第1話 ――鍵は泡を護る指先、まだ蛇口は開かない――
私は猩目双葉。
別枝のどこかで「茅吞一葉」という私?が年五回も誕生日を祝うらしい──そんな噂を、夢の水面越しに聞いたことがある。この都市はそこから数ミリ時空が偏り、アスファルトの下に古い運河が呼吸器のように脈動している。ここでは、誕生日は水際で起きる。
けれど私は、祝われる頻度を減らす準備をしている。穴は勝手に深くなる。それならせめて、深くなる“テンポ”は自分が握る。
◆ 午前六時、鳴らないアラーム
枕元のスマホは、アラーム時刻になると代わりに静かに震えた。“鳴る”のではなく“揺れる”だけ。
画面には通知一つ。
System Warning: YEAR_TOKEN_NOT_FOUND
日付設定を確認してください。
“年”の字が描画されないだけで、通知の温度が急に冷えた。私はカレンダーを開き──西暦が「20( )」と空欄で跳ねるのを見た。
空欄は、恐怖と信頼の配合率。 その定義を私はまだ知らないが、直感だけは胸に鋲のように刺さる。
◆ 三つの指輪
制服のポケットで転がるアクセサリー。
1) 祖母譲りの氷銀──地上に私を繋ぐ細輪。
2) 高校教師溺渦希来先生が「境界施設の鍵」として託した翡翠。
3) 画面越しに届いた、Sevyn・Glossの泡の誓約。指にはめると体温を僅かに奪う。これこそが異界との“鍵”だと彼女は言った。
『Ring is Weir(井)/ Dam(堰)。恋は配水計、あなたの空洞は無限給水じゃ壊れるよ』
DMの末尾で“来( )”とだけ表示され、“年”が浮かずに沈んだ。
◆ 校舎裏、鉄と藻の匂い
「また指輪、増えてない?」
鏡野映里が紙パックのストローを噛み、曇った瞳孔で私を写す。鏡は笑わず、観測だけをする。
「幸福は飽和溶液。溶け残りは輪で撹拌して飲むの」
映里の口元が弾けた音で“葉”の字が水泡のように割れた。名前はまず発音から剥がれると知り、舌の裏側がひゅっと冷える。
◆ 濾過槽への下降
放課後。カードキーは先生のものだが、今日は“実地訓練”という名目で私が預かっている。螺旋階段を下りるたび、壁のコンクリートが私の鼓動を反射し、都市の骨と私の骨が同じ速度で鳴る錯覚。
水面が蛍光灯をゆがめ、光が液質の刃になって頬を撫でた。
「——双葉」
耳ではなく皮膚で聴く声。
「Sevyn?」
水面が笑みを貼り付け、泡が一つ破裂。破裂音は優しい“あ”で、母音ほど残酷な音はない。
◆ 一本の“支払い”
私は三つのリングを見比べる。
“鍵”は泡リング。祖母の輪は地上。──消去法で、先生の翡翠を外す。
金属と皮下組織が同時に“キィ”と縮む。 痛覚は細いのに、快楽中枢が甘く痺れる矛盾。
翡翠は光りながら溶け、遠くの井筒へ吸い込まれた。
「これでこちらは二十四時間、生き延びる」
Sevynの鰓が開閉し、泡の温度が私の肺の粘膜を舐めた。臓器で受け取る告白は逃げ場がない。
◆ 水鏡界の裏返し
沈んだ先で、ビルは珊瑚礁のように枝分かれ、通行人の頭上には誕生日タグが浮かぶ。Sevynのタグだけ、年数が“∞”。
体温は0.4℃落ち、私はそれを“数字”で理解した。数字で理解すると、恐怖は科学になる。
「恋って、そっちでは?」
「片肺恋──片方の肺で二人分の呼吸を回す。常に酸欠ぎみ」
「苦しいのを、愛と呼ぶ?」
「苦しさを配分できる相手が、恋人」
配分、と発音する時だけSevynの瞳が揺れた。教師の倫理と異界の恋が、一語で握手する瞬間。
◆ 地上へ帰還、故障する時間
制服は滴り、蛍光灯が肌に貼り付く。スマホを再起動してもアラームは沈黙。代わりに通知が一つ。
System Warning: YEAR_TOKEN_NOT_FOUND
再描画を試みますか? [いいえ]
空欄の“年”を見るたび、鼓動がひとつ余分に跳ねる。
◆ 希来の視線、揺れる過去
昇降口の奥で、先生が私を射抜く。
「猩目、君はどこまで知っている?」
「先生に教わったところまで」
「そう言えるうちは、まだ戻れる」
“戻る”は優しい動詞だが、私の胸の穴は優しさより制度を欲しがった。
一本は供出、二本は保持。“鍵”を抜かずに払う方法はただ一つ。
蛇口を開ける。でもまだ開けない。
◆ 未明、ノートに刻む三行
部屋。リング二本を机に並べ、ノートへ書く。
◆ リングはこれ以上抜かない(鍵=Sevyn/祖母=地上)
◆ 非常時には蛇口を開く(水で支払う)
◆ 誕生日は年一回まで縮退できる
“年”の字だけインクが拒まれ、紙が水を弾くように盛り上がる。指で押さえ、筆圧を増す。
空欄は恐怖と信頼の配合率──その語をまだ知らなくても、空欄の圧力だけは胸骨を軋ませる。
◆ DM:予告という名の呼吸訓練
DM(Sevyn → 双葉)
『次に会うとき、私たちは配分を決める。
First annual は来( )。
それまでに、呼吸の練習を』
“First annual”の二語が、気管に氷砂糖を詰める。甘くて痛い。
◆ エピローグ
ベッドに横たわり、スマホを裏返す。背面の冷たさが皮膚を奪い、皮膚を奪われた熱が穴の底へ沈殿する。
アスファルトの下で運河が拍動し、遠くで都市の骨が“キィ”と鳴く。今は錯覚。そのうち老い、そして鳴り終わる。
「お誕生日、おやすみ」
呟いて目を閉じる。明日から、祝われる回数が減る代わりに、払う責任が増える。
空欄は空欄のまま。私はまだ書き込まない。“年”が書ける筆圧を、自分の内側で育てるまでは。
(第1話・了)