、僕の独占欲を刺激する。彼女をこの無垢な世界のまま守り抜くためなら、僕はあちら側の何を犠牲にしても構わない。その狂気が、僕の中で確固たる決意へと変わっていく。
「行こう。これ以上、悲しむ人を増やさないために。僕たちの手で、この戦いに終止符を打つのだ」
僕の戦いは、まさに人々が夢見る『伝説の勇者』そのものだった。 聖剣を振るうたびに銀色の軌跡が闇を切り裂き、仲間たちの道を切り拓いていく。その姿に、リクは「流石だな、カイト!」と感嘆の声を上げ、ルナは誇らしげな微笑みで僕を見つめていた。
「カイト様、あともう少しです。この世界の闇を払えば、きっと……穏やかな日々が訪れます。私は、いつまでもあなたのそばにいたいのです。ずっと、ずっと……」
「……ああ。魔王を倒せば、もうどこへも行かなくて済むんだね」
僕はルナを強く抱きしめ返した。その言葉は、ルナにとっては平和な未来への誓いに聞こえただろう。だが、僕の胸を満たしていたのは、あの灰色の日常を完全に拒絶し、このアステリアという光の世界を僕の唯一の『現実』にするために、向こう側のすべてを断ち切るという、静かな決意だった。
魔王城の城門が、僕の放った一撃で轟音と共に崩落した。
陶酔感が、僕をさらなる高みへと押し上げていた。あともう少しで、魔王に届く。




