第三話 馬車からの脱出
大きく揺れる馬車を走らせているファング家に雇われの管理人2人の話題は、保護した黒髪の青年についてで持ち切りだった。
茶髪の管理人は手綱を両手でしっかりと握り、銀髪の管理人は両手を胸の前で組み、荷台の壁に背をもたれ、揺れに身を任せつつその正体を議論する。
「この近くで見ない顔だったけど、どこの子なんだろうね?」
「さぁな。そもそも黒髪の人なんてスコーピア家の令嬢しか知らない」
「あぁ、噂の『黒蠍』って呼ばれてる?」
「そうだ。後、黒髪で名が知れてるのは伝説の傭兵『黒太子』くらいだろうな」
「俺達が生まれる何十年も前の人じゃない?それ」
2人が知っている黒髪の人物の例として挙がってくるのは、たったの2人であったし後者は教科書に載るような歴史上の人物だ。
ここで、『黒蠍』と『黒太子』の話をするのは余談すぎるので割愛する。
「まぁ、髪を黒く染めて逃げてきた奴隷かもしれないね」
「身元不明だし、その線が有力かもな。元の髪より目立つ黒髪に染めた理由はわからんが……」
──こんな2人の議論で飛び出した「奴隷」や「身元不明」と言う単語が、葵の中であらぬ勘違いを生んで、逃亡という行動へと突き動かすのであるが、彼らはそんなことを知る由もない。
一定のリズムを刻み馬車が走っていき、2人が葵の失踪に気が付いたのは役所に着いた時であった。
それが明後日の朝刊の3面記事になるのであるが、その報道が直接的に大きく世間を揺るがすことにはならない。
──が、確かにここから世界全土を巻き込む相生葵の英雄譚は、密かに開始したのだった。
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──逃げよう。
そう思ってからの俺の行動は、自分でもビックリするくらいに早かった。
底の濡れた黒いバッグを背負い直し、首を90度に傾けて骨をポキポキと鳴らした後に、大きく2回右回し。
間断なく馬が地面を蹴り、荷台に付けられた大きな車輪が回転する音があるから、ある程度の音を立てるのは許容範囲だろう。
揺れる荷台の中で、俺は助走をつけて唯一壁に覆われていない荷台の後方部分へと飛び出す。
「──っと」
踏み込む時に荷台の床が軋むような音が鳴ってしまったが、俺の見立て通り馬車が発する諸々の音にかき消されて、2人の耳には届かない。
俺は、その両足で黄土色の地面にしっかりと着地してその衝撃をいなした。
無事に着地が成功したようで、痛みなどは特にない。大学に入ってからほとんど運動をしていなかったが、なんとか上手くいったようだ。
「よし」
俺は、そのまま向かって左側にある海岸林の中へと入っていく。もし逃げたのがバレたのだとしたら、砂浜では足跡が付いてしまうため捜索するのだって容易だろう。
だけど、海岸林ならば足跡も砂浜よりかは付きにくいだろうし、馬車がそのまま突入することもできない。俺は、木々によって光の遮られている海風の吹く海岸林を走り抜ける。
見える範囲には羽虫しか生物の存在がしなかったし、その羽虫だってジロジロと観察するような時間はなかったので存在を認知だけして素通りだったが、上空では空を飛ぶ生物がバサバサと翼を動かすような音が聞こえた。
きっと、このドラコル王国にも鳥のような生物はいるのだろう。だが、今はそんなことよりもまず逃亡が優先だ。
ここで2人に捕まったら、これまで以上に怪しまれることになるだろう。密入国者の肩書以上のものが貼られ、糾弾されることになる。奴隷になる前に殺されてしまうかもしれない。
そうならないためにも、どうにかこうにか逃げなければ──。
そんな思いを胸に、俺は十数分走り続ける。
風景はあまり変わらず、ずっと海岸林──ここまで走ればただの林が広がっており、その中を一心不乱に駆け抜ける。異世界に来て前後左右もわからない俺だが、森の中には然程前後左右は関係ない。
それどころか、逃亡するためには前後左右がわからない方が優位に働くことだってある。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
森閑としている林の中に俺の浅い呼吸だけが響く。息が切れても尚、見えない敵から逃げ惑うように木々の間を抜けて枝葉の影を踏んでいく。
足を止める暇はない。走り続けるしか、俺の生き延びる道はない──。
「──ッ!」
影に覆われていたはずの俺の視界に突如として光が飛び込み、思わず驚いたような声を出し腐葉土を踏み外していしまう。そのまま転びそうになるものの、なんとか踏みとどまった俺は、肩で息をしながら林を抜けたことに気が付いた。
──広がっていたのは、黄土色の道。
先程の道と違う点としては、その道の両端に雑草が生え黄緑色に変わっているところだろうか。
黄土色の地面には何十もの馬車の通った痕があり、その道がそれなりに主要な道路であることが理解できる。
「どっちに行けば……」
どっちに──と口にしたが、この道に従わずともこのまま直線に走り続けることもできよう。幸い、広がっているのは背の低い植物の生えた草原だ。目立ちはするだろうけれど、人の姿は見えない。誰かの所有地な感じもしないし、そちらに進んでもいいだろう。
選択肢は3つ。黄土色の道路に従って左右のどちらかに進むか、道でない草原を駆け進むか。
「あぁ……クソ、考えてられない」
俺はそう口にして、そこから右折して道筋に沿って進んでいく。
安易ではあるが理由はあった。草原を真っ直ぐ進んでも行き止まりかもしれない。そうなれば、引き返してこの道に戻ってこなければならない。
だが、この黄土色の道標は、確実にどこかに到着するだろう。
俺は、さっきの2人にさえ捕まらなければ今のところは勝ちと言えるだろうし、どちらにせよこの世界で誰にも話しかけずに生きていくことなど不可能なのだ。
お金もないし帰る家もない。幸い服は着ているけれど、裾が濡れていたりとで完全な状態とは言えない。
だから、この道に誰かがいれば声をかけて、なんとか取り付けてその人にお世話になればいい。
最初の方は色々と迷惑をかけてしまうだろうが、それなりに色々と仕事をするつもりだ。
ここが完全な異世界なら、俺が持っている地球の知識を元に物語を作ればいい。というのも、漫画はそれなりに読んでいたからそのあらすじを辿っていけばそれなりに面白いものは作れるはずだ。
異世界転移にすぐさま気付けなかったのは、俺の木が動転していたからで何らおかしなことではない。
「だから、どうか優しい人に……」
欲望が口に出てしまうが、奴隷にさえならなければなんだっていい。
この世界の奴隷制度がどれほどのものかは知らないが、物として扱われるのだけはごめんだ。
異世界にやって来たのに、そんな悲痛な現実を叩きつけられたくはない。
「あ」
道なりに走り続けていた俺の視界に入って来たのは、端に寄せて駐車していた一台の馬車であった。
木の色がそのままの木材を使用した荷台は大きく、大量の荷物をそこに詰めていることが見て取れた。
きっと、この馬車は商人の馬車だろう。そうとなれば、少しは助けてくれるかもしれない。声をかける価値はある。
そう判断した俺は、失礼に当たらないように切れた息を何とか整えるために足を止める。
足を止めると、足取りがズンっと重くなり太ももが発熱したかのように熱くなる。横腹が痛みを発し、うなじに汗が伝う。
馬車を降りてからノンストップで走り続けてどのくらい経っただろうか。体感では、5kmは走った。
ここまで全力疾走したのは久しぶりだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
唾を飲み込み、大きく息を吸い込む。すぐに苦しくなり、大きく息を吐く。近くに生えている木に右手を付けて、そのまま俯いた。
黄土色と黄緑色の境界線が鮮明に俺の目に映り、その上にボトリと大粒の汗が落ちていく。
何度か深呼吸を繰り返し、脳に響き渡る心臓の鼓動が収まっていくのを感じた俺は、地面ばかりを凝視していた顔を上げて、馬車の方へ移動する。
足は重いが、足取りは軽い。俺が見つけることのできた希望だ。
俺は、四方が壁になっている荷台の横を通り、御者台に座る人に声をかける。
「あの、すみません……」
「はい?なんでしょう?」
俺が声をかけると、御者台から降りてきたのは1人の男性。
顎から茶色の髭を生やし、バンダナをおでこに巻いたその茶髪の男性は、俺よりも屈強で俺よりも大きかった。
筋骨隆々とした肉体は灰色のオーバーオールに包まれており、その下には白いTシャツを着ている。
「あの、色々事情があって自分がどこにいるのかとか全く分からなくて。その、この王国のこともよくわからなくて、助けてもらいたいんですけど……」
異世界転移だなんて言葉を使用しても理解されないことは百も承知なので、なんとか言葉を重ねて婉曲的に自分の状況を説明しようと試みる俺。相手は、少し困惑したように太い眉をへの字に曲げつつも、俺に質問してくる。
「えっと、要するに迷子ってことですか?」
「まぁ、そうです。宇宙規模の迷子的な」
俺の状況を「迷子」って言葉をまとめるのも不正確かもしれないが、地球ではないどこかを彷徨っている点では迷子と言っていいだろう。このバンダナを頭に巻いた男性は、俺に親身に寄り添ってくれるいい人だ──。
「おい、聴いたか?迷子だってよ、まさか獲物が自分から歩いてくるとは」
そんな言葉と同時、バンダナを巻いた男性のポケットからキラリと光るものが出てくる。
──前言撤回。
さっきの、「親身になって寄り添ってくれるいい人」という評価は、その男性の手に持たれているものでひっくり返った。
「盗賊をやってて初めてだぜ。売り物が進んで売られに来るのはな」
ナイフを握るバンダナを巻いた男性は、汚い笑みを浮かべる。その後ろには禿頭の男がいて、他にも荷台の上に誰かがいるのか、俺を太陽から覆い隠すように影ができる。
──三対一。状況は、最悪だ。