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第十章:聖者の鮮血

居酒屋での巧の屈託のない笑顔を思い出す。


(……どうすればいい。あいつが本当に、アステリアの闇だなんて信じられない)


アパートに帰り、僕は暗い天井を凝視していた。


「もし、今ここで僕が死んだら、どうなるんだろう」


ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。この『佐藤海斗』としての無価値な人生を終わらせれば、僕は永遠に『勇者カイト』としてあっちの世界に完全に留まれるのではないか。そうなれば、現実との忌々しいリンクは断ち切られ、タクミを殺しても巧が死ぬことはないのではないか。


僕は震える手で、台所の万能ナイフに触れた。鉄の冷たさが指先に伝わる。だが、僕は結局、その刃を自分の喉に当てることはできなかった。


(……確証がない。もし僕がここで死んで、アステリアもろともすべてが消えてしまったら?)


その恐怖が、僕の決断を鈍らせた。結局、僕には自分を犠牲にする覚悟なんて無かった。自分の臆病さに吐き気がした。

葛藤の末、いつの間にか眠りについたのは、東の空が白み始めた頃だった。だが、そこで僕を待っていたのは、最悪の光景だった。


「……カイト様っ!」


聖教領の広場で、ルナが光の鎖に縛られ、膝をついていた。彼女の周りには、司祭タクミの配下と思われる兵士たちが剣を構えて取り囲んでいる。


「カイト!遅かったじゃねえか!ルナがこいつらに捕まっちまった!」


リクが数人の兵士を相手に応戦しているが、ルナを人質に取られているため、手出しができない様子だった。


「勇者様、ようやくお会いできましたね」


穏やかな、だが僕の心の深淵を見透かすような声。ルナの背後に立つ男――司祭タクミが、深い慈しみを湛えた瞳で僕を見ていた。


「あなたはあまりにも純粋であるがゆえに、この世界の調和を理解していない。あなたが守ろうとしているその正義が、世界を崩壊に向かわせているのです。さあ、勇者様。その剣を置きなさい。過ちが取り返しのつかなくなる前に」


「カイト様……!来ないで……私は、大丈夫ですから……!」


ルナが涙を流しながら、無理に微笑んで僕を遠ざけようとする。その健気さが、僕の心をかき乱した。彼女を傷つけるすべてのものが許せなかった。


「離せ……ルナから離れろ!」


僕の叫びと同時に、司祭タクミが杖を掲げた。聖なる光が膨れ上がり、ルナを飲み込もうとしているように見えた。


「だめだ!」


巧の穏やかな笑顔が脳裏をよぎり、それと同時に、ルナの絶望に濡れた瞳が僕を射抜く。親友をその手で葬るという根源的な恐怖と、唯一の居場所である彼女を奪われることへの狂気的な執着。

相反する二つの感情が脳内で凄まじい火花を散らし、神経が一本ずつ焼き切れていくような激痛が走った。思考は白濁し、どろどろに溶けた本能が、ただ一つの目的のために僕の腕を突き動かした。


気がついたときには、僕は聖剣を振り抜いていた。


「……え?」


目の前に立つタクミの胸に、深く、銀色の刃が沈んでいた。抵抗も、障壁もなかった。彼はただ、悲しげな目で僕を見つめていた。

指先に伝わる、温かくて重い感触。タクミの口から鮮血が溢れ、僕の頬を熱く濡らす。


「……カ……ハッ……」


司祭タクミの瞳から光が消えていく。その最期の瞬間、彼の顔が、居酒屋で「またな」と言って笑ったあいつの顔と、完全に一致した。

ルナを縛っていた鎖が弾け飛び、僕は彼女を強く抱き寄せた。


「ああ、カイト様……。ありがとうございます。あなたが、私を守ってくださったのですね」


ルナの温もりが、僕の腕の中にあった。彼女は僕の胸に顔を埋め、陶酔したような声で囁く。


「……やっぱり、カイト様は私の勇者様。何があっても、私はカイト様の味方です」


その言葉は、居酒屋での巧との最後の会話を無残にかき消して僕の鼓膜に張り付いた。


目が覚めると、僕は静まり返った安アパートで、右手を宙に伸ばしたまま固まっていた。外はまだ薄暗い。

スマートフォンの不気味な点滅が、着信を知らせる。僕は巧の家族からであろうメッセージを直視することができず、スマートフォンをゴミ箱に捨てた。


「あ……ああ……」


喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。

ルナを救うためだった。仕方がなかったんだ。僕は自分に言い聞かせた。何度も、何度も。

だが、胸の奥にある冷たい事実は、決して消えなかった。僕は、現実の友人の命よりも、異世界のルナや、英雄としてチヤホヤされる居心地の良さを選んだのだ。


「……はは、はははは!」


暗い部屋に僕の笑い声が響く。鏡に映った僕の顔は、かつての平凡な青年ではない。友人の血で『幸福』を買った、醜悪な化け物の顔だった。


それでも、夜になれば僕はまたあっちへ行く。ルナが僕を待っている。僕を称える人々がいる。その快楽は、もはや現実のどんな罪悪感も凌駕するほどの、猛毒のような甘さを帯びていた。

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