第二話 異世界転移
異世界転移とは──。
日本のライトノベルやアニメ・漫画などといったポップカルチャーのジャンルの1つであり、主人公が地球ではない別世界へと何らかの理由で移動し、そこで新たな生活や冒険を始めるという物語を指す。
ハッキリと断言すれば、異世界転移とは創作物であり、妄想でありフィクションである。そのはずなのに──
「──異世界転移……ってやつぅ?」
あまりに驚きが大きすぎて、俺は無意識に自分の利き手を口の前に持っていく。
自分の掌と唇が接触するのを感じ、自分の肉体が確かに異世界にあることを理解する。
「なんだい?それは」
異世界転移をしたという驚愕の事実に気が付いた俺を見て、何も理解していない2人の男性は困惑している。
だが、そうだろう。
当事者である俺でさえ、あまりにも現実味が無さすぎるから異世界転移をしたという事実に今の今まで気付くことができなかったのだから、目の前にいる何も関係のない2人が、「俺が異世界転移をした」だなんて事実を察し、何か手を差し伸べてくれるわけがない。
俺は、2人にとって海辺にいる不審者なのだ。
「ここは、なんて国ですか?」
先程聞き出せた単語は、ナール海岸とファング家という単語だ。
前者は今俺のいる海辺の名称で、後者はそこを管理しているお偉いさんの名前であることが理解できる。
「ドラコル王国だよ。もしかして君、密入国でもしにきたのかい?」
どうやら、俺が今踏みしめている砂浜は、ドラコル王国にあるナール海岸というところらしい。
場所に関する質問が多すぎて密入国を疑われてしまったが、逆に考えればドラコル王国以外にも様々な国があるということだ。
水平線が見えている海の先に、ドラコル王国とはまた違った名前も知らぬ国があるということだ。
本当に異世界に来てしまった。
ドラコル王国などと言うこれまでの人生で一度だって聞いたことのない国名を耳にして、その実感が湧いてくる。
一体どうして俺は異世界にやってきてしまったんだ。どうすれば俺は日本に帰れるんだ。何がどうしてどうなって──
「君、身分を証明できるような何かはある?」
「えっ」
1人、自分の置かれている状況について頭をフル回転させていたら、銀髪の男からそんな言葉を投げかけられる。
身分証明書は、大学の生徒証ならあるけれどもそれを出したところでなんの証明にもならないだろう。
「な、ない……です」
言葉を詰まらせるのも余計に怪しまれるだろうから、俺はできるだけすぐにないと返事をする。
だけど、大学の生徒証のことを考えてしまっていたし、返答には1秒以上の時間を食ってしまった。
「そう、ないのね。出身はどこ?」
「あ、えっと……その……」
まさかここで東京とか言っても困らせてしまうし、話がこんがらがるだけなので、俺は変なことを言えない。
わかっている地名は「ドラコル王国」と、今いる「ナール海岸」だけなのだ。
外国からの観光客を装うにしても国名がわからないし、密入国者扱いされても何も言い返せない。
何も言う事ができず戸惑っている俺を見て、目の前にいる2人はアイコンタクトを取り、そして──。
「──君を保護させてもらうね。ちょっと一緒に来てもらえるかな?」
俺はこうして、目の前の2人に保護されることになる。
少し不安は残るけれども、ここで野放しにされても結局俺は右も左もわからないし、行く当てもない。
「──わかりました。お願いします」
俺は、目の前の2人に感謝の言葉を口にして、静かにその後ろを付いて行った。
俺の方へ近付くためについた足跡を上書きするように、俺達3人の足跡が付いて、波の音が次第に遠くなっていく。
俺の人生は、これからどうなってしまうのだろうか。
そんな不安だけが俺の心には残った。
──俺を連れる2人の身分も行先も何もわからない中で、俺は風景に意識を向けることもできずに、俺自身のことについて考えていく。
相生葵──「あ」と「い」と「お」だけで構成されたそれは、れっきとした俺の名前だ。
産まれる前までは女の子だと思われていて「向日葵のようにいつだって輝かしい方を向いて頑張ってほしい」だなんて理由で、女の子らしい葵という名前を付けられたが、生まれた俺はこの通り男の子だったので、両親を驚かせたのだと言う。
それでも、名前を「葵」のままにしたのは、俺のじいちゃんが「葵」という名前を大層気に入っていたようだったかららしい。
父方のじいちゃんにとっては俺が初孫だ。
とても嬉しかったのか、今思えばビックリするほどに可愛がってくれたし、晩年に入れ歯も入れられなくなっても、「葵」と母音だけの俺の名前をハッキリと呼んでくれたのを覚えている。
俺の人生の略歴を見て語るべきは、高校受験をして偏差値60くらいの私立高校に入学したところからだろう。
理系の学校ではあったが、理系分野──物理と数学Bがあまりにもできなさすぎたので、8クラス中2クラスしかない文系を志望し、そのまま漠然と将来に役立ちそうだからと言う理由で経済学部に進んだ。
自分で言うのもなんだが、優等生ではあるからキチンと単位を取る目処は付いていたし、何不自由ない平々凡々とした人生を歩んでいける──と思った矢先に異世界転移だ。
順風満帆だったはずの俺の人生が、途端路頭に迷ってしまった。
一体全体俺が何をしたと言うのだ。これまでの人生を棒に振るって、交友関係がお釈迦になって人生計画がおじゃんになった。
異世界転生なら、死んだ人を呼び寄せているからまだ文句はない。
自殺が理由なら現実世界に恨みがあるから後悔はないだろうし、不慮の事故に巻き込まれたとかであっても、本来は死んでいたはずだから場所は変わったとはいえ生きていけるのはありがたいだろう。
だが、異世界転移はどうだ。
別に俺は地球で生きていくことにおいて困ったことは何一つなかった。
それだと言うのに地球から引き剝がされて、こうして異世界に強制的に連れられているのだ。
しかも、理由がわからない。俺が転移した理由を説明してくれるような人物がいないのだ。
ただ、異世界にほっぽり出されただけなのだ。それで、誰が納得できるだろうか。
まぁ、不幸中の幸いとしては日本語が通じたことだろう。話している言語をきっとここでは日本語とは呼ばない──ドラコル王国が主流となっていたら、ドラコル語と呼ばれるであろうこの言語が、日本語とそっくりそのまま瓜二つであったことは奇跡と言っていい。
逆に、この奇跡が無ければ俺は詰んでいただろう。
言語も理解できぬままに俺は拘束されて、一方的に変な憶測をされて「密入国者」以上のレッテルを貼られていただろう。
突飛な想像にはなるが、「宇宙人」などと考えられ、生きたまま解剖されていたかも──だなんて想像していると、内臓が痛くなるのでやめにする。
──などと考え事をしていると、先導していた2人が足を止めたから俺も足を止める。
気づけば、足元は砂浜から黄土色の土に変わっていた。灰色のコンクリートブロックが無いが、ここが辺鄙な場所だからだろうか。それとも、そこまでこの異世界は文明が発達していないのだろうか。まだ判別するには至らない。
ふと、足元から視線を上げると俺の目に入ったのは、栗色の毛を持つ3匹の馬だった。
馬の姿形は、地球と大差ない。異世界の馬はピンク色──とかじゃなくて本当によかった。
「馬車……」
馬に繋がれている荷台を見て、中世らしさを感じる。
お偉いさんが乗る個室の馬車ではなく、荷台にの後方以外は全て薄い壁で覆われており上部には白い布がかけられて雨避けとして機能していた。
「──さ、後ろに乗って」
「どこへ向かうんですか?」
「役所だよ。君の素性を調べるんだ。戸籍とかね」
「──」
俺は「戸籍」と言う単語を耳にして、思わず喉を震わせる。俺はそんなものこの異世界で持っていないのだ。
他国と連携を取ったとしても、どこにも俺の名前は出てこない。調べるだけ無駄なのだ。
──が、付いていくしか道はない。
ここから逃げ出せば、俺は何もできずじまいに飢えて死ぬ可能性の方が大きい。
「ほら、荷台に乗って」
「──わかりました」
俺は、その茶髪の男の指示に従って荷台に乗る。荷台に乗るのは俺一人だけで、残る2人は御者台に肩を並べて座っていた。
2人の茶色と銀色の後頭部だけが、荷台と御者台との壁にある小窓から覗いている。
数分もしないうちに俺を乗せた馬車は動き出し、Uターンして黄土色の地の上を軽快な音を立てて走っていった。
ガタゴトガタゴト。お馬が走る。ガタゴトガタゴト。荷台が揺れる。
御車台を背にして、俺は走っていく外を眺めていく。
右手側には砂浜と海が見えて、左手側には、海岸林が見えていた。
砂浜と海岸林に挟まれた黄土色の道を走るのをしばらく眺めていても、風景は変わってこないので、俺はそのまま視線を下げて、荷台の床の木目を目でなぞりながら、今後の人生を憂慮する。
これから、一体俺はどうなってしまうのだろうか。
無事に、地球に帰ることができるのだろうか。帰ったとしても、何年と時間が経過していれば、そこからやり直すことは難しいだろう。
この異世界転移を本にしたら──いや、くだらない妄言として、笑い者にされるに違いない。
きっと、もし仮に俺以外の人が「異世界転移をした」などと語ったとしても、十数分前の俺は信じなかっただろう。
「──嫌だな」
無意識に喉が揺れて、俺の胃心肺肝から絶望が零れ落ちる。
無限に湧き上がってくる最悪の未来を前にして、俺は絶望してしまう。
今後、自分がどんな人生を歩むのか、全く予想することができない。
地球ではできた、漠然と就職して、漠然と仕事をして、漠然と退職して、漠然と老後を経て、漠然と死ぬ──そんな、漠然とした妄想や想像が一切働かない。
土地が、文化が、伝統が、伝承が、技術が、歴史が、思想が、要するに何もかもが違うから、俺のこれまで培ってきた常識や偏見が全く武器にならないのだ。
異世界転生で何かに生まれ変わっていれば、もう少しマシな生き方を説明される機会はあったかもしれないし、異世界転移で俺をこの世界に召喚した人がいればもっと楽だっただろう。
だが、いないまま放置されている今の状況下では身分も保証されないし、人生お先真っ暗だ。
「クソ、クソ、クソ」
外部から来る情報を完全に遮断しようと、その場に蹲る俺だったが、そんなのお構いなしと言わんばかりに俺の2つの耳に入ってくるのは揺れる馬車の動く音。
一定の間隔でギシギシとどこかが軋むような音が聞こえて、バカラバカラとタイムリミットが迫るように走っていく。きっと、この馬が止まれば、俺は役所やらに出されて色々と尋問されるのだろう。
「密入国者」とか「隣国のスパイ」とか様々な蔑称を付けられる最悪の未来が、頭の中を何度もちらつく。
──と、動き続ける馬車の中、御者台から声が俺の耳にふと入り込む。
「~~~~~奴隷か~~~~~」
「身元不明~~~~~~~」
馬車の走る音が大きく全ては聞こえなかったが、「奴隷」や「身元不明」という単語は入ってきた。
その2つの単語を聴いても、俺は自分の未来を簡単に予想することができた。
俺が行われるのは保護じゃない。
俺が役所に連れていかれて、身元がわからなければ、国外追放ではなく、奴隷として売られることになるのだ。
「──おいおい、そんなの勘弁してくれよ」
奴隷にだけはなりたくない。
そんな思いを胸にした俺は、自分でも驚くほど即断即決で、バレないようにコッソリと、だが異世界の冒険の開始に相応しいような勢いで走る馬車の荷台から飛び降りたのだった。