第9話 ノワール視点:名前のない契約
それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
赤と、黄色。
細く編まれた二本の糸。
そこに、小さな貝殻が結ばれている。
……見慣れた色だ。
俺と、リリアの色。
「ね、ノワール」
リリアは何でもないことのように笑って、その糸を持ち上げた。
「旅先で教えてもらったの。
願いを込めて編む糸なんだって」
ただの人間の風習。
祈りでも、魔術でもない。
本来なら、俺が気に留める必要のないものだった。
――なのに。
触れた瞬間、はっきり分かった。
これは、軽い願いじゃない。
魔力でもない。
聖力でもない。
それなのに、確かに“流れ”がある。
静かで、深くて、逃げ場のない流れ。
(……おい)
思わず、心の中で声が漏れた。
これは道具じゃない。
護符でも、装飾品でもない。
これは――
選択だ。
リリアは、何も知らない。
ただ、楽しそうに話す。
「ね、これ。
一つはノワールに。
一つは、私が持つの」
貝殻が、二つ。
ぴたりと合う、対の形。
……ああ、そうか。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
これは“願い”なんかじゃない。
誓いですらない。
もっと単純で、もっと残酷なもの。
> 一緒にいる、という選択。
それ以外を、最初から考えないという決断。
リリアは、聖女として選んでいない。
世界のためでもない。
誰かを救うためでもない。
ただ――
俺を選んでいる。
「……ノワール?」
黙り込んだ俺を、不思議そうに見上げる。
その目は、いつもと同じだ。
疑いも、迷いもない。
俺の返事を、信じて待つ目。
……くそ。
知ってしまった。
この糸が結ばれた先に、
何が待っているのかを。
聖女としての運命――
それすらも。
全部、分かっている。
分かっていて、なお。
「……にゃ」
短く鳴いた。
肯定でも、否定でもない。
ただ、そこにいるという合図。
リリアは、それだけで笑った。
「ふふ。
じゃあ、つけようね」
指先が、俺の首元に触れる。
結ばれる。
――その瞬間。
何かが、確かに“繋がった”。
契約書もない。
言葉もない。
名前すら、まだ存在しない。
それでもこれは、戻れない。
俺は、選ばれた。
聖獣としてじゃない。
使命としてでもない。
ただ一匹の存在として。
(……いいのかよ)
世界の理が、遠くで軋むのを感じる。
それでも、離れられない。
リリアは、俺を見ている。
誰かに選ばれる存在としてじゃない。
救われるべき聖女としてでもない。
ただ――
一緒にいたい相手として。
胸の奥が、静かに熱を持つ。
これが、始まりだ。
覚醒と呼ばれるものの
まだ、誰も気づいていない地点。
名前のない契約。
俺は、リリアの隣に座り直した。
少しだけ、いつもより近く。
――卒業の日が、近い。
それを、俺だけが知っている。
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