第4話 ――Emergency Clause/希来の関節が鳴り終わる夜――
――溺渦希来として語るのは、これが最初で最後にする。
教師は「記録」を書く訓練は受けているが、「告白」を書く訓練は受けていない。だから、これは記録のふりをした告白であり、告白のふりをした報告書だ。
1 止めた夜/止められなかった年
あの夜、私は弁を止めた。
開けようとした生徒(名は伏す)の手からカードキーを奪い、一次弁を閉め、二次弁に触れさせなかった。正しい動作だった、はずだった。
翌朝、校門の表札「令和○年」の“年”が剥がれ、紙の上の年号欄がすべて空白で印字された。電子黒板には無機質な文字列が灯る。
System Warning: YEAR_TOKEN_NOT_FOUND
止めたのに、“年”が止まった。
私は止めたのではない。世界が、私の代わりに帳尻を合わせた。 そう理解した瞬間、私の指の骨が“キィ”と鳴った。以来、鳴り続けた。
2 「事故」を「運用」に
PTAが来た。「事故ですか?」と問う声に、私は唇を噛み、「運用です」と答えた。
語の切り替えは、責任の位置を動かす。個人から制度へ、制度から都市へ、都市から“年”へ。
“年”が落ち続ける限り、誰かは助かる。 そう思ってしまった瞬間、私は教師ではなく共同署名者になった。
3 双葉という“配分の式”
猩目双葉が濾過槽に降りた夜、私は初めて骨の音が「鳴り始め」と「鳴り終わり」の中間にいると気づいた。
彼女は、止める/開くの二分法を破り、配分という第三の演算子を机の上に置いた。
リングを一本渡し(希来の翡翠)、蛇口は必要時だけ開け、誕生日を年に一度へ縮退する。
倫理は節約術として語り直され、私はその語り直しにサインした。Emergency Clause──必要時だけ開けるための条項──は、止められなかった夜の私の後悔が書かせた第4条だ。
4 灰色の第4条が、黒くなるまで
流出した v0.7(第0話参照)では、第4条は灰色でコメントアウトされていた。
内部草稿 v0.9 で私は赤字を入れた。
「常時接続を切ったなら、非常時のスイッチを残せ。」
そして“来( )”――“年”を書けない未来の日付で、v1.0 が黒インクで成立した。PDFの右上には、相変わらず同じ警告が点滅する。
Viewer Warning: YEAR_TOKEN_NOT_FOUND
“年”を描けない文書で“年一回”を約束すること。それは世界に向かって、私たちが“年”を配分する権利を取ったと宣言する行為だ。
5 第一回年次儀礼、鳴り終わる音
第一回の“年一運用”。双葉はカードキーを受け取り、「来( )まで、私が持ちます」と言った。
彼女が“年”ではなく“まで”を主語にした瞬間、私の関節ははっきりと鳴り終わった。
代わりに、都市の遠くでまた別の骨が鳴る。区画 3‑12 に続き 5‑27 がノイズ化し、ニュースは淡々と「記録障害ではありません」と繰り返す。
6 未送信のメール
宛先:前任校長
件名:(下書き)
本文:
“事故”という語を教員から奪ったのは正しかったでしょうか。
「運用」は誰を救う語でしょうか。
“年”を落とす責任を、私はいつから負っていたのでしょう。
Draft failed: YEAR_TOKEN_NOT_FOUND
“年”を含む文は保存されない。メールは、世界の倫理に対して脆弱すぎる形式だ。
7 送らない手紙(双葉へ)
あなたの肺が泡で満ちる夢を見たとき、私はあなたの背中の骨が鳴る音を聞いた。
鳴った骨は、次の“年”を支払う権利を持つ。義務と書きかけて、やめる。義務でやると死ぬ。権利でやると、生き延びられる可能性が少しだけ増える。
“来( )”の空欄をあなたが埋めるとき、私はそこに「年」を添えない。添えれば、世界が帳尻を合わせに来て、また誰かの誕生日が剥がれるから。
だから私は、ただ共同署名者として立ち会う。蛇口の重さを半分持つ。それだけだ。
8 関節の静寂
骨が鳴り終わった夜、私は初めて深い睡眠をとった。
目覚めたとき、スマホのロック画面にまた同じ文字列が残っていた。
System Warning: YEAR_TOKEN_NOT_FOUND
世界はまだ“年”を描かない。
それでも、配分の式は書ける。
双葉が、Sevynが、そして私が。
次の“年”を誰が支払うかは、骨の音の順番で決まるのだろう。
私の骨は終わった。だから私は、条文の余白に自分の名前を置き、都市の骨が鳴り続ける間、静かに見届けることにする。
(第4話・了)