第2話 陽だまりと、ずれた気配
学園生活にも慣れ、入学当初の浮き足立った空気はようやく落ち着いてきた。
私も少しずつ、この毎日に馴染み始めている。
学園に来てから毎日のように探索していたノワールが見つけた、“人が来ないお気に入りの場所”。
綺麗な生垣の裏側で、通路からは外れているから人目にもつかず、静かで暖かい日差しが差し込む。
私は芝生の上にごろりと寝転がった。
こんな姿を貴族が見たら眉をひそめるだろうけれど、元平民だった自分の癖は簡単には抜けない。
お腹の上にノワールが飛び乗り、丸くなる。
その重さと温もりに、張り詰めていたものがふっとほどける。
人との会話や勉強でドロドロになった心が、太陽の匂いとノワールの体温で少しずつ軽くなるのがわかった。
そんな穏やかな時間の中、不意に声が聞こえてきた。
「聖女様の我儘にも困ったものだわ。」
「ええ、本当に。淑女教育の授業にも出ていないとか……」
「高位貴族の殿方ばかりに付きまとってねぇ。」
「聖女とは言っても、所詮は元平民でしょう?」
「高貴の血も流れていないのに、勘違いなされているのよ。」
楽しげに、そして軽やかに。
私にではなく、私の“肩書き”に向けられた言葉たち。
足音が遠ざかると同時に、お腹の上のノワールが尻尾をバンバンと叩きながら、そっちを睨みつけていた。
「なんだあいつら。リリアの努力も知らねぇくせに。」
その顔があまりにも可愛くて、嫌な言葉が全部どこかへ吹き飛んでしまう。
「ふふっ……ありがとう、ノワール。怒ってくれるだけで嬉しいよ。」
頭を撫でると、誇らしげにゴロゴロと喉を鳴らす。
「ばーか。ちょっとくらい怒ったほうがいいんだぞ?
ああいうタイプは調子に乗るからな!」
ノワールが悪戯っ子の顔をし、私が止めるより早く——
「きゃー!? 鳥!鳥のフンが!!」
……間に合わなかった。
ノワールは芝生の上で転がりながらゲラゲラ笑っている。
「もう……悪戯しちゃ駄目だよ。あの子たち、しばらく学園に来られなくなるわ。」
しかし、どこか胸の奥で笑ってしまうのは不思議だ。
私は聖女としての勉強に追われる毎日で、
省ける授業は省いて先生と個別に教わることも多く、普通の学生生活とは少し違う。
だからこそ、このノワールと過ごす静かな時間は、私にとって何よりも大切だった。
ノワールと話せるようになったのも、聖女になってからしばらくしてのことだ。
最初は驚きのあまり悲鳴をあげてしまい、侯爵家の人たちに迷惑をかけた。
その裏で、ノワールは腹を抱えて笑っていた。
“驚かせるタイミングを狙っていたんだ”と後から聞かされた時は、さすがに怒った。
それでも、辛い時も、困った時も、いつだってノワールは傍にいてくれた。
「もう、ほどほどにね。」
ゴロゴロと喉を鳴らす彼を胸に抱きしめ、午後の授業に向かうため立ち上がろうとした時だった。
中庭のベンチに、一人で座るロザリア様の姿が目に入った。
「ロザリア様!? お一人でどうされたのですか? お具合が悪いのですか?」
顔を真っ赤にし、俯くロザリア様。
滅多に見られない姿に、私はすぐに理由を察する。
「あ……リリア、ごきげんよう。ちょっと……ユリウス様が……」
なるほど。
殿下のアプローチに耐えきれず逃げてきてしまったらしい。
ふたりは本当にお似合いだと思うのに、ロザリア様はいつも“政略だから”と自分に言い聞かせるように笑う。
以前、その理由を尋ねたことがあるけれど——
ロザリア様は、あの時もどこか悲しそうに微笑んだだけだった。
「ロザリア様が愛されているようで、私は嬉しいです。」
私がそう言うと、ロザリア様は少し肩の力を抜き、微笑んだ。
「リリアは優しいわね……あら、草がついているわ。」
クスクスと笑いながら、私の真っ白な髪から草を取ってくれる。
その仕草があまりにも優しくて、胸の奥が温かくなった。
ふと、ロザリア様の視線が横に跳ねた。
それにつられて振り向くと——
ノワールが、背中を向けて歩いていくのが見えた。
あれほど人前に姿を見せないノワールが、珍しく姿を見せた。
「ロザリア様、私の猫です。聖女の願いということで、学園にも連れてきています。」
ロザリア様は静かに頷いた。
けれど、その顔には不思議そうな影が差していた。
「ええ……知っているわ。でも……」
その続きを、私は聞けなかった。
ロザリア様は、ノワールが去っていく背中をじっと見つめ、
誰にも届かないほど小さな声で呟いた。
「……あんな無愛想な猫じゃなかったはず。
もっと……可愛らしくて、陽気な子だったような……」
私には届かないその言葉だけが、
温かな陽だまりの中で、ひどく静かに落ちた。
——世界が少し、ずれている。
その事実に気付くには、まだ時間が必要だった。
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